虹のワルツ

83. 現実を背中に背負う(ミヨ)


思い出してみれば、学園祭間近のカレンは変だった。誰も気がつかなかったのは、みんなそれぞれが自分のことで手一杯だったから、なのかもしれない。
打ち上げが終わって散り散りに帰路に着く制服姿のみんなを、カレンは困ったような顔で、見つめるともなく眺めてた。
私たちはようやく気づく。
カレンは家に帰っても、そこには誰もいない。

“帰りたくない”

お祭りの騒がしさから抜け出した後に明かりの灯らない家に帰る寂しさが、絶対に弱音なんて吐かなかったカレンを、きっとついに打ちのめしてしまったんだろう。


***


『センター試験まであと50日』

11月が終わる。
黒板の端にはいつのまにかカウントダウンのカレンダーが書かれていて、クラスのみんなは犯人である担任の先生に、それはもう大きなブーイングを浴びせた。
本当は、それを気にしなきゃいけないことを誰だってわかっている。ただ、学園祭が終わってすぐにそんなことを書かれてしまってがっかりしたのは私も同じだった。小学生くらいの子がお母さんに「宿題やりなさい」って言われて「今やろうとしてたのに」って言い返すような。みんな一度はやったに違いないやりとりを思い出した、それもあるけれど、いい加減大人になりつつある私たちは、先生から見ればまだまだ子供だって言われているようでもどかしかったんだと思う。

「センター試験もそうだが、来週は期末考査だ。推薦入試を受験する者もいるだろうが、だからと言って気を抜かないように」

数学が始まる前に、氷室先生が釘をさす。
さっきの古文の時間にも同じことを言われてげんなりしているクラスメイトは、今度は相手が相手だから何も言わなかった。だけど教科書のページをめくる手はみんな面倒そうだ。文系クラスの半分くらいは数学が苦手だから、って理由でここにいる。昼休み直前の授業が苦手な科目。それだけが、けだるい理由じゃない。
いつまで小言を浴びせられるのか、そういう反抗心を持っている反面、私は考えていた。
卒業して無事に大学生になれたら、今度は誰も何も、言わなくなってしまうんだろうか。
望んでいたことが訪れても、いつか寂しさをこぼすように、ないものねだりをし続けるんだろうか。


***


「花椿さんなら家庭科室だよ」

試験期間前の放課後は、授業一コマ分だけの自習時間が設けられていて、日によって違う先生が質問を受け付けるために監督をしてくれる。今日は、少しだけ疲れた顔をした大迫先生が私のクラスにいた。大迫先生は、小声の質問に答えるときもやっぱりちょっと、声が大きかった。
とうに日が暮れている校舎から、一気に生徒たちが吐き出されていく。クラブも休みだからほとんどの生徒が帰宅する中で、一部の生徒は特別授業を受けたり、自主的にまだ残って勉強をしている。

「家庭科室?」

なんとなくカレンのことが気になって訪れた彼女のクラスには、カレンの姿はなかった。一人だけ残っていた子に聞いてみると、最近はずっと家庭科室に入り浸っているらしい。

「うん。花椿さんってさぁ、ゴロー先生の秘蔵っ子なんでしょ?勉強しなくてもさ、そういう才能があればいいよね」
「ありがとう」

なんだか皮肉交じりの口調に目を伏せる。愚痴を吐く相手にさせられそうで、振り切るようにして私は彼女の前から駆け出した。
学園祭の前ならまだわかる。なのにカレンはどうしてまだ家庭科室なんかに通いつめているんだろう。
確かに課題を出されている、というようなことは聞いていたけれど、何もこんな時期にまで学校に残ることもないのに。
さっきの女の子の言葉を思い返す。
あんな風に誤解されて、カレンは平気なんだろうか。自分のことじゃないのに、私は無性に心が落ち着かなかった。
人気のなくなった校舎を、コートを羽織ったまま歩く。少し引きずるような自分の足音が大きく聞こえる。誰もいない、廊下。時折晩秋の風が窓ガラスを揺らす。太陽を追い払った空には星も見えない。
難関大を受ける子たちが遅くまで補習を受けている教室を通り過ぎて、私はようやく上履きをひきずるのをやめた。


***


「カレン、」
「うわぁっ!?」

家庭科室の中には、カレンだけがいた。

「なんだ……ミヨかぁ……」

カレンが驚いているのも当たり前と言えば当たり前。だって今は試験前で、みんなもう家路についている。だけど私がここにいるよりも、カレンが残っていることのほうが、おかしい。
そのカレンはミシンの周りにさまざまな色の布の塊を散らかして、一心不乱に作業に没頭しているみたいだった。
ドアを開けるのと同時に声をかけた私に驚いたカレンは反射的にミシンのスイッチを止めて、そういうところは純粋にすごいと思うけれど、反面呆れもした。

「何してるの?」
「何って……」

見ればわかるでしょうって顔をしたカレンに、今度は違う質問をしてみる。本当に聞きたかったことを、わかりやすく。

「なんで家庭科室にいるの?」

他の子ならともかく、カレンなら家にミシンくらいある。それも、普通の家では見かけないような多機能な高いミシンが。家庭科室のミシンなんて、カレンにとってはおもちゃみたいなものに違いないのに。

「なんで……って聞かれると、なんて答えていいのか、わかんないや」

手を止めて振り向いたまま、カレンは笑った。ごまかすような顔は、本当は泣き出したいのをごまかそうとしているように見えた。
学園祭の日と同じ。

「……今日は、泊まりに行けないから。言っておくけど」

打ち上げが終わった後、カレンは泣き出しそうな顔で一言『寂しい』と呟いた。
夢のような時間が終わって、後は一人きりになるしかないカレンと、結局バンビと夏碕と私の三人で夜通し盛り上がってしまった。
いつもなら一人ぼっちのカレンの家で。

「わかってるよ、そんなの……」

寂しそうな、でも少し拗ねたように口を尖らせてカレンは頬杖をついた。背中を向けたまま。
あのときは、カレンは学園祭が終わったのが寂しいんだと思っていた。私もそうだったから。みんな、そうだと思っていたから。
だけど落ち着いてから色々なことを思い出して、カレンが本当に怖がっていたのは、そんなことじゃなかったんだと思う。
カレンは、高校生活が終わるのが嫌なんだと思う。

「ミヨちゃんの、いじわる」
「ちゃん、はやめて」

私だって、卒業するのは寂しい。
だけどカレンは、卒業したらアメリカに行ってしまう。私が「みんなと離れ離れ」なんて言ったところで大半は同じ市内に残るだろうけど、カレンは違う。私たちにとって、海を越えることはとても難しい。半日の時差のある国に電話をすることも、きっと難しい。二度と会えないわけじゃない。だけど、私よりもずっと離れ離れ。
黒板のカウントダウンは毎日確実に、一つずつ数字を減らしてく。カレンは多分、残った数字を考えないようにしている。目に見えてわかってしまうのが怖いから。
だけど、怖いからこそ、カレンはギリギリまで今立っていられる場所にいようとしている。だから家庭科室に残って、その空気を、学園のことを、覚えていられるだけ覚えようとしているんじゃないかって、私は思ってる。
たとえ誰かに心無いことを言われたとしても。
もしかしたら、そういうふうに言われることだって、カレンは大事にしたいのだろうか。

「結局さ、一回も呼ばせてくれなかったじゃん」

ケチ。
カレンはスツールの上で膝を抱えてしまった。まるで、子供みたいに。

「ウソ。呼んでた」
「え?いつよ?」
「中等部の頃。最初だけ」
「あれ?そうだっけ?」
「忘れたの?」
「……思い出せないだけ!」

あーあ、帰ろうかな。
立ち上がってミシンの電源ケーブルを抜くカレンを、私はコートのポケットに手を入れたまま眺めていた。

「ねーミヨ、お腹すいたねー」
「うん」
「どっか寄って行かない?」
「……少しなら、いい」

晩御飯の支度をして待っているお母さんのことを少し考えて、それからカレンの顔を想像して、自分のお腹の状態を確認して、何が決め手だったのかわからない。
だけど寂しそうな顔にほだされてしまうほど、私はお人よしじゃない。
そんなに中途半端な仲だって自覚も、ない。

「やったっ!じゃあじゃあ、商店街に新規オープンしたラーメン屋いこっ!」
「ラーメン?」
「そ、ラーメン!」
「…………」
「あれ?ダメ?」
「ダメじゃないけど、意外。それに太るんじゃないの」
「……聞こえなーい」

カレンが言うには、昼休みにはばちゃで見かけて以来頭が“ラーメンモード”だったらしくて、どの道一人でも食べに行こうとは思ってたみたいだった。
膨れたおなかをさすりながらの帰り道、カレンは満足そうに笑った。

“また行こうね”

たとえばずっと前から約束していたショッピングの日より、こうやって行き当たりばったりに放課後の買い食いをするほうがなんだかずっと大切なことのように思えるのはどうしてだろう。
深い深い青に満たされる空の下、私は多分今日のことを一生忘れないような気がした。
きっと大迫先生の大声も、氷室先生のお小言も、嫌だなあって思いながら、ずっと覚えているんだろう。
そして、私よりずっと背が高くて、みんなから人気で、だけどちょっとだけ気が弱くなることもある、そんな女の子がいたことを、私はずっとずっと、絶対に忘れないんだと思う。

20120909