虹のワルツ

唇の色は、炎の色を浴びてよくわからなかった。
かすかに開かれたそれは、そっと親指で触れれば微かに震える。
夏碕は、俺の手に自分の手を重ねた。それは拒んでいるようにも思えたし、誘っているようにも見えた。
都合のいい解釈だと言われればそうだろう。“そう思えたんだからそうした” なんて、言い訳にもならねぇ言い訳をなじられることを覚悟した上で、
俺は、オマエに口付けようとした。

伏せられた瞼、あと、数センチの――


81. 幻を消すようなまばたき(琥一)





数センチの隙間がゼロになろうとした瞬間に割り入ってきた、くぐもったような雑音。

いわゆる、いい雰囲気、というやつが満ちていた空間を破ったのは、携帯の着信音でもなければ誰かが教室に入ってきたわけでもない。
ノイズ交じりのその音は、グラウンドから流れてきた、間の抜けたフォークダンスの音楽だった。

「あっ……」

夏碕は我に返ったように、体も顔も俺から勢いよく引き剥がし、目を泳がせたまま立ち上がった。
一瞬、一瞬だった。本当に、ものの数秒。
魔法が解ける、なんて、女子供が言いそうな例えがぴったり当てはまる。そう、嘘みてぇに簡単に魔法は解けた。
アイツが目を開けただけ。それだけで、すべてが何もかもリセットされる。
虚空をつかみ損ねた手を見下ろしながら、こういうのが“日ごろの行いが悪いせい”ってやつだろうか、なんてことを考えていた。
考えながら、だんだんと頭が冴えてくる。
伸ばした腕がつかんでいたもの、手のひらが感じていた温度、指先で触れた柔らかい――

今、俺は何をしようとした?

冷静になったはずの頭に血が上ってきた。
馬鹿野郎。なんてことしようとしてたんだ、俺は。
何も言ってねぇ、それに、何を言われたわけでもねぇのに、こんな中途半端なまま、あんなことしたってアイツは――

「えっと……フォークダンス、始まった、ね」

アイツが、俺のモンになるわけでもねぇだろ。

夏碕はぎこちない声音のまま、窓辺へと歩いていった。
スカートの折り目をなおしながら、片手で髪の毛先をいじりながら、窓辺で立ち止まると外を眺めている。
真後ろからでは、窓ガラスに移りこんだ顔も見えない。

「踊ってる人、少ないなぁ……」

なぁ、どんな顔してる?こんな俺をどう思ってる?
気の利いたことなんか一言も言えないから、ああして雰囲気に流されるフリをして、無理矢理力ずくでオマエを自分のものにしようとした俺を――いや、しなくても、そう考えてた俺を、
軽蔑する、だろうか。

「あ、美奈ちゃんたち……ふふ、」

座り込んだまま、両手で額を覆い隠した。
口元はみっともなく歪んでいるに違いない。
情けねぇ。俺は情けねぇよ、俺自身が。

「琉夏くんも、楽しそう」

背を向けたまま外の景色を見ているアイツの影が、俺の足元まで伸びていた。
影の先端は暗闇に溶け込んで、輪郭が心もとない。
さっきまでアイツを抱いていたはずなのに、もうこの手は届かない。

「王子様と、お姫様みたい」

届かねぇだと?本当に、そう思ってんのか?
それは立ち上がる理由がないことを逃げ口上にしてるだけじゃねぇのか?
体育館でも俺は、アイツを追いかけなくてすんだことをありがたがってた。
ずっと、誤解されてるかもしれないってのに、自分から話しかけることを拒んでた。
なんだかんだと理由をつけて、俺は結局アイツに甘えたままだった。

「……いいなぁ」

近づけないのは、近寄ろうとしなかっただけだ。


「――夏碕」


時間が止まったような沈黙の中でアイツは、ためらっているのかスローモーションのようにこちらを振り返る。
さっきまで涙にぬれていた目が大きく開かれて、その二つの光はじっと俺を見据えていた。
驚いたような色、そして、不安そうな色を浮かべて。
さっき魔法を解いた目が、また俺に魔法をかけようとしている。たった二つの目に、なんでこんなにも引き寄せられるんだろうか。
その目に見つめられると、俺は何もできないただのガキになってしまう。手も伸ばせない、胸のうちも曝け出せない、なのに、目はそらせない。
本当は手を伸ばして触れたかったし、言いたいことだってたくさんある。なのに沈黙のその間、身動き一つできない俺の頭の中で次の一言が浮かんでは消えていった。
とっさに思いついたのは、「踊るか?」 の一言だった。
ありえねぇ。まかり間違っても、そんなこっぱずかしいことなんざ言えねぇ。ましてや「好きだ」 なんて、本当に言いたいことなんて、こんな間抜けな音楽の中で一番大事な一言を言えるはずがなかった。

「…………その、」

一曲目が終わって、次の曲が流れ出すまでの間が訪れても、俺は何も言えずに座り込んだままだった。
何か、何か言わなきゃいけねぇってのは、わかってた。なのに、何を言うべきかがわからないまま、ただ焦りだけが大きく膨れ上がっていく。
口をつぐんだままの二人の間には、音もない数メートルが横たわるだけ。たった数歩の距離。
それを飛び越えようとして、立ち上がった俺はまた出鼻をくじかれる。
今度は、スラックスのポケットに入れていた携帯が床に転がり落ちた音だった。

なんでこうも上手くいかないものなのか。
どこかで誰かが見ているんじゃないだろうか。
舌打ちを堪えて顔を顰めながら上半身を屈める。携帯を拾い上げる指の隙間から、着信だかメール受信だかを知らせる光が見えた。知るか。こっちはそれどころじゃねぇ。
もう一度ポケットの中に突っ込もうとすると、

「あの、光ってたけど……」

律儀に見咎めた夏碕におずおずと言われてしまう。そうだった。コイツはこういう、妙に真面目で実直な女だった。
そうじゃねぇだろ、と、肩から力が抜けるのを感じながらも、うるせぇなほっとけよ、と言うわけにもいかない。
ただ、「そうか」 と適当な返事をしつつしぶしぶ開いた画面には学園演劇のメンバーからのメーリングリストと、花椿とルカからのメールがそれぞれ一通届いていた。
並んだ名前を見て、思い浮かんだことを口にしてしまう。それはほとんど脊髄反射みたいなものだった。

「そういやオマエ、携帯の電源切ってんのか?」
「え?」

そんなことを言われるとは思いもしなかった、と言わんばかりの呆気にとられたような返事を聞いて、雰囲気をぶち壊しているのは俺のほうなんじゃないかと思えてきた。
実際はそんなことねぇんだろうし、俺の考えすぎだってのはわかってる。
きょとんとした顔を見ていると、思わず苦笑が浮かんだ。
ずっと息を詰めていたような気がした。ためいきのように口からそれを開放すると、つま先から頭に向かって諦めの念が駆け上っていくように力が抜けていく。
ああ、もうこの場でこれ以上を求めるのはどうあがいたって無理だ。後悔してもしょうがねぇ。間が悪かったと思うしかない。
そう開き直れるのが自分でも不思議だった。夏碕の顔を見ていると、こうしているだけで十分だと思えてくる。

「さっき……花椿が連絡つかない、つって心配してたから、よ」
「え?あ、うそ?電源…………あ、切りっぱなし……」

あわてながらブレザーのポケットから出した携帯を、目を白黒させながら操作している姿はいつか見たような気がした。
何がおかしいわけでもないのに、俺は思わず小さく声を上げて笑ってしまう。

「わ、わらわなくったって……」
「あ?ああ、悪ぃ」
「劇のときから切りっぱなしで……あ……メールとかたくさん来てる……」

花椿の言ったとおりの行動で、また笑いがこみ上げてきた。
コイツは意外に、わかりやすいのかもしれない。
誤解してたのは、俺もそうだったのかもしれない。いや、そうじゃなくて、俺はまだコイツのことを全然知らなかっただけだ。
一言しゃべれば堰を切ったように次々に言葉が溢れてくるような気がした。

「また笑ってる……」
「いや、だってよ……」

気恥ずかしいくらいだった雰囲気がまるで夢みたいに思えた。
俺たちは、元に戻れた、のかもしれない。いや、そうじゃない。多分、前より少しくらいは近くなれたと思いたい。
とんでもねぇことをしちまうとこ、だったけど。
拗ねて眉を寄せたままの視線から逃れるように、俺は床に転がったままの缶コーヒーを拾った。
とうに冷め切っているそれを、気休めにもなりゃしないがブレザーの裾で軽く拭く。
夏碕は、メールの文面を一つずつ確認しているんだろう。目と指先を小さく動かしていた。
手持ち無沙汰の俺もつられるようにメールを開く。一番新しい花椿からのメールは、『夏碕見つかった?まさか変なことしてないでしょーね!?』 で、ルカからは、『打ち上げ行くって返事しといたから。お姉ちゃんも連れてこいよ。女王様のご命令』 だと。二人して勝手なこと言いやがる。
なんとなく予想はしていたけど、メーリングリストは、駅前のファミレスでの打ち上げについてのことだった。どうせルカの野郎が二人分の返事をしてるに違いない。誰にも返信せずに携帯を閉じて夏碕を見ると、まだ画面とにらみ合っていた。
いつの間にか、グラウンドから新しい音楽が流れ出している。相変わらず間の抜けた単調なメロディーの繰り返しだ。
俺はもう一度缶コーヒーを指先でぬぐうように弄びながら、脇に避けられていた机に腰を下ろした。
グラウンドでは、音楽の合間に歓声が飛び交っている。

「あ、ごめん……カレンにメールしてて……」

しばらくして、ぱしん、と軽い音を立てて携帯を閉じ、夏碕は俺のほうを見上げた。さっきまでのことが嘘のように落ち着いた顔で。
多分、気にしてないわけじゃないんだと思う。二人とも。
ただ、今はそういう雰囲気じゃないから、敢えてそれに触れないだけなんだろう。

「いい。別に気にしてねぇよ」
「ん……あの、さっき……」
「何だ?」

言いよどむ夏碕は、少し居心地の悪そうな顔をしていた。

「その……さっき、私のこと……名前、で」

片手で放り投げては受け止めていた缶コーヒーを、取り落とした。
言われるまで、気づいていなかった。
“夏碕”と、呼んでいたことに。
呼んでいた事実があまりに自然すぎて、俺はひどく動揺した。そう呼びたかったかと聞かれれば、そうだと言い返すだろう。だから、自分が欲求のままにそうしていたほど自制の働かない男だと思い知ったような気がして、しばらく口が利けなかった。
再び床に転がってしまった缶を、アイツがかがんで拾う。
それを目で追いながら、中途半端にあけた口から息を吸い込んだ。

「――嫌だってんなら、やめ、」
「嫌じゃないよ」

両手で包むように缶コーヒーを抱えて、まっすぐ俺を見たまま、アイツは――夏碕は言い放った。
戸惑いの欠片もない、真剣な目だった。
そうして一歩ずつ俺の方へ歩を進める夏碕は、ほんの少しだけ、頬が赤いような気がした。本当は窓の外で揺らめく炎の照り返しを受けているだけかもしれない。俺の錯覚かもしれない。だけど、

「嬉しい、よ?」

そう言ってはにかむように笑った夏碕は、心の底からキレイだと思った。

「そうか……」

俺は多分、だらしない顔をしているんだろう。自分が喜んでいる自覚くらいは、ある。
ああ、俺はこの顔が好きだ。こうやって笑っているのを見ていると、ガラにもなくほっとした気になる。だから多分、好きなんだろう。
俺は夏碕に差し出された缶コーヒーを、そのまま押し返した。

「やる。何度も落としちまったけどよ、それはオマエにやろうと思って買ってきたんだよ」
「……そうなの?」
「ああ……けど、床に落としたしな……やっぱルカにでもやるわ」
「私、気にしないのに」

どうしてだろう。気にしないと言われて、許されたような気がした。
目を伏せて薄く笑いながら、こんなに穏やかな時間は久しぶりだと思ってしまう。

最後の学園祭は、何もないと思っていた。思っていたのに、蓋を開けてみれば思いもしないことばかりだった。
俺は多分、高校での生活に何の期待もしてなかった。くだらねぇとか、馬鹿馬鹿しいとか、そんなヒネた感想しか持ってなかった。
だけど、そんな俺が今こうして笑っていられるのは、周りのヤツらがいたからだと思っている。
そう思えるようにしたのは、夏碕がいてくれたおかげだと、そう、思っている。
感謝しても、しきれねぇよ。

「打ち上げ」
「え?」

だから残りの時間も、オマエとすごしたいと思う。

「来るだろ。ルカが、連れて来いってメールしてきてんだよ。女王様命令だと。オマエにも来てんじゃねぇのか?」

……俺が、来て欲しいって思ってんだって、言えたら一番いいんだろうけどな。
ダセェにもほどがあるが、どうやら甘え癖がついちまったらしい。
けど、いつかオマエが全力で寄りかかってきても、余裕で受け止められるくらいの男になってやるって、本心から思ってる。本気で、そうなろうと思ったんだ。

「うん……来てたけど……いいのかな、行っても。私、劇のメンバーじゃないのに」
「来いよ。誰も気にしねぇし……それに、もう何も、気にすることなんて、ねぇだろ」

もう誤解も何もない。そう思ってるのは俺だけじゃない。
夏碕は、笑顔のままで大きく頷いた。

俺は、キャンプファイヤーを、踊る生徒たちを見ながら夏碕が言っていたことを反芻していた。同時に、学園祭とは関係のないことも思い出していた。
そういえば、体育祭でコイツと一度も踊ったことがない。三年間で、一度も。
“王子様とお姫様みたい”と言っていた夏碕は、“いいなぁ”と呟いた夏碕は、ひょっとして踊りたかったんだろうか。
あんなモン、誰が楽しいのかと思っていたけど、案外コイツもそういうものに憧れたりするのかもしれない。
フォークダンスとか、演劇のワルツとか、御伽噺の王子様とか。

教会の、伝説とか。

20120714