虹のワルツ

72. 今も昔も変わらないのは理由だけ(琥一)

学園祭の日、どちらかというと俺の気持ちは明るかった。
別に自分が出る演劇が楽しいわけじゃない。どちらかというと、無理矢理出演させられるこの演劇のせいでここのところは心底参っていた。

鈴木たちと一緒に、例の女をどうにかこうにかなだめすかして演劇に復帰させてからというもの、ヤツはどう勘違いしたのか俺に付きまとってくる。うっとうしいを通り越していっそぶん殴ってやろうかと思うこともあった。
とはいえ、さすがに相手は女だ。マジで殴る気はない。ないが、殴るとまではいかなくても、文句の一つでも言ってやればよかったのかもしれない。
が、鈴木、ならびに佐々木連合の『やー。あの子きっとそんなことしたら“劇なんか出てやんない!”とか言うよ。絶対言うよ。そんなんじゃ今までの艱難辛苦が水の泡だよー』の言葉でぐっと我慢した。確かに二人の言うとおり、そうなってしまえば元も子もないってモンだ。何のためにこんな女に頭を下げに行ったのか、意味がなくなってしまう。いつもへらへら笑っている鈴木も、ろくに話したこともない佐々木という女も心の底から俺に同情してくれているようで、それだけは、俺の苦難を理解してくれる人間がいることだけはありがたかったのだが。
とはいっても説得しに行くと言ったのは他ならぬ俺だし、それは多分、妹のように思っている幼馴染がどれだけこの劇を、いや学園祭を楽しみにしているか知っているからだろう。そして小波はロミオ役がルカじゃなくても、高校最後の学園祭を心待ちにしていたに違いない。

俺がしてやれるのはきっとこれくらいだ。
堪えた。堪え難きを堪えた。それも今日で終わる。
そういうわけで、俺はここ数日に比べれば断然機嫌はよかった。苦難の日々(というと大げさだが)が終わることと同時に、鬱陶しく付きまとってくるあの女と一緒にいるところを運よく瑞野に見られないまま最後の日を迎えることができてよかったと安堵もしていた。
気が早いが、やり遂げた充実感のようなものを覚えていた。その反面、瑞野のいる前で起こったあの日の出来事は到底なかったことにはできそうにないし、今日の本番を見れば、いや、見なくても、あいつはあの日何が起こったのかわかってしまうだろう。大体、あの女が吹聴してまわっていた可能性だって大いにありうる。そうじゃなくても誰かから聞いているに違いなかった。
だけどそうじゃないと、みっともない釈明を繰り返してもいいだろうか。信じてもらえるのだろうか。
すぐにでも話せばよかっただろうに、俺も忙しいし瑞野も忙しいだろうというもっともらしい理由でずるずると先延ばしにして、結局今日になってしまった。
怖気づいていただけじゃない。もしかしたら何も聞いていないかもしれないなんて希望的観測にすがっているわけじゃない。
アイツなら何も言わなくてもわかっているだろうと、半分は願っていたし、もう半分は信じてもいたからだ。

中途半端な憂鬱感をため息にもできない俺の目の前を、浮かれた大勢の生徒が目の前を行きかう。
学園祭が始まった。


***


「あれ?今年も用心棒?」

開始早々に鉢合わせた小波が腕章をまじまじと見つめながら、どこか気の毒そうに尋ねてくる。俺だってまさか今年もやらされるとは思わなかったけれど、劇の出番を除けば瑞野のステージ以外に見たいものはないし、最後の学園祭が滞りなく進行するために必要なら別段異議はない。
ということを、瑞野のステージ云々を抜きにして口にすると、小波は真面目腐った顔で「琥一くんも大人になったねえ」としみじみしている。
受験の心労は、人を老け込ませるのだろうか。などと言おうものなら容赦ない反論が飛んできそうなのでやめた。このところ口が達者になっている幼馴染は――

「ウソッ!あれReD:Cro'zのハリー!?」

突然、廊下の端でざわめきが起こった。
なんだと思って俺たちも視線をやると、点々と群れを作る動物のように集まっているいくつかの女子のグループが何かを一様に見つめている。
俺と小波から少し離れたところに集まっている女子の集団も浮き足立ったように騒いでいた。嫌が応にも耳に入ってくる甲高い声はみるみるうちに膨れ上がる。
「イノもいるー!ヤバイマジ二人ともかっこいいっ!」
「ていうかその隣の人も超イケメンじゃない!?」
「あー!紺野先輩に設楽先輩もいる!あーん!相変わらず素敵!」
「アタシはその後ろの人が好みだなあ。……え?てかあの人、パンフに載ってた前の会長じゃない?」
「マジ?あんなかっこいい人いたなんてぇ……わっ!その隣の人もマジヤバイ!」

話題の的になっているのは、1、2……全部で7人の男、それからそのうちの一人にくっつくようにしている女が一人。
騒ぎ立てる女どもには及ばずとも、小波も異様な風景に息を飲んでいた。
その中の何人かは俺も知っている。まず聖司と(元)会長。それから商店街の喫茶店の店員と、いつかのバンドのギターが二人。
赤茶けた短い髪と、眼鏡と、女は、知らない。
彼らはそれぞれ顔見知り以上のようで、歓談しながら廊下を歩いている。こっちに向かってくるのを察して、周りの女どもがいきなり、そして徒労にしかならないだろうが身だしなみを整えだしている。呆れたくなった俺の視界の端、階段の上から見慣れた姿が踊りだした。

「あー!夏碕ちゃん!ここだよー!」

声を上げたのは集団の中で一番背の低い女だった。誰かによく似ている軽やかな声に、今度は男子生徒も振り向いた。
なんだ。やっぱり知り合いだったのか。
小柄にも関わらず大きく手を振った先は、瑞野。連絡を取り合っていたのだろう、携帯を握り締めた当の本人は、

「あかりさん!――って、」

嬉しそうに笑顔を向けるもののすぐに目を白黒させている。場所が離れていても、澄んだ声はよく届いた。

「えっ!?ていうか佐伯さん、にハリー先生に……えっ、えっ!?」
「ほら困ってる。だからこんな大所帯で来るの迷惑だって言っただろ……」
「だって赤城くんも氷上くんも久しぶりに会ったんだもん。一緒でもいいでしょ?」
「僕はかまわないよ」
「そうそう。せっかくだしね。……悪いね、佐伯くん」
「悪びれもせずによく言うよ……」
「ごめんねえ夏碕ちゃん、お兄ちゃんに免じて許して」
「お前まだそんなこと言ってたのかよ……」
「なんだ瑞野、お前兄弟いたのか」
「……設楽、瑞野さんのお兄さんが井上さんなわけないだろ」

多重音声。全員が取り囲むようにガヤガヤと瑞野に一気に話し掛けている様はかなり異様だった。
というか、瑞野はこの全員と知り合いなのだろうか。
ほとんど全員年上に見える。いや、見えるも何も実際、年上だろう。
対応に困ってしどろもどろの瑞野を、先ほどの女子の一団が羨ましそうに見つめていた。

「へー……瑞野さん知り合いなんだぁ……」
「すごくない?全員年上っぽくない?」
「はばチャの表紙だもんねー……なんかアタシたちと住む世界違うっていうかぁ」
「紺野先輩とかとも仲良かったもんねえ……うらやましいなあ」
「ああしてるとさあ、やっぱローズクイーン候補ってカンジするよねぇ」
「あ、わかるー!アレ全員女王の取り巻き的な?」
「ねね、ひょっとしてあの中にいたりして!彼氏!」
「えー?じゃあフラレたの?桜井――」
「シーっ!ばかっ!」

俺がいるのに気がついていなかった女子の肩をどつきながら、別の女子がその手をひいている。
一団は気まずそうに俺のほうを見ると、そそくさと退散していった。
あのまま会話を続けられるのと、腫れ物に触るような態度で後ろ指を指されるのとどちらが楽だろう。どちらも変わらない気がした。
少なくともすぐそばにいる小波が、ヤツらと同じような困った顔で逡巡しているのを見ているよりは気が楽だろう。
小波はどうしたものか悩んでいるようだった。ここから逃げてもいいかもしれない。見届けたほうがいいのかもしれない。
どうしたらいいのかわからないのは、多分二人とも、だろう。


「ああ、そうだ」

ずいぶん離れているはずなのに、聖司の声がよく聞こえる。目の前数メートルから先は夢の中の出来事のように、陽炎のように揺らいで見えるような気がした。もしかしたら現実じゃないのかもしれないなんてことも考えた。なわけない。
夢だとしたら、この、喉の奥に鉛がひっかかっているような重い感覚は、何だ。
聖司は珍しく手に大きな荷物をぶら下げている。と思ったら、その紙袋ごと瑞野に手を差し出した。
立ち尽くしたまま、俺と小波はそれを見ている。
どこへも行けないまま、誰にも気づかれないまま。

「やるよ」
「えっ!?なななんですかこの大きな紙袋……わっ!」
「すごーい!綺麗な花束!よかったねえ夏碕ちゃん!ちょっと持ってみなよ?」

『あかり』と呼ばれていた女に手伝われながら、瑞野は花束を持ち上げた。大きい。両腕を回しても抱えきれないくらいに。白と赤とピンクのバラの花が、数えるのもバカらしくなりそうなほどの数、纏められていた。
埋もれそうなバラの花束に負けないくらい綺麗な笑顔で、頬を薔薇色に染めて、そうして瑞野はそこにいた。
俺がここにいることを、見つめられていることを知らぬまま。

「い、いいんですか……?こんな大きな、あのその、品のない言い方ですけど……た、高そうな……」
「いいよ。うちの庭に咲いてたやつだし気にするな」
「そういう問題じゃ……。でも……ありがとうございます!」
「その分ステージに期待しててやる」
「プレッシャーだなプレッシャー」
「ハリー先生!」
「しかし設楽君。花束というのは演奏が終わってから渡すものじゃないのか?」
「それは……」
「そうなの?氷上くん?」
「クラシックのコンサートとかでさ、演奏終わってから花束渡すアレだろ?」
「へえ!瑛くん意外に物知りだね!」
「意外は余計」
「お前ら人のガッコの学祭でいちゃつくなよ」
「妬くなよーのしん」
「誰が!」
「まぁまぁ……でもまだ始まったばかりだろ?ステージも午後からってパンフに書いてあるし。そうだろ紺野?」
「えーと、そうですね。まぁ僕にはなんとなく理由がわかるな……多分設楽は持ち歩くのが――」
「持ち歩くのが面倒になった。いいだろ別に、今でも」
「え、ええと……はい」
「しかし確かに、花束は女子が持っていたほうが華やかで絵になるな」
「あ、どうも……」
「設楽、氷上さんには悪気はないから……」
「は?何言ってるんだ?紺野」
「いや……なんでもないよ」
「でも氷上くんの言うとおり、よく似合うよ」
「あ、そうだ!綺麗ついでに笑って笑って!このまま写真撮っちゃおう!」
「じゃあお兄ちゃんとツーショットね」
「…………」
「ハッハッハ!のしんくんジェラってるー!」
「呆れてんだよ」
「ハイハイ!じゃあもうみんな入っちゃえ!夏碕ちゃん後でわたしとも撮ろうねー!」
「はい!」



『住む世界違うっていうかぁ』

『女王の取り巻き的な?』

『えー?じゃあフラレたの?桜井――』




「あ!琥一くん……!」

見ていられなかった。というより、これ以上見ても何にもならない気がした。
住む場所が違いすぎることなんて、最初からわかっていた。わかりやすいように思い知らされただけだ。何を気にしてる。
背中にかけられる小波の声に知らん顔をして、その場を立ち去った。
何もしていないのに何か恥ずかしい失敗をしたような、穴があったら入った上から土をかけてほしいくらいの気分だった。
そうだ、何もしちゃいない。何もしなかったからこうなっちまったんだろう。
きっとチャンスなんていくらでもあった。いつだって会いに行けた。電話だってメールだって出来た。帰り道に呼び止めることだって、廊下ですれ違ったときだって。
だけどそうしなかった。
見かけるたびに後ろめたさが頭の中を這いずり回って。
今のように見ないふりをして立ち去るだけだ。見ていない、知らない。そうしたら何も感じないし、苦しいことなんて本当は何もないような気がした。
気のせいだってことはわかっている。逃げているだけだということも、そんなことは他ならぬ自分自身がよく知っている。
それでも、決定打を打たれるより、ほんの一筋の希望にすがっていたかったのかもしれない。
それが結果的には、自分を追い詰めるということさえ知らず。

20120415