虹のワルツ

心臓がうるさいほど高鳴っている。肋骨が折れちまうんじゃねぇかってくらいに。
走ってきたせいなんかじゃない。
「おい!」
2階の廊下の端の、階段の手前でようやく追いついて掴んだ手を引き寄せても、瑞野は俺のほうを見ようとしなかった。
肩が小さく震えている。ポニーテールをほどいた長い髪が、俯いた顔を隠すようにはらりと落ちていった。
走り回って息切れしたのを整えるように一つ、大きく息を吸ってから俺は口を開いた。
「アイツとは――何もねえよ……」
そんなことしか言えないのが情けなかったけど、それ以外にどう言っていいのかわからなかった。
これで伝わるのかどうかも、わからなかった。
一言でバシッと決められるならそれが一番だってのに、いざってなると俺の頭は混乱して何も思い浮かばなかった。
「色々、その、学園祭の準備してたときには言われたりもしたけどよ、俺は別に、そういうつもりで……なんていうかよ、一緒にいたわけじゃねえんだ。……信じろっつっても、無理かも、しれねぇけど――」

そうじゃねぇだろ。

「いや違う。……頼む。信じてくれ。他のヤツらに何言われても、そんなの知ったことじゃねぇけど、」

今更何言ってんだって、自分でもわかってる。
追いすがるような言葉がみっともないことも知ってる。

「オマエにだけは、誤解されたくねぇんだ」

どれだけ惨めでダサくても、それで信じてもらえるのなら俺は喜んで泥にまみれてやる。


79. 理由はなかった、ただ感情があった(琥一)





「違うの……」

てっきり、『もう知らない』 とか、『無理』 とか言われると思っていた。心のどこかでは、まだ信じてもらえるなんて甘えたことを考えていて、そうだといいのにと願っていたにも関わらず。
ひょっとするとそのときの俺には、拒絶されたとしても覚悟のようなものはあったのかもしれない。今となっては、わからねぇけど。

「そうじゃないの……」

瑞野が口にしたのは、断罪でも許容でもなかった。望んでいた言葉でもなければ、聞きたくない言葉でもなかった。
俺の言ったことなんか完全に無視したような言葉に、俺は何と返していいのかわからずに「は?」 と、馬鹿みたいな声を上げるしかできなかった。
一向に顔を上げず、目もあわせようとしない瑞野の顔を、体を屈めて覗き込む。

「ごめんなさい……」
「――オマエ、」

睫が、涙で濡れていた。
「どうしたってんだよ……」
返事はなかった。
頭に上っていた血がさっと引いていくようで、俺はようやく冷静さを少しずつ取り戻し始めた。
さすがに周りの目も気になるし、丁度控え室扱いになっていた空き教室に瑞野を押し込んで、俺も後に続く。
とっちらかった机と椅子に、デジャビュのような変な感じを思い出した。ああ、そうだ。ここは二年前に、俺がコイツを連れてきた教室だ。
あの時は瑞野を椅子に座らせて背中を向けて、野郎共に難癖つけて、結局小波にぎゃあぎゃあ叱られた。
二年たった今、今年も同じように控え室になった教室のドア付近にたたずんで、俺たちは向き合っていた。
二年前と同じ場所で、同じ相手と、違う立ち居地で、あの時と違う気持ちを抱えて。

「なぁ、何が――」
「ごめんなさい……」
「待てよ、意味がわからね――っ、おい……」
「ごめん……ごめん、なさい……」
糸が切れた人形のように崩れ落ち、床に座り込んで顔を覆った瑞野につられるようにして俺もしゃがみこむ。一向に顔を上げず、ただただ『ごめん』と言いつづける瑞野がもどかしくて、思わず瑞野の手を掴んで、顔から引き剥がしていた。
現れた顔、すうっと頬を伝う涙の筋に、息苦しいような愛おしさを感じていた。
例えばこのまま抱きしめて、そうしたらオマエは泣き止むだろうか。
「――何が、あった」
「あのね……なくしちゃった……」
「……何を」
「ブレスレット……去年の、夏祭りで、もらった」
ちら、と視線を手首にやれば、確かにそこには銀色の、いつも嵌めている腕時計しかなかった。
泣くほどのことだろうか。と、拍子抜けして脊髄反射の言葉が口から飛び出しかける。
「そんなモン――」
安物どころか射的の景品でしかないものをなくしたくらい気にするなと言おうとして、やめた。
ぼろぼろ泣いちまうほど大事にしてくれてたんだろうし、修学旅行の前に俺が、ガキくさいにもほどがあるが、ブレスレットをつけていないことに拗ねていたことに気づかれていたから、それを思い出して泣いてるのかもしれないと思ったから。
俺が怒るとでも思ってんだろうか。ちょっと釈然としない。あの頃よりはさすがに――大人になったなんてことは言えねぇけど、それでも馬鹿みたいに拗ねたりはしない。
信用されてないんだろうかと考えて、少し傷つく。けど、今はそれどころじゃないってのはわかってるから、何も言わなかった。

「ステージも、体育館も、廊下も、教室も、探したのに、みつかん、なくてっ」

言わなかった、と言うより、何も言えなかった。
何を言ったら傷つけずに済むのか、わからなかった。気にするなとか、気にしてないとか、そういう気休めならいくらだって言える。言えるけど、そんなことを言ったら瑞野が大切にしてくれていた物も、思い出も、全て壊してしまいそうな気がした。
きっとコイツは、俺が怒るとかそういう理由で悲しんでるんじゃないってことは、いくら俺でも理解できた。

「……琥一くん、ちゃんと、話してくれたのに、私は、大事なもの、なくしちゃって、それに、逃げちゃって、」

小さな子供のようにしゃくりあげる姿に、二年前の学園祭を思い出していた。あの時は、ぐっとこらえるようにして涙を隠していた。誰が泣くもんかってカンジで、結局俺が見た、瑞野が零した涙は一粒だけだった。
夏に電話されたときのことを思い出した。あの時も泣いていた。見えなかったけど、必死で嗚咽をこらえながら、そのくせポロポロ涙を流しているんだろうってことはわかった。
今、こんな風に泣いている姿を、頼りなくて儚くて守ってやりたいなんて思わせる姿を、誰にも見せたくなかった。
そう、俺は嬉しかった。
本当は、コイツが弱いところをさらけ出すのは俺の前だけなんじゃないかって思って、頼られることが嬉しくて。
なのに、やっぱり俺は馬鹿だ。
頼られるだけで、何もしてやれない。
自分を責めるばかりの瑞野を、止められる言葉が思いつかなかった。

「こんなんじゃ私、もう、傍になんていられな――」
「やめろ……!」

そんな言葉、聞きたくなくて、俺は無理矢理に力ずくで止めてしまう。
抱きしめた体は、ちょっと力を入れただけで折れてしまいそうだった。
華奢な肩も細い背中も、いくら普通より背が高くたってコイツは女なんだってわかってしまって。俺なんかと比べ物にならないくらい――いや、比べるのもおかしな話だけど、ずっと小さくて、か弱くて。そんなことずっと前から知っていたような気がするのに。
だから、自分から両手を引っ張って胸の中に閉じ込めたくせに、俺は動揺していた。

瑞野が息を呑んだような気配を、耳のあたりで感じていた。
添えるように胸に当てられていた両手が、ブレザーの襟のあたりを軽く掴むようにかすかに動く。
俺は何も言えないから、求めている言葉がわからないから、かけてやれないから、こうするしかできない。

なぁ、俺は悔しいよ。
惚れた女の涙一つさえ、止めてやれない。
どうしたら幸せな結末なんてものが迎えられるのか、わからない。
ステージの上で小波がやったように、何もかも投げ捨てて“ハッピーエンド”なんてものを掴みに行くなんてできない、カッコつけてるだけの臆病者だ。
そうすることが、怖い。怖いさ。拒まれることを考えたら。
そんなことしないなんて言われたって、俺は自分が、オマエに相応しいなんて思えねぇんだ。
なのに――なぁ、汚ぇだろう?
オマエを慰めるためなんて口実に甘んじて、俺は自分がしたいように、望んだとおりに、抱きしめてしまっている。
――違う。
俺は何をするべきなのかもわからないし、自分がどうしたいのかも、本当はよくわからない気がした。
ただ、抱きしめている体の温度だけが心地よかった。それだけで十分だった。わかることなんて、それだけで。

床に座り込んだまま、だんだんと暗くなっていく教室の床をただ眺めていた。
いつの間にか、握り締めていた手から缶コーヒーが落ちていた。投げ出した脚が当たって、それはゆっくりと遠くに転がっていく。明かりを点けないままの教室の闇の中に、吸い込まれるように。
瑞野はやわらかくて、あったけぇな、と思った。
俺の首のあたりが濡れているような気がした。思うままに泣けばいい。そう、思えた。
伏せていた瞼の隙間から、橙色の薄明かりが忍び込む。校庭のキャンプファイヤーが始まったんだろう。ゆらゆらと揺れる光景が滲んだような気がした。気のせいだと、思い込もうとした。
滑らかな髪を指で梳きながら、俺は目を閉じた。
もう少しだけ、このままでいたかった。

ひとしきり泣いて落ち着けば、きっとコイツは俺の腕の中からすり抜けていくんだろう。
だけど、放したくなんてなかった。
わけがわからなかったはずなのに、抱きしめたままでいいのかなんて考えていたくせに、今となっては手放したくない思いだけがそこにあった。
小さな体を抱えたまま、このまま世界が終わってしまえばいいのにと思っていた。ずっとこのままでいられないと知っているから。この腕を解かなきゃいけねぇってのがわかっているから。腕を解いた後に、どんな顔をして何を言えばいいのか、わからないフリをしていたかったから。
最初から抱きしめなきゃ、離れ離れの悲しさなんてなかっただろうか。

ガキの頃、ルカがこんなことを言っていたのを、思い出した。

『手に入れたら、いつかなくしてしまうから。なくしちゃうのがこわいから。最初から、なくっていいや』


俺はそのとき、何も言えなかった。大切な家族を失ったルカが言うんだから、そういうものなのかもしれないとすら思った。そのくらい、深い説得力を伴った声音が怖かったように覚えている。
けど、いいのかよ。それで欲しいもん全部諦めて、なかったことにしちまっていいのかよ。
ガキの頃にアイツと出会ったことも、最後は離れ離れになっちまって、それが悲しかったらそんな出来事なんてなきゃよかったなんて言うのかよ。
今まで生きてきたことも、両親の元に生まれてきたことも、学園祭も、高校での毎日も、いつか終わるんなら最初からいらないなんて、もう今のルカなら絶対に、言わねぇだろう?
もう何が大事なことなのか、わかってるだろう?

何もわかってなかった、大馬鹿野郎の俺だって気づいてしまったんだ。
どれだけボロボロになったって、傷つけあって泣いたって、全部なかったことになんて、絶対にしねぇ。
手放したって、抱きしめていた事実だけは変わらない。残っている。
そうしてその記憶を抱えたまま、もう一度と思って手を伸ばしてしまう。心地よさを忘れられないまま、光の下へ、虹の向こう側に、俺は行きたい。
悲しみも苦しさもない世界なんてなくていい。
全部ひっくるめて、俺はそれを大事にしていたい。
泣き顔も怒ったところも、笑顔も、頼りない言葉だって何だって俺にくれ。


夏碕


オマエが、好きだ。

20120623