虹のワルツ

息が詰まりそうなくらい苦しかった。
心臓が張り裂けそうなほど辛かった。
こんな思いをしなくていい世界があるなら、今すぐにでもそこへ行ってしまいたかった。
だけどそんな都合のいい夢の世界なんて、どこにもあるわけない。そんなの知ってる。子供じゃないもの。
あったとしたって、悲しみがないのと同じで、幸せだってないに違いない。
だけど最初から何もなかったって思えば、今より楽なのかもしれないって、思ってしまう。
私、いつからこんなに弱くなったんだろう。

馬鹿みたいって笑うかな。
ブレスレットを失くしたくらいで何言ってるんだって呆れるかな。
でもね、花火大会で琥一くんがブレスレットをつけてくれたとき、すごく嬉しそうな顔で、ほんの一瞬だったけど笑ったの。それを、私はずっと忘れられない。初めてあなたが、心から笑いかけてくれたから。
とても優しい顔だって、本当に優しい人なんだって、わかったから。
わざと失くしたわけじゃない。琥一くんはこんなことで怒ったり、私を見放したりしない。
それは、よくわかってる。
だけど、それでもやっぱり私は、自分がその思い出も笑顔も踏みにじってしまったと、思わずにはいられなかった。


80. 知られたくないけど、分かってほしい。(夏碕)





本当はさっき出会うまで、謝ろうって思ってた。
謝って、それで、きっと真剣な顔してる私を、彼は困ったように笑うんだろうなんて思ってた。
そうすれば、私たちきっと仲良く話せたあの日に、元に戻れる気がした。そうだったらいいなって、願ってた。
だけど、幸せな未来の想像図なんて所詮私が自分勝手に思い描いていただけなんだ。
どうして私、琥一くんがあの頃のまま、優しいままだって思い込んでいたんだろう。前みたいに笑いあうこともなくなって、気持ちが変わってるかもしれないのに。信じて待ってるのは私だけかもしれないのに。
俯いて歩いていた私が顔を上げたとき、あの子の顔と、琥一くんの顔が目の前にあって、頭は半分混乱してて、心臓はありえないくらいに大きく跳ねて、結局――その場から逃げてしまった。
もしも私が自分を好きでいられたなら、自分に自信を持てていたら、逃げずに向き合うことだってできたのかな。
もつれそうになりながら走りだしたら、大好きな人の名前を呼ぶあの子の大きな声が聞こえた。
悔しかった。
私は逃げてばっかりなのに、なんでそんなにまっすぐに、言葉にできるんだろうって、自分ができないことを平然とやってしまう彼女が妬ましかった。どうして私はそうできないんだろうって考えたら、情けなくなってきて、涙がこぼれた。
惨めで、情けなくて。

私はいい子なんかじゃない。わかってる。みんなから好きになってもらえるなんて、あるわけない。
だけどたった一人からだけは、愛されていたかった。
それがもう無理なのだとしたら――そう考えると涙がにじんできて、隠していた嫌な感情が溢れてしまう。

琥一くん、私のこと見てよ。知らないふりなんてしないでよ。私の我侭に困ったり、私のすることに傷ついたりしてよ。
私ばっかり傷ついて苦しいのなんて、もういやだよ。

他の何を捨ててでも、追いかけてきてくれるって信じさせてよ。

――なんて、
言えもしないことは、言えないだけ。
心の中で思うだけで、口にしないだけ。
こんなこと考えてる私に、どうか気づかないままでいて欲しい。
なのに、こんなに傷ついてることを知って欲しいって、そんな矛盾を抱えたまま、走る私は捕まえられた。
本当は、捕まえて欲しかったのかもしれない。落ちるスピードのことは、誰よりも自分がよくわかってた。

「頼む。信じてくれ。他のヤツらに何言われても、そんなの知ったことじゃねぇけど、オマエにだけは、誤解されたくねぇんだ」

違う、違うの。そうじゃないの。
琥一くんは悪くない。悪いのは、試すようなことした私。
こんなにずるくて、自分勝手で、臆病で、心底嫌になる。
琥一くんは息を切らして、私のこと本気で追いかけてきてくれたのに、私は顔も見れなくて、向き合うことすら怖くて。
あの目に見つめられたら何もかも見透かされてしまいそう。
琥一くんは、ぶっきらぼうで無愛想だけど、嘘をついたりしない。それくらい、わかってる。
だって、好きなんだから。
琥一くんは、ちゃんと話してくれたのに、それが本心からだってわかる真剣な声で向き合ってくれたのに、私は自分の気持ちをちゃんと伝えることもできない。
子供みたいに泣きじゃくって、みっともなくて、こんなとこ見て欲しくなんかないのに、ここにいてくれることが嬉しいなんて、馬鹿だよね。
もっと素直になれればよかった。
もっと近くにいたかった。
後悔しかできない私を、琥一くんがどんな目で見ているのか、考えるほどに怖かった。

「こんなんじゃ私、もう、傍になんていられな――」
「やめろ……!」

なのに、こんなに温かい胸の中に私はいる。
ずっと求めてた腕に引かれて、抱きしめられている。
お願い、やめて。こんなことされたら、なおさら涙なんて止められない。
たくさん、たくさんの思い出がぐるぐる頭の中を駆け回って、思い出したのは、いつか見た広い空のことだった。
神様――なんて、呼びかけても誰も答えてくれないけれど、もしも私たちをどこからか見守ってくれる存在があるのなら、違う、そんな存在があってもなくてもいいから、まるで懺悔をする巡礼者のように膝をついて尋ねてみたかった。
虹の向こうの世界のことを、信じても、いいですか、って。

「もう言うな……ンなこと、言わないでくれ」

彼が教えてくれた歌の、それは虹の彼方にある、青い鳥が舞う空のこと。
もしも本当にこの世界のどこかに、心から幸せになれる場所が一つだけあって、誰もが一度だけ見つけることができるのだとしたら。
私にとってのその場所は、この人の腕の中だと信じてもいいですか。
ここにいることを許されたんだって、思ってもいいですか。

頭を撫でられる感触に甘えて、そっと目を閉じた。かすかに吐息が肌を掠めていくのも、指先が震えているように思えてしまうのも、何もかもが愛おしくなってしまう。
許されなくても、ああ、どうしても、やっぱり私はここにいたい。
引き裂かれるような胸の痛みすら狂おしいくらいに嬉しくて、ここにいられるのならどんなことにだって耐えられるようにも思えてくる。
静かな教室に、二人だけのこの世界。見かけだけの永遠は幻。
廊下やグラウンドから聞こえてくる人の声も遠くて、本当に世界に私たちだけが取り残されたようで。
もしも本当に世界に二人きりなら、他のすべてを投げ出してずっとこうして抱かれていたい。
もうあなたのことしか考えたくない。私以外のことを考えてほしくない。
だけどそんなこと、言えない。
そんなありえない世界が前提の我侭は、絶対に無理だってわかってるから、こんな無茶なこと考えちゃうんだ。

不意に窓の外から歓声が上がった。はっとして目を開けても、私の視界にはブレザーしか映らない。
こうして教室に二人きりの今ですら、世界は無遠慮に割り込んでくる。きっと耳をふさいでしまえば、多分二人っきりだって思い込んだままでいられる。だけどそれはただの思い込み。誰もいないって思い込むことはできても、それを事実にすることはできない。
琥一くんにも、聞こえているはず。
窓の外の声、世界の音。楽しそうだけど、少しさびしそうな響き。きっとキャンプファイヤーが始まったんだろうな。
みんな、楽しかった学園祭が終わるのが惜しくて、だけどそれを止めることなんて誰にもできない。だから一瞬を懸命に過ごしているんだと思う。そうすることが、後悔しないためにできる一番の方法だから。
悲しいこともつらいことも、忘れることや忘れたフリができたってなかったことにはできない。
わかってたはずのこと、ようやく心から理解できたような気がした。

ためらう指先がそっと彼の胸に触れると、心臓の音が聞こえてくるようだった。脈打つその鼓動は早くて、どうしてだろう、私は琥一くんを抱きしめたくなった。
それは多分、ドキドキしてたのが私だけじゃないのが嬉しかったから。嬉しくて愛しくて、目を閉じて耳を近づけたくなる。その胸に、そっと打ち明けたくなる。
あのね、やっぱり私、琥一くんが好き。
優しい腕が好き。
囁く低い声が好き。
あなたの全部が、好き。

温かい腕の中で髪を梳くように撫でられて、私は知らぬ間に落ち着きを取り戻したみたいだった。
涙は止まった。もう弱音なんて吐かない。大丈夫だよ。
名残惜しさを無理に押し殺して、私は抜け出す。
いつかためらいも遠慮もなく、もう一度――ううん、何度も、そしていつまでも、この腕の中にいられるように願いながら。
だから、これが永遠ならなんて、願ったりしない。
いつか、弱い自分を振り切ることができたら、ちゃんと言葉にするから。

「琥一くん、」

ありがとう。私は上手に、笑えてるかな。

「もう……平気だよ」

そっと解かれた優しい檻が名残惜しいけれど、それは琥一くんも同じなのかもしれない。
私の髪を絡めとったままの指先は一瞬だけ逡巡したあと、手のひらがゆっくりと頬に触れた。あたたかい。あたたかくて、大きな手のひら。何だって包んでくれる彼の手のひらが、私の頬をとらえて放さない。

「……琥一くん?」

そっと顔を上げると、目が合った。恥ずかしいような気がして逸らそうとしても、力強い視線から逃れられなかった。
瞳も顔の輪郭もかすかに震えているように見えた。違う。窓の外の炎が映り込んでゆらゆら揺れているだけ。琥一くんはただまっすぐに、私だけを見ていた。他の何も目には入っていないような眼差し。赤と橙が彼の髪も頬も燃えているように照らして、それが少し、怖い。
瞬きをすると、瞼が腫れてるのが自分でもよくわかる。きっとひどい顔しているから、見てほしくないのに顔も視線もとらわれたまま身動きもとれない。
腕の中から抜け出したはずなのに、私は彼に捕まったまま、ただ一つの予感を覚えていた。
琥一くんは私の頬を親指でそっとなぞる。涙の跡を拭ってくれたのかもしれない。
何も言わず見詰め合っていることが怖いのに、私は自分の手を、頬に触れている彼のその上に重ねてしまう。
これじゃ、何をされるか知っている上で受け入れようとしているみたいで、期待しているみたいで――。

目を閉じろって、言われた気がした。

一歩踏み出すということは怖い。
だけど元に戻れないのなら、踏み出して、変わっていくしかない。
それが今なのだとしたら、そうしなければいけないのなら、きっと私は抗えずに瞼を伏せてしまうんだろう。
そうして一つに溶け合ってしまったら、もう言葉なんかいらなくなる。

けれど――それが本当に正しいことなのか、私にはわからない。

20120708