虹のワルツ

71. 居場所の排除(琉夏)

そのときその場所に俺がいたことを、誰も知らない。

偶然通りかかった先で、偶然夏碕ちゃんが泣いているのを見てしまった。
この人も泣くのだ。こんな風に、泣くのだ。
打ちのめされるような光景に呆然と立ち尽くすだけで、俺は何をしようとしていたのか忘れてしまった。
今までしてきたことが正しかったのかわからなくなった。
この先どうすればいいのかなんて、これっぽっちもわからなかった。




「なんか……バカだ、俺」
五時間目をサボタージュして屋上に寝転がっていると、ますますバカみたいに思えてきた。これ以上欠席しようものなら卒業が危ういって誰かに言われたような記憶があるのに、まっとうに生きられるなら生きてみようと思っていたのに、やっぱり逃げるのが楽で、楽なほうへずるずると落ちていく。
グラウンドから、ボールを打つバットの乾いた音が聞こえてくる。飛んでいったボールはエラーになったのだろう。しばらくすると、ため息のような歓声が尾を引いて消えた。
晩秋の肌寒さに凍えるけれど、空は晴れていて太陽がまぶしい。
しばらくそうしていて、知らない間に眠ってしまいたかった。けれど、喉に張り付いた後ろめたさがそれを許さない。
実際バカだよな、俺。
感傷に浸っていながら、どこか冷静になってしまっている。
よくよく考えれば、一体どこの誰が、“不特定多数がどこへ行ったかわからないスリッパで歩き回った屋上”に大の字で寝転ぶだろうか。
なんとなく気持ち悪くなって、腹筋に力を入れて跳ね起きる。
風が、だいぶ伸びてしまった髪を乱した。毛先が唇にはりついたり、鼻の頭をくすぐったりして居心地悪い。

『あの時さ、俺があんなこと言うべきじゃなかったのかもな』
そう言うと、美奈子は難しそうな顔をしていた。
多分、美奈子が考えていることは俺と同じ。
“きっと俺が言っても言わなくても結果は変わらない”、だったんだろう。
コウも夏碕ちゃんも何も言わなかった――いや、言えなかっただろうし、最終的に空気の悪さに堪えかねた誰かが、あの彼女を糾弾するなりなだめるなりして、同じ状況になっていたに違いない。
俺は結果が訪れるのをただ早めただけだ。正当化してるわけじゃない。あの子を傷つけたことはよくわかっているけど、他人が誰かに、何かしらの影響を与えるなんてコトは、そんなにあるとは思えなかった。
それでも、何か取り返しのつかないことをしてしまったような気がしてならない。
あの涙が誰を想って流されたものなのかはわかっても、何が直接の原因なのかわからない。
俺の知らない、二人の間にあった出来事のせいかもしれないし、もしかしたら夏碕ちゃんはコウとあの子の仲を誤解しているのかもしれない。
なんて、そんなことは絶対ないだろうけど。

「…………ウソ、だな」

絶対なんてない。誰が何を知っているのか、考えているのかなんて、わかったもんじゃない。
誰かの善意と悪意が絡み合って、時々しょうもない悲劇が起こったりもする。
美奈子が俺じゃなく、コウにだけ進路のことを話していたこと。つまんないことを思い出して、ちょっとだけ俺は笑った。
思い返してみればくだらないことで悶々としてた。俺だって、“秘密”はまだ夏碕ちゃんにしか言ってないのに。お互い様だ。
ヒムロッチから進学を勧められて、それに辟易していた俺に進路の話なんて誰もしなかった。美奈子もそうだった。それだけ。大体、聞かれもしないのに進路のこと話すやつなんて、よほど自分に自信があるんだろう。聞かなかった俺にだって、非はある。
まぁ、コウはあの時ちょっと、鈍かったけど。
でも、それがどんなに下らなかったりつらいことでも、好きな人のことは何だって知りたいのかもしれない。俺だけじゃなくて、みんな。
進路の話だって、ちゃんと言われてれば俺だって真面目に自分の今後、もっと早く考えてたかもしれないな。
なんてことを言うのはズルイ気がした。
話し上手で聞き上手の美奈子も、俺のこともっと知りたいって思ってるんだろうか。
これからのこと、今のこと、これまでのこと。
どんなにつらくても聞いてくれるんだろうか。聞いてくれたあと、どうなってしまうんだろう。
離れてしまう?それは、いやだ。
そばにいてくれる?本当に、いつまでも?
そう、きっとそれが怖い。
そして本当に好きな相手ほど、反応がわからなくて、何も言えなくなる。
何も言わないままの今が心地よくて、ずっとこのまま上辺だけの甘い関係でいたくなる。だって、”話したら、知ってしまったら、つらいことになるだろうな”なんて、嫌なことを想像せずにすむから。
でもそれはある日突然、毒に変わってしまうんだろう。
今日の、夏碕ちゃんのように。
だけど昨日も明日もない“今日”だけの世界なんて、そんなのは嘘っぱちだ。
どっかのかっこつけミュージシャンが歌ってそうだけど、傷つかないで生きていくなんて無理だ。
傷ついて傷つけて、ちょっと賢くなったら傷つく前に傷つける前にうまいことやって、それでも時々は傷ついたり誰かを傷つけたりして、血だらけでのた打ち回って生きていくしかないんだ。
うまいことやっていけるようになるために、俺たち多分、生きてるような気がした。
たかが18年しか生きてないくせに何生意気言ってんだって、誰かに笑われそうだけど。

だからさ、やっぱ俺は美奈子に“秘密”を打ち明けなきゃいけない気がする。
それで多分、お互い打ちのめされて、途方にくれて、罵り合ったりわんわん泣いたりするかもしれない。きっとそれが必要なんだ。
美奈子は“かわいそうな俺”を知ったら、同情して優しくしてくれるのかもしれないって思ったこともあった。まるでみっともないご機嫌取りのように。
そして多分俺は、“だってかわいそうだから”って自分を納得させながら、その優しさという名の暴力を受け入れるのだろうということも考えた。
同情されるのはイヤだって思ってたくせに、都合がよくて図々しいにもほどがある。
反面、どんな我侭も受け入れてくれる美奈子になってしまったら、俺はそれに甘えてずるずるダメになっていくだろうって確信した。それは間違っているって知っていながら、ゾクゾクするような背徳におぼれたいとも思った。
美奈子がそうしないとは言い切れなかった。同情してほしくはないけれど、もし俺が相手の立場だったら、少なからず態度は変わるだろうなと思うから。
だけどやっぱり、それはダメだ。もしそうなったとしたら、俺は美奈子から離れなきゃいけない。
俺一人がだめになっていくだけならまだしも、それに誰かを巻き込んでいいわけがない。
美奈子じゃなくても、誰も、俺と一緒に落っこちる必要なんてないんだ。
コウだってさ、そうだ。
俺を守るためって、あたりかまわず喧嘩して、そんなのダメだって言う勇気がなくて、俺はせめてコウだけが悪者にならないよう、喧嘩の輪の中に入っていった。
子供の俺は、そして子供だったコウも、他に方法なんて思いつかなかったから、そうするしかなかった。
だけど最近思うのは、そうして二人同じようなことをして、二人まとめて“悪ガキ兄弟”って呼ばれることで、俺は自分の居場所を確保しようとしたのかもしれない。居場所なんてもうどこにもないんだって、言い聞かせるように生きてきた俺でも、そうやって十把一絡げに“兄弟”って呼ばれれば、時々は楽しかったし、嬉しかった。
だけど本心は、俺が喧嘩するのを嫌がったコウの、不器用な優しさが辛かった。

“お兄ちゃんがあんなふうだから……”

そんなことを言われて、結局悪者になるのはコウだけだった。自分の力ではどうしようもないことを言われて腹が立った。
初めて俺一人で誰かに喧嘩を売ったのは、そのころだった気がする。
ピアスを開けて、しばらくしたころのこと。
何か形のあるものにすがらなきゃ、足元が崩れるものだと思っていたころのこと。

俺が家を出たのは『こんなことばっかやって、二人ともダメになるなんて馬鹿げてる』って理由だった。
もう一つ大きな理由はあるけど、それもひっくるめて、俺が一人になればいいんだって思った。
俺がちゃんと一人で生きていけるってわかれば、コウだってもうほっといてくれるって思ったのに、どうにも過保護が染み付いていたらしい。一も二も無く、それが当たり前のように『俺も行く』って言ったコウの、呆れたような声を今でも昨日のように思い出せる。
でも、嬉しかった。こんなこと言うのは恥ずかしいから、絶対言わないけど。
おかげで俺の生活能力はちっとも向上してないし、相変わらず無茶やってばっかりだ。
あのまま、二人だけだったら、そのうちギクシャクするようになってたんじゃないかな、と最近はよく思う。もしそうだとしたら、きっと俺たちは兄弟にも友達にもなれずに、ただただ喧嘩に明け暮れたりしてたに違いない。
美奈子がいてくれてよかった。
夏碕ちゃんがいてくれてよかった。
泣きたいのをひた隠しにしてつっぱって生きてきた分、誰かの偽りない優しさに飢えていたのは俺たち二人ともそうだと思う。
甘えられるなら、――コウなら顔を真っ赤にして『男はそんなことしねぇんだよ』って言いそうだけど、誰だって甘えられるなら甘えたいに違いない。さりげなく生活の隙間から入ってきて、居座ってしまった愛おしい存在をいつだって感じたいと思うことだって、甘えることに他ならないだろう。
それを隠して、俺にかまってばかりのコウが腹立たしかった。好きな子をほっぽいて、俺と美奈子のために泥にまみれようとするのもムカついた。憎いとか、そういうわけじゃない。なんでアイツは、自分のために何かしようって思わないんだ、って。そうしてまた俺のせいで何かが壊れていくのが怖かった。誰かの幸せが誰かの犠牲で成り立つなんて思いたくなかった。
だから夏碕ちゃんがそんなこと気にしてなければいいのにと願っていた。コウなんていなくても生きていけますよって顔で、学園祭のステージを成功させてくれれば、コウだって傷ついたり、後悔するだろうって思ってた。
伸ばされていた手を見ないフリしていた罰が下ればいいんだって思っていた。
なのに、

「やっぱ、ダメだな」

コウが不幸になることと、夏碕ちゃんが不幸になることは、同じだ。
あんな泣き顔見て、何も感じないフリはできない。
誰かの不幸なんて望んでいない。
自分が不幸であることももう望めない。
俺一人で不幸になるということは、誰かと一緒に幸せになることよりもずっと難しく、誰かと一緒に不幸になるのは何よりも簡単だと思う。生きている限り、俺の隣にいる誰かが、俺の手をとってずるずると不幸に“なってくれている”のだから。それは多分、優しさでもなんでもない。ただの逃避だろう。
バカみたいに生きてきたなりに、わかったこともあるんだ。
なぜなら人は、幸せになるために生まれてきたんだから。
自分でもクサいこと言ってるのはわかってる。だけど、あの雨の日以来、夏碕ちゃんと二人だけのオープンキャンパスに行って以来、どんなにかっこつけでもクサくても、それが真実なんだろうと思う。人が努力し、頑張るのは、幸せになりたいから。そうだろう?
そして、“幸せに”生まれるんじゃなくて、“幸せになるために”生まれるんだと信じていたい。
望むため、実現させるために手を伸ばせば、いつか必ず手に入るのだと信じたい。
太陽のほうへ手をかざしながら、目を薄く開ける。白い光が痛いほどに目を射すけれど、眩しくても見ていられないわけじゃないんだ。
だから、まずは手を伸ばさないと。手を伸ばせば触れ合える距離に、いるんだから。

20120407