虹のワルツ

73. もう一度だけでいいから(琥一)

ふり切るようにしてその場を後にした俺は、あてどもなく校舎の中をうろうろしていた。実際、用心棒に目的地があるわけがない。だからこのまま、足の向くままに歩き回っていてもよかったのかもしれない。
けれど情けない俺は“鉢合わせたくない誰か”に会いたくなくて、事務的に校舎を一周した後は暗い体育館にたどり着いていた。何を見るでもなく、盛り上がっているステージとフロアが場違いな気がして、せり出した二階から下を眺めているだけで。
照明のかけらすらも届かない、人が来ることもないここにいれば、誰にも見つからないだろう。凭れた柵の冷たさも、時折湧き上がる歓声すらも自分とは関係のない出来事のようだった。
柵に乗せていた腕を組みなおすと、腕章が小さく音を立てた。生徒会の一人がふざけて作った『用心棒』の腕章がイヤに目障りで、はずしたそれを俺はポケットにつっこんだ。
用心棒なんて、もう必要ない。
毎年何もなかったんだ。しいて言うなら一年の時には、“誰か”に絡んでいた、ふざけた上級生をおっぱらったくらいで。
それももう起こるわけがない。誰かの周りには大勢の人間がいて、危ない目にあうこともないだろう。
そう、きっと今年だって何も起こらない。
多分、俺の身にも。



***



「張り込みご苦労様です!」
「おうっ!?」
突然近くで叫んだのは小波だった。近づかれたことにも気がつかず、ぼんやりしていた俺は体勢を崩して逆側に後ずさった。小波は、なにやら得意そうな顔で敬礼までしている。
「オマエかよ……何だ、張り込みって」
「またまたぁ〜。さっきからずーっとステージを張り込んでたくせに〜。タイガー刑事」
「デカ?……ああ、刑事…………ってそうじゃねえだろ」
「張り込み中のタイガー刑事に差し入れだぜ!へい、ドラゴン刑事!」
「無視かよ。なんだドラゴンって」
「ほい。張り込みと言えばあんパン」
妙なテンションの小波の後ろにはルカがいた。両手に大きなビニール袋を持って。
「だからなんで張り込み…………って全部あんパンかよ」
覗き込んだビニール袋の片方はあんパンの山で、もう片方は紙パックの牛乳(1リットルが3本)だった。いや、確かにあんパンには牛乳かもしれねえけど。
「あんパンだよー」
「うまいよ、このあんパン」
「こんな胸焼けしそうなの食えるかよ…………」
見ているだけで気分が悪くなりそうなあんパンの山から視線をそらしつつ、ちらりとルカの顔色を伺った。平然としているように見える。
「まぁまぁ。そう言うと思ってほら、タイガー刑事にはベーコンツイストに、カレーパン」
「なんだよ、ちゃんとあんじゃねえか。それよこせ」
小波の手からひったくった二つのパンも、それから無数のあんパンも、素人がやったに違いない包装に思えた。
どういういきさつでコレが手の中にあるのかとベーコンツイストを眺めていると、
「今年のね、新名くんのクラスね、ベーカリーカフェなんだって!最近商店街にオープンしたパン屋さんに、宣伝するからってことで安く仕入れさせてもらえたみたい。おいしいよね、このパン」
ニコニコしながらあんパンにかじりつく小波が、まるで自分の手柄のように語りだす。まぁ、誰かにいいことがあればまるで自分のことのように喜ぶやつだ。新名が苦労したのかどうかは知らないが、大方色々聞いて感情移入しきっているんだろう。
反面、さっきあんなことがあったのにもう笑っているのかと思うと釈然としないものがある。確かにコイツには関係ねえかもしれないが、それでもずいぶん気遣わしげな目で見られていたような気がするのに。
ちょっと苛立ちながらその横顔をじっと見ていると、
「あ、ミヨからメールだ」
開いた携帯のバックライトに一瞬、不安げな目が照らされた。思わずはっとしてしまう。
そ知らぬフリをしながら、本当は気を遣って来てくれた。すげえヤツだよ、オマエは。
男のちっぽけなプライド、いや、俺の性格、わかってんだろうな。あからさまに同情されるくらいなら笑われたほうがマシだってこと。
心配されたことと、それを疑っていた自分の情けなさが身にしみた。
中途半端に掴んだままのベーコンツイストを項垂れながら見下ろすしかない。

「ほらコウ、あんパンも食いな」
「…………いらね」
ルカが無遠慮に突き出してきたあんパンを、視線も合わせずにつっぱねる。
俺は何してんだ。
あの時も今も、ルカは誰に言われたわけでもなく、汚れ役に徹したのに。
今思えば、俺があの女を説得しに行ったのだって、あの場を誰よりも早く収めようとした“弟”に張り合う気もあったのかもしれない。我ながら、なんであんなことしたのか未だに全貌がつかめない。
「じゃあ牛乳。ほら」
「おう」
正直言えばコーヒーを買いに行きたいが、後ろめたさも手伝って牛乳パックを受け取った。一リットルも飲めるわけはねえが。
「受け取ったな?ヨシ。今なら牛乳にもれなくあんパンがついてくる!」
「押し売りじゃねーか……。いらねっつってんだろ」
「えー?美味いって。それにちゃんと食っとかないと本番で腹鳴るよ?」
「本番?ああ、劇か……。鳴らねえよ。ンな甘ぇモン食うか」
「知らなかったかもしれないけど、実はあんこって肉を甘辛く煮て……」
「ねえだろ」
小波が携帯をポチポチやっている横で、俺とルカはそんなくだらないやり取りをしていた。こんな風に話すのは久しぶりのような気がして、それでもやっぱり気まずさに視線を会わせきれずにステージのほうだけ向いてしまう。
すぐに元に戻るなんて、あの日小波を安心させるために言ったことは嘘でしかなさそうだった。そうじゃなきゃ、ただの願望。誰かが何とかしてくれるわけがないのは知ってる。なのに、自分が勇気を出す前になんとかなればいいと思っていた。
たった一瞬でしかなかっただろう沈黙が、息が詰まるような永遠に思えた。
もっとも、そう感じていたのは俺だけで、ルカはそうでもなさそうだった。
「ちぇ。じゃあ美奈子、あんぱーんち」
「ふぇ?」
ルカが拳ごと突き出した(もちろんふざけているから力なんて入っていない)あんパンが、小波の頬にぐしゃ、と当たった。あんパンの皮と小波の顔がそれぞれ微妙につぶれてしまっている。
間抜けな声とあっけに取られた顔がおかしくて、俺は思わず噴出していた。突然の感触に呆気にとられたのか、それとも何が起こったのか理解していないのか、小波は目をしぱたたかせながら、肩を震わせる俺を覗き込んでいる。
「え?え?な、なに!?」
「アンパンチが面白かったんだって」
「あん……?ぶっ、アンパンチって!」
小波もおかしそうに笑い出した。眼下のフロアで、何人かの生徒がこっちを見上げたような気がした。気のせいだろう。ステージでボケとツッコミに精を出している2年のコントに、ギャラリーのほとんどが夢中で笑い転げているのだから。
「うわ、なつかしー!琥一くんも見てたの?」
「きっと一緒に見てたよ。な、コウ」
見てない。多分。
「……ウルセ。食いモン粗末にしてんじゃねえよ」
だけど笑えてくるのは、見ていたせいかもしれない。いいや、そんな問題じゃなくて、張り詰めていたのが緩んで、安心しただけだ。
同じ場所で同じ時間を生きたわけでなくても、同じものを見ていなくても、今笑いあえるなら過去なんてさほど、気にするものじゃないんだと思えた。ずいぶん長い間、くだらないことに拘って生きてきたような気がする。そう、ずっと拘っていたはずのそれが何だったのか、もう思い出せないことが嬉しかった。
「はっひふーへほー!とか?」
小波はもう、誰の機嫌をとるわけでもなく、自然に口真似をしていた。
「ブッ!」
「ぷ……アハハ!オマエ、それもいいけどドキンちゃんだろ?」
今度はルカもツボったらしく、「ドキンちゃんやってみ?」と小波をせっついている。
「えー?ドキンちゃんの口癖とかないでしょ?」
「あるじゃん。“食パンマンさまぁ〜” ほら言って?」
「ええー……」
「ぶはっ!……ルカてめ、気持ち悪ぃ!」
「なんだよ、カレーパンマンのくせに偉そうだぞコウ」
「ああ、ぽいぽい!琥一くん、カレーパンマン!カレーパン食べてるし!」
「誰がカレーパンマンだ、誰が!」

いつの間にか俺たちは床に腰を下ろして、めいめいのパンにかじりつき、そして一本の牛乳を回し飲みしていた。
この二人は俺の弟と妹じゃない。だけど、弟で、妹だ。
考えなしに人数分の牛乳パックを買ってくる弟と、飲みきれないから一つのを全員でわけようなんて無邪気を言う妹だ。兄貴は損だなんて思ったこともあるけれど、一人でいるよりずっといい。
きっとそのくらいわかっていたのに、エゴイズムになりかけていた保護欲を拒絶されることが怖かったのかもしれない。兄貴じゃなきゃ、誰かのそばにいられないなんてことはないんだ。
誰が誰の面倒を見なきゃいけないとか、貧乏くじを引かなきゃいけないとかは、多分もうない。弟だって妹だって、気を遣って兄貴を励まそうとしたりするんだから。俺たちはただの、兄弟って名前の、対等な関係だ。
それのどこがおかしいだろうか。何を恥じ、情けなく思う必要があっただろうか。



***



「あっ」
「お」

信じられないことにあんパンをいくつも平らげ、腹いっぱいになって満足そうなルカと小波が声をあげたのは、ステージに瑞野が――新体操部の連中が司会(なんてものがいたことにも気づかなかったが)に紹介されながら上がってきたときだった。フロアからは男女混じった歓声が湧き上がり、まるでメインイベントの始まりのようだった。
そういや劇の前にステージがあったんだっけか、見ていく時間はあるだろうかと考えながらようやく空になった牛乳パックを畳んでいると、
「こちらバンビ刑事、ホシが現れました。どーぞー」
「了解。こちらドラゴン刑事、現場のせーあつはタイガー刑事に任せた。ドーゾ」
折りたたんだままの携帯をトランシーバー代わりにして口元に持っていき、二人は隣同士にいるくせに変な連絡を取り合っている。そして促すような急かすような視線でじっと俺のほうを見ているが、
「何やってんだ…………?」
期待には応えられない。というか、わけがわからねえ。
「もう!ノリが悪い!」
「そーだぞタイガー刑事」
どう考えても自分たちがおかしいのに、何故かこっちが悪者になっている。カレーパンマンの次は刑事かよ。いや刑事が先だったか。
じゃなくて大体、
「なんだ、ホシって。アイツなんかしたのか」
大方ふざけて言っているだけだろうと思ったのに、ルカも小波も「その言葉、待ってました!」とばかりの顔をしている。
なにやら嫌な予感にギョッとしてたじろいでいる俺をまっすぐ見たまま、申し合わせていたかのように、

「ヤツはとんでもないものを盗んでいきました」
「あなたの心です」

脱力してため息すら出なかった。
「それが言いたかっただけかよ……」
そういや昨日、クラスの一部だけが騒いでたな。『今日の金曜劇場、カリ城!カリ城!クラリスー!』 それで二人ともどこぞのインターポールになりきってるわけか。
脱力して肩を落とした俺の頭の上を、小波のからかいが飛んでいく。
「ふーん、盗まれたことは否定しないんだ」
「コウ、クラリスだ」
ニヤニヤしながら人の顔を眺めているのがよくわかる。いつのまにか暗さに慣れてしまった目を泳がせる暇もない。ましてや誰がクラリスだと言い返す気も起こらない。
ステージでは瑞野が、楽器とアンプをケーブルでつないだりマイクスタンドの位置を合わせたりしていた。
三人とも今日はそろってポニーテールらしい。揃いといえば、着ている物は制服のスカートに、上は揃いの半袖の黒いTシャツ。なんだかどこかで見たようなありがちな格好なのに、フロアの男子生徒には喜ばしいものらしい。確かに、スカートがいつもより若干短い気がするが……。
ああ、それでパシャパシャさっきから光ってるわけか。
あの中で普段一番スカートが長い(それでも人並み程度のスカート丈だとは思われる)女の、一生に一度拝めるかわからないミニスカート姿を我先にとこぞって収めているわけか。調子に乗りやがって。
今すぐ下に下りて全員の携帯をへし折ってやりたいくらいだ。
そう思わせるのも、惚れた欲目の独占欲か。
これじゃあクラリス呼ばわりされてもしょうがねえなとは、口が裂けても言えないけれど。

「どうします?ドラゴン刑事?」
「捕まえるしかないだろ、バンビ刑事」
「まだやってんのかよ……」
さすがにトランシーバーごっこはしていないが、まだインターポールはやめないらしい。まさか、ただふざけているだけってわけはないだろうが、何をたくらんでいるのかは見当もつかない。
なんとなく、ガキの頃たまに二人からだまされていたことを思い出していた。罪のないイタズラってヤツだ。どんなことだったかも、もう覚えちゃいない。
我ながら気味の悪いセンチメンタルに浸りそうなのを、真剣を装った小波の声がさえぎる。
「そもそもハート泥棒されたんだからここはタイガー刑事が逮捕に踏み切るべきでは?」
「……は?」
「バンビ刑事に賛成」
「…………いや、つーか俺はクラリスなのか刑事なのかどっちなんだよ」
そういう問いをする俺も俺だと思う。なんだかんだでこうして巻き込まれてしまうのだ。いつだったか、帰り道で即席俳句大会をやったときのように。
真面目腐った顔をしていた二人の顔がふっと緩んだような気配がした。相変わらず二階は暗く、俺たち以外に人影はない。
「どっちがいい?」
ゆるく握った片手を、頬杖するように顔にあてたルカがつぶやく様にたずねた。
視線はステージの上。三人は試し弾きのように楽器を無造作に打ち鳴らしている。
ポニーテールが揺れた。
ルカの質問の真意がわからず、俺は黙り込んだまま、ハウリングを起こしたマイクに眉をひそめた。
「盗まれたままでいい?それとも、捕まえに行きたい?」
ルカの質問を引き継いだ小波も、ステージを見ていた。角度が変えられた照明のおこぼれに預かって、小さな頬がかすかに照らされた。ルカと違って短く整えられた前髪の下に、穏やかな視線があった。膝を抱えて座る姿は、あの頃と同じまま。食べ散らかしたパンの袋、転がった牛乳パック。
教会の前の草むらで、いつかこんな場面があった。
ルカが信じ、俺が壊して、小波が現れてまた芽吹いたサクラソウの物語。
心に思い描く人の許へ導く妖精の鍵。
誰かに渡したいサクラソウの花。
今なら信じられる気がした。一度壊しても、許されるのなら信じたかった。

「聞くまでもなかったな」
「がんばれ、タイガー刑事」
「……おう」

そして、ステージは始まる。

20120422