虹のワルツ

75. 飛び越える勇気をください(夏碕)

歌に乗せた想いが伝わればいいのに。
そんな、いつかどこかで感じていた願いそのままの曲を、最後の歌を歌いながら思っていた。
そしてその歌に合わせて、体育館の二階でホタルみたいな光がゆらゆらと揺れていたのを、私は知ってる。
正体なんてすぐにわかる。右に左に、ちぐはぐな動きをしていた不器用な三つの光は、私の大切な人たちからの――エールだ。
一番低いところで揺れてたのが美奈ちゃん。
一番大きく、元気いっぱいに揺れてたのが琉夏くん。
そして、一番のんびりと、めんどくさそうに優しく揺れていたのが、琥一くん。
びっくりして、心臓をわしづかみにされたみたいで、演奏が止まってしまうかと思った。
そっか、三人一緒に見てくれたんだ。って、嬉しくて。
見てくれたことも嬉しかったけど、三人がきっと、私の知らない“昔のように”、仲良くしているのが嬉しかったから。
たとえその中に私がいなくても、全部上手くいってるのがわかったから。
それだけで、十分だって思おうとした。


***


「来た来た!おつかれー!」
「三人の席、取ってるよ」

なんとかステージを終わらせることができて一息つく暇もなく、私たち三人は急いで楽器を片付けて、体育館のフロアに戻った。
カレンとミヨがとっていてくれたパイプ椅子に腰を下ろすと、重たい楽器を担いだまま立ちっぱなしだった足がじわじわ痛み出す。
「かっこよかった!ちゃんと全部演奏できたじゃん!」
カレンが興奮気味に褒めてくれるのを、そしてイノたちが照れくさそうに「ありがとう」を言っているのを聞きながら、私はふくらはぎに手を伸ばしていた。ほぐすように揉むと、緊張まで体から抜けていくような気がする。
暗い体育館の中は人でいっぱいで、カレンたちに席を取ってもらえてなかったらずっと後ろのほうで立って見るしかなかったに違いない。パイプ椅子は満席状態で、ステージの真下の空いたスペースにも床に座り込んで押し合いへし合い、開幕を待っている人影が見える。
みんな、楽しみにしてるんだ。
「主役って小波さんだろ?」
「へっへ〜俺衣装合わせ、ちらっと見たけどマジかわいかった!」
「相手琉夏くんっしょ〜?ちょーうらやましいけどぉ、美奈子なら納得だよね〜」
「わかるー!今年のローズクイーン美奈ちゃんで確定だよね」
あちらこちらから浮かれたざわめきが聞こえてきた。毎年、学園演劇は目玉イベントだからそれも当然で。
それに、なんてったって今年の主役は美奈ちゃんと琉夏くんだもん。私だって、ずっと楽しみにしてた。
してたけど、ほんとは――

『これより、はばたき学園、学園演劇を始めます』

湧き上がった拍手に、言いようのない気持ちを載せて、劇は開幕した。



『花のヴェロナに、二つの家があった。モンタギューと、キャピュレット。二つの家は――』

本当は劇に出ないかって言われて、ちょっとだけ迷ってた。
琥一くんが出るよって、顔色を伺うように言われたけど、やっぱり断った。実行委員の子が残念そうに瞼を伏せていたのがちょっと申し訳なくて、バンドがあるからって言っても言い訳してるようにか、自分では思えなかった。
もっともらしい理由があってほっとしたのは、怖かったから。戻れない輪の中に飛び込んでいくのが怖かったから。
隣の隣のクラスの、あの女の子に睨まれたことも、気にしてないわけ、ない。彼女は全部知ってて、私たちに何があったのか全部わかってて、あんなことしたんじゃないかなってすら思った。そんなわけないのに。

“もう貴方たちは二度と触れ合えることもないじゃない”

そんな目に、見えた。被害妄想だってわかってる。怖かったって思うのも、自分が臆病だからって知ってる。
だけど、うらやましかった。あんなふうにまっすぐに気持ちを表せて、すごいなって思えた。
私にはできなかったことをできた、彼女がうらやましい。
今、目の前で琥一くんと踊っている彼女がうらやましい。
黒い衣装に身を包んで、まるで王子様みたいに着飾った琥一くんが、かわいいドレス姿のあの子の手をとって、腰を抱いて、踊ってる。三拍子のワルツは二人だけのため、みたいに思えて、胸が苦しくてしょうがない。
わかってる。本当は美奈ちゃんと琉夏くんのためで、他のみんなは添え物でしかないんだって言い聞かせても、私にはもう、琥一くんしか見えない。
あんなにかっこいいのに、それは私のためじゃない。
ターンした拍子に彼女の蕩けそうな笑顔が見えて、本当にこの場を逃げ出したくなった。あんな幸せそうな顔、見たくない。見たくないのに、動けない。

『コーイチくんがあんなの相手にするわけないじゃん!』
『あくまで劇。成功させるために、きわめて事務的にやってるだけ』
『心配するのはわかるけどさ……踊るだけじゃん。別に付き合うわけじゃないし』
『そうねぇ、確かに琥一くんっぽくないけど、夏碕のことは絶対忘れてないと思うわよ?』
『琥一くんのこと、信じて。お願い、お願い……』

みんな、ありがと。
慰めて、励ましてくれてるのに、私だってそれを信じたいのに、どうしていつまでもメソメソしちゃうんだろうね。
ごめんね。

でもね、私ね、本当に悲しかった。
情けなくて、女々しいこと言ってるのはわかってるけど、悲しかったの。
一度も踊ったことがないんだもの。
そんなの、くだらないこと気にしてるって、笑われるかな。
体育祭のフォークダンスだって、三年間で一度も踊れなかったよね。
どうしてかな。
やっぱり、私たちあわないのかな。

もしも私が、もっと前に、もっとちゃんと、この想いを伝えることができていたなら、こんな“今”は訪れなかったのかなって思う。
そう、ミヨがいつかのお泊り会で『選択を間違えないで』って言ったように、私が『正解』を選べていたら、あそこにいるのは私だったのかなって。
もっとたくさん笑いあって、もっとお互いのこと知って、ずっと見詰め合って、きっとそれは、幸せで――。
だけど、そんなこと今更考えたってもう遅いよね。
指を咥えて見上げるだけしかできない私を置き去りにしたまま、永遠にも思えた、たった数分のワルツは終わった。

『あぁ、愚かな!運命に弄ばれる馬鹿だったのだ、俺は!』



劇はどんどん進んでいく。
ロミオはジュリエットと恋に落ちて、ティボルトはマキューシオを殺し、逆上したロミオはティボルトを――殺した。
そんなのって、ないよ。
ただの劇なのに。誰かが本当に死んじゃうわけじゃないのに。
崩れ落ちるティボルトの――琥一くんの姿を見るのが辛かった。胸に一撃、私まで袈裟懸けの刃を受けたように痛みが走って、指先を振るわせることしかできなかった。
もしかしたら私は、こんな風に、手も伸ばせない舞台の外から、何もできないまま彼を見送るしかないのかもしれない。
目を閉じて仰向けに横たわる彼を、琉夏くんは無表情で見つめていた。
まるであの雨の日のように、何もかもが壊れてしまって、どうしようもなくて、途方に暮れている目をして。
周りで台詞が流れて行っても、二人だけ別の空間にいるみたいに静かで、切なくて。
だけど、他の皆にはただの、“迫真の演技”だったみたい。
誰かが後ろの席で、「すげー……」ってつぶやいていたのが聞こえたから。
琉夏くんが何を考えていたのかわからないけど、逃げろと言われたロミオは弾かれたように走り出して、姿を消した。
ジュリエットを悲しませたまま。
たっぷりのプリーツが寄せられたドレスの胸元に手を当てて、ジュリエットは涙を流す。
本当は美奈ちゃんの両手がすぐに顔を覆ったから、本当に泣いてるわけはないと思う。だけど、しゃくりあげるような素振りとか、ふるわせる華奢な体は、何よりも雄弁に悲しみを物語っているように見えた。
どうしてただの劇なのに、こんなにも辛いんだろう。
客席からは、早くもすすり泣くような声が聞こえてくる。

これは現実じゃない。
だけど、こんなに胸をかきむしられるような気持ちになるのはどうしてだろう。本当に誰かがどこかへ去ってしまって、その跡には何も残らなかったような、置き去りの虚無を感じるのは何故だろう。
きっと、こんなのは望んだ結末じゃないから。
誰かが誰かを傷つける場面も、誰かが誰かを悲しませる場面も、見たくなんてない。もう懲り懲りなんだ。
今まで散々そんなことばかりやってきて、これから上手くやれそうだって思っていたのに、
誰かが犠牲になっていいわけなくて、生きていくために踏み台が必要だなんて、そんなわけなくて、
馬鹿だって、青いって言われても、立ち向かってあがいてもがいて、勝ち取ってみせるって思ったのに、
同じ世界で幸せになんてなれないのかな。
やっぱり大きな渦からは逃れられないのかな。
誰かが勝手に書いちゃったシナリオは、一度始まったら変えられないのかな。
それともそれが運命だったとして、どうあがいても違う結末なんて得られないのかな。

ロミオと結ばれるために薬までのんで、死んだフリなんてことまでするジュリエットを見ながら、そんなことを、考えてた。
それでいいの?本当にいいの?
人をだまして、他の何もかもを捨てて、手に入れられたとしてもそんなのは、違うよ。
この先に何が待っているのか知ってるの?
それとも、そうまですることが本当の愛なのだろうか。それを曲げて、全部を丸く治めようなんて、欲しいもの全部手に入れてしまおうなんて思うことは、間違っているだろうか。
何かを手に入れるためには、別の何かを犠牲にするしか、諦めるしかないなんて。
必要以上に感情移入して、私はみっともなく、濡れたハンカチを握り締めていた。


***


「こうして息絶えていたとしても、あなたは未だ美しいまま」

欝蒼と茂れる木々の間に、小さな棺が横たわっている。
ジュリエットが死んでいないことを知らぬまま、ロミオは棺の中の恋人の頬に触れていた。
本当に、本当にゆっくりと、いつくしむように撫でているその手つきがわかるようで、何度も胸が痛んだ。
こんなシナリオ、辛いに決まっている。
許せなかった。狭量だと言われてもかまわない。
どうして奪うの。
知らないからって、どうして琉夏くんから、いくら作り話の劇だからって、何度も何度も大切なものを奪っていくの。

「ジュリエット、死の羽を舞わす御使いがそうさせているのだとしたら、」

そうやって奪って、最後は何もかもを失わせる。

「私は永劫、あなたとともにあろう」

そんなのは絶対に間違っている。

「なにがあろうと、暗い夜の宮殿よ、私はここを離れぬぞ」

そんなのは絶対に認めない。幸せなんかじゃない。

「さぁ、この薄命を!この世に飽いたかりそめの肉の体を!私は今、自ら捨て――」

毒の入ったビンを呷るために、喉を反らせたロミオにスポットライトがあたった。
白い光を浴びて、彼の金色の髪は輝き、まるで人の灯火の最期のようにきらめいて、そのまま消えるかと思われた。
もう、堪えられない。



「――やめて!!」







20120505