虹のワルツ

『五時になったら、ローズクイーンの発表があるんだって』

浮き足立った誰かの台詞を耳が拾う。
俺は少し急ぎ足で、体育館前の渡り廊下へ向かっていた。そこには大勢の生徒が集まっているだろうし、先に行っているルカと小波と、演劇の連中もいるだろう。
多分、新体操部の部員たちに囲まれるようにして体育館を去っていった瑞野も。
その後輩連中は、どうやら元部長が選ばれることを期待し、確信しているらしい。甘ったるくすがりつくように腕を取り、黄色い声の女どもは騒ぎながら外へ出て行った。
遠い背中に声をかけることもできず、俺はその背中を見送るだけだった。
しばらくそのまま、手を握り締めながらその場に立ち尽くしていた。
情けないと思ったのは、呼び止めることができなかったからじゃない。瑞野がそうして連れ去られる光景に、引き止める勇気を出さなくて済んだなんて思ってしまったからだ。


78. 目隠しをして答えを世界から消し去った(琥一)





渡り廊下にたどり着いてみれば、ローズクイーンが誰かというのはすでに発表された後だった。
騒ぎの真ん中にいる女の顔を見ればすぐにわかるけど、一応目を凝らして派手なピンクの紙の、真ん中の名前を確認する。


【小波 美奈子】


「すっごい!バンビすっごーい!!」
キーキーやかましい声を上げながら花椿は飛び上がらんばかりに喜んでいるし、その隣の宇賀神もいつもより興奮しているように見える。
クラスメイトやら同級生やら後輩やら、いつの間にそんなのと知り合いになったんだって言いたいような連中に小波はもみくちゃにされていた。
女王のガウン、とやらを肩から羽織って、確かに見てくれは女王様と言われてもまぁうなずける。
内面は――、まあ、俺たち外野がどうこういうことでもないだろう。俺とルカはそれぞれ別の場所から、少し遠巻きにそれを見ていた。
多分、なんだかそれが、ひどく距離のあるものに思えて。

「琉夏ー!」
誰かがルカを呼んだ。鈴木だ。周りの視線を集める声の持ち主は大きく両手を上げ、ルカに向かってブンブン振っている。
「ちょっとこっちー!!」
呼ばれた先は小波の前だった。そこで手招きする鈴木の横で、タイラと、それから花椿やら宇賀神やらがルカのために道を開けるよう周りを促している。
「え?俺?なに?」
呼ばれる理由がさっぱりわからないふうに首をかしげて、ルカは小走りにそちらへ向かった。
タイラは少し緊張気味にルカに向き合うと、
「えーと、それじゃあ桜井琉夏、くんに、ローズクイーンへティアラを渡してもらいます」
「え、俺……が?」
「なんか、そうしろって書いてあったんだよね……これ、中に入ってた紙に」
「へぇ……」
去年同じクラスだったタイラに言われて、ルカは本心から意外そうな声を出していた。少しだけ、嬉しそうな、ほっとしているような響きもそこにはあった。
バーカ。オマエは距離なんて感じる必要ねぇだろ。
女子は二人に甘ったるい視線と黄色い声を注ぎ、男子はというと、
「ぐわぁ、琉夏め……うらやましすぎる……」
「演劇の主役だけでは飽き足らず……ここでもおいしいトコもっていきやがって……」
「弁当の恨みと一緒に今度晴らしてやる……」
そこかしこから僻みっぽい声を上げている。周りがそれに笑い、
「えっ。ヤダ、コワーイ」
ルカはおどけて自分の肩を抱いて見せた。気持ち悪ィ。

「えーと、はい。これがティアラ」
ルカは平からティアラを受け取った。金色で、真ん中にキラキラした赤い石みたいな飾りがついている。遠目から見てもそれはチャチなおもちゃだってことが丸わかりだった。あんなモンもらって、嬉しがるのはせいぜい小学生くらいなもんだろう。
……いや、そうじゃねぇ。
これはティアラがメインじゃなくて、ティアラを頭に載せるのが、その相手が誰かって言うのが大事なんだろう。
ティアラに興味がなかったり趣味じゃなかったとしても、相手が相手なら大切になるって、そういうことじゃないのか。
ルカと小波を見ていると、そう思えた。そして多分、毎年こういうむずがゆくなるような光景が繰り返されてきたんだろう。

「そんじゃ……失礼します、女王様」
「なんか、恥ずかしいよ……」
「堂々としてなって……ハイ」

そっと壊れ物を扱うように載せられたティアラは、小波によく似合っていた。
はにかむような笑顔は、ローズクイーンに選ばれたからじゃないだろう。
ガキのころから知っているアイツは、やっぱり歳相応の笑顔しか見せない。それが当たり前の、飾りもてらいもないアイツの本心からの顔なんだろう。さっきは“見てくれは女王”なんて思ったが、小波は小波だ。ガウンの下は制服で、例えば威厳とか近寄り難さとかそういう、女王らしさなんて欠片もなくても、アイツは十分に輝いていた。

「バンビ、二人並んだとこ、撮ってあげる」
「え!?ミヨってば……うん、ありがと……」
「バンビ照れてる。かわいい」
「うん!今日のバンビはとびきりかわいい!実はさっきすでにティアラ贈呈シーン、撮ってるから!後で写真あげるね?」
「マジ?花椿さん、その写真俺にもチョーダイ?」
「えー?どーしよっかなー?」

ほほえましい光景というのは、ああいう情景のことを言うんだろう。
もうあの二人のことは心配なんかしなくていい。今でさえこんな風に祝福されて幸せそうなんだ、そのうち名実共にくっついちまうに違いない。
娘を嫁に出す心境なんて言うとバカみてぇだし、だからって息子が独り立ちする時なんてことも言えない。ただ、今まで自分だけが勝手に感じていた肩の荷が降りたような物悲しさと、一人置き去りにされたような焦燥感だけがあった。
そう、俺はもう、一人だ。
なのに不思議なくらい、嫌だとも、誰かを恨みがましくも思わなかった。


***


ローズクイーンの発表にひとしきりはしゃいで満足した生徒たちは、ある者はクラス展示の片付けに向かい、興奮のさめない連中ははしゃいだままグラウンドのほうへ向かっていった。日が落ち始めた校庭では、もうすぐキャンプファイヤーが始まるんだろう。
人がいなくなり始めた渡り廊下には、紙ごみなんかがパラパラと散らばっていた。祭の後ってカンジの光景は、物悲しいようで息苦しかった。何かが始まって、いつかそれが終わることは当たり前だ。終わることが悲しいのは、最中が楽しかったから、なんだろう。
卒業式の日にも、同じことを思えるだろうかと考えて、きっとそうだろうと思った。早く終わってしまえばいいと、そうして一日も早く大人になってしまいたいと思っていたはずなのに。
だけど、心の底からそう思えるようになるために、まだ一番大事なことを、俺はやり遂げていない。

ただぼんやりとそんなことを考えていると、花椿に呼び止められた。
「コーイチくん」
はしゃぎ疲れただけでなく、何か心配事でもあるように眉尻を下げた表情は珍しい。
「なんだよ」
学園祭は終わりに向かっていく。
脇を走り抜けていく下級生たちの声にも疲労感が混じっているように思えた。
「夏碕、知らない?」
ギクリとしたのは気づかれていないようだった。
「あ?知らねぇ」
俺だってアイツのことを探していた。いつの間にか視界からいなくなっていて、誰かに聞いたほうが早いのかもしれないと思った矢先のことだったからだ。
「そう……」
片手を顎に当てて考え込む花椿に何があったのか訪ねてみる。
「んー……心配することじゃないだろうけど、なんか大事なもの落としちゃったって言ってどっか行っちゃってさ、まだ戻ってこないから」
大事なものっていうのが何かってより先に、不安がよぎった。
「電話したのかよ?」
「したけど、つながんなくて」
多分、演劇見てたときから電源切りっぱなしなんじゃないかな。
そう言う花椿の台詞に、アイツならやりかねないと、そう思って俺は少し笑った。
「何よ笑って――って、どこ行くの?」
「自販機。喉渇いたんだよ」
数歩歩いたところで、俺は軽く振り返った。
「ついでに探してくる」
そう言った後の花椿の顔が意地悪く笑い出す。
「“ついで”?ついでじゃないくせにねぇ……。あ、ちゃんと捕まえなさいよー!」
「……言われなくてもわかってんだよ」
口の中でもごもごと呟いた言葉は、誰にも聞かれていないと思う。
ただ、花椿の少し後ろにいたルカと小波が、俺を見て穏やかに笑っていた気がした。


***


購買横の自販機はほとんど売り切れで、残っているのはココアと微糖のコーヒーだけだった。なんだよと顔をしかめながら引き返そうとしたところで、ちょっと前のことを思い出した。
いつかどこかで、瑞野が微糖のコーヒーを買っていた。こんな風に売り切ればかりの自販機の前で、目当てのレモンティーがなくて、しょうがなく。『これなら飲めるけど、ブラックはまだ飲めないや』 と、恥ずかしそうに笑っていた。
思い出の中の笑顔を反芻しながら、ポケットの小銭を入れる。
あれは確か、修学旅行のときだった。
オルゴール堂を後にしてぶらぶらと街を歩き回りながら、色んなことを話した。
あの頃はまだ、アイツのことを何か特別な存在だって意識し始めたばかりだった。女と話すのも悪くないなんて思っていた頃だった。いつの間にかアイツは俺の中に入り込んで、心の中で一番大きな存在になっていた。
何が好きなのか知りたい。何をしたいのか知りたい。して欲しいことがあるのなら、なんだってしてやりたい。それが許される存在になりたい。
だから捕まえに行く。
連絡のつかない相手を見つけ出すなんて簡単じゃないだろう。
大迫や氷室から逃げ回るときにゃ狭いもんだと思っていたはずの校舎がやけに広く感じる。
アイツは何を探してんだろうか。
大事なもの、それを見つけようと歩き回る姿は、今の俺と同じなんだろうか。


***


どこへ行ってもアイツはいなかった。狭い校舎の中で互いにすれ違っているのかもしれないと考えて、夏以降はそればっかりだったと思い出して苦いものがこみ上げてくる。もうこんな思いをするのは今日で終わりにしたい。いや、するんだ。
向き合えるだろうか。いや、そうしなきゃいけねぇんだと、鼓舞するように上がっていった階段の最上段で、

「――」
「あ……っ」

出会ってしまった。
それも、三人――俺と、瑞野と、劇で踊ったあの女。
T字になっている廊下の右側、要するに、俺が上ってきた階段から左右に伸びる廊下の右手側に、一番会いたかった女が、瑞野が、いた。
どうすることもできなくて、三者三様に息を飲んで動きを止めてしまう。誰も動かないまま、一言も口を利かないまま、この場をやりすごしてしまうのかと思ったその時、瑞野は、俺と目を合わせるや否や、元来た方向へ身を翻して走り去ってしまった。
「――おい!」
もちろん、俺は追いかけようとする。階段の最後の二段を一息に踏み抜いて、残り香を追うように走り出す。
当たり前だ。何のためにここに来たと思ってる。
走り出した俺の名前を呼ぶ声にも、聞こえないフリをしたかった。
見逃して欲しい、俺が望んでいるのはこの声じゃねぇんだ。
何を言われるのかわかっていても、わかっているからこそ、その場をすぐに立ち去りたかった。

「待ってよ、話――」
「無理だ」

ここでこうしているヒマはない。それはわかってる。
それでも立ち止まってしまう俺は、甘いだろうか。

「……オマエが何言っても、俺はそれに応えられねぇ」

こうして道を断ってしまうことは、卑怯だろうか。

「もう俺は、アイツの前で嘘なんかつきたくねぇんだ」

言い終わる前に、逃げるように走り出した。
甘ったれで汚ぇ俺が誓えることはそれだけだった。それすら、本人の方を振り向かず、もう小さくなって消えてしまいそうな背中に向かって独り言のように口にするしかできなかった。
どこ行くんだ。何で逃げる。瑞野、誤解しているのなら俺はそれを解きたい。
なかったことになんてできないのはわかってる。
知らぬ間に傷つけていたに違いないことも、あの雨の日に起こったことも、全部、ごまかすことだってできないし、したくない。痛みしかない出来事から逃げることが卑怯だということくらい、バカな俺にだってわかってる。
今までにあったこと全部、一つずつ向き合って、もつれた糸を解くみたいにして向き合えたのなら、俺は変われるだろうか。

もしも変われたなら、胸のうちをさらけ出すことができたなら――オマエは笑って、許してくれるだろうか。

20120617