虹のワルツ

93. 変わらないものをひとつ君にあげよう(琉夏)

まだずっと、小さい頃の話。

十二月を迎えると、キッチンのカウンターに平べったい“家”が現れた。
その“家”は正面の壁一面に小さな扉が並んでいて、真ん中には丸いカレンダーがついている。まるで時計みたいにならんだ数字のさらに真ん中に、一つの針、時計の針を模していた針があって、俺は毎日、それを進めていった。一日分だけ、一目盛りの分だけ。
進めるごとに、同じ数字の扉を開ける。中にはチョコレートが一つと、それから聖書の御言葉が書かれた紙が一葉。

『あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。』

たとえ平仮名だけで書かれていたとしても、幼い俺にはよく意味がわからない。
今だって、理解しているとは言えない。

『あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。』

俺は母さんにその意味をたずねたんだろうか。
甘いお菓子のにおい、あたたかい手、セーターを着込んだ腕に抱きしめられた感触。

『あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。』

もう、思い出せそうにもない。


***


「なぁ、ちょっと寄り道してもいい?」

冬の夜道をSRで走りぬける。
イヤだって言われても、俺は次の曲がり角を左に行く。だけど美奈子は異を唱えないだろうと思った。
甘えじゃなくて、時々俺たちは同じことを思いついたりするから。それに、まだ時間だって早い。

「寄り道?いいよ!」

向かい風に押し返されない声に少し笑う。
ダウンジャケットのボリュームを押しつぶす腕に力がこめられて、俺たちは左に体を少し倒した。

人気のない学校は、冬のほうがずっと怖い気がした。
誰もいない。もう少し早い時間なら、部活動の生徒たちが残っているのかもしれない。
だけど、怖くても人がいなくてよかったと少しだけ思った。

空が澄んでいる。
明るい月の周りを除けば星がたくさん、瞬いていて、あの空が絨毯だったら寝そべってみたいとすら考えてしまう。
草むらを足でかき分けながら、美奈子の手を引いていく。ここに来るたびに、ちょっとした笑いが込み上げてくるようになったのはつい最近だ。
コウ、俺が気づかないなんて思ってたんだろうか。
同い年の兄貴がどんな顔をして世話をしているのか想像するのはそれなりに気持ちが悪くもあるけれど、それが多分俺の、俺たちのためだってことを知っているから、俺はそっと、サクラソウの株だけを慎重に避けながら歩みを進めた。
誰かのために生きるということ、そもそも、この世界を生き抜くということ。俺にはとても、難しいことのように思える。人は何のために生まれるのだろう。自分のやりたいことを成し遂げるため、好きなように生きていくはずなのに、どうしてこの人たちは僕のために投げ出せるのだろう。
僕がいなかったら父さん、母さん、今も世界にとどまっていたのでしょうか。
神様――



「教会……久しぶりだね」

俺と美奈子は、教会のステンドグラスの前に立った。
12月の冷たい空気は容赦なく袖口とか襟元とか、足の先からも忍び込んでくる。美奈子が小さく震えながら両手をこすり合わせている。その目は、俺が口を開くのを、どうしてこんなところに来たのかを、知りたがっているように見えた。
俺だってわからない。こんな日にこんなところにくれば、悲しいことしか思い出さないのに。

「クリスマスだからね、ちょっと、イエス様に挨拶」

下手なごまかしのような気がした。こんなときにだけ都合よく神様の名前を口に出して、今に罰が当たるに違いない。
これ以上の不幸なんてあるだろうか。
あるさ。手に入れられると思った暖かいものが、きっと今にこの手をすり抜けていくに違いない。
それがきっと、罰だ。

「そっか……琉夏くんは、クリスチャンなの?」

美奈子のことが、ときどき少し怖くなる。俺が何かに怯えているのを見透かしたように、彼女は優しく手を握ってくれる。今もそうだ。美奈子の小さな、暖かい手が、俺の腕にそっと絡まった。
どうしてオマエはそんなに優しいんだろうな。みんな、そうだ。
俺なんかにかまったって、いいことなんてないよ。
みんな壊しちゃったんだ。俺は、全部、幸せというものを、見境なしに。

「どうだろう……小さい頃は、クリスマスに、家族でミサに行ったよ。前の母さんが、クリスチャンだったから」

だけどもしも、今までずっと隠していたことを洗いざらい話して、正直になれたのなら、俺にだって暖かいものに触れる、その権利が生まれるだろうか。それをずっと、この腕の中に留めておけるようになれるんだろうか。
俺は美奈子の手をとって、ダウンのポケットの中へ一緒に突っ込んだ。
彼女が、少し驚いたような気配がする。

「前のお母さんって……」
「前の父さんと母さん、事故で死んじゃって、俺はコウの家に引き取られたんだ」

雪が降り出した。
珍しいなと思った自分が悲しかった。生まれた土地は雪なんて四六時中降ってたようなものなのに、俺は辛い思い出と一緒に、記憶すらも遠ざけているみたいだ。
もう、こっちに移ってからのほうが長い。俺はどこから来てどこへ行くのか、根っこになるものがなんなのか、わからなくなる。
わからなくなりながら、時々、ごつごつした氷のようなものを体の奥から引きずり出して、痛みを忘れないようにそっと撫でる。
でももうそれも、終わるような気がした。

「黙ってて、ゴメン」

息を呑んだまま絶句した美奈子の手を握る自分の手に、俺は少しだけ力をこめた。
こんなこと言って、美奈子はどんな思いでいるんだろうか。同情とか憐憫とか、もう何でもいい。美奈子の心の中に、俺がちゃんと根付いていますように。
この震えを治めてくれるのが、他ならぬ彼女でありますように。

「ううん、私こそ、何にも知らなくて……そうだったんだ……」

美奈子は、俺の手を握り返した。
女の子の力なんて本当に大したことないのに、どうしてこんなに心強くなったんだろう。俺が弱いから、ああ、そうなのかもしれない。きっとそうだ。
俺は弱いんだ。今も。
小さい頃はコウに守ってもらって、少し成長したらケンカもするようになったけど、結局最後は両親に尻拭いをさせて。
俺のせいだって思って家を出たのに、結局誰かがいないと俺はどうしようもなくなる。友達、先生、家族、好きな人たち。
ちっとも大人になれない俺は、前よりも甘ったれになってる気がした。
甘ったれの根性なしは、何かを振り払うように言葉を吐き出す。

「もう、昔のことだ。最近じゃ、写真を見ないと二人の顔も忘れそうになる。
時間って不思議だ。子供のころはさ、いつも二人のこと考えてて、思い出すたびに、重たい石みたいな塊が込み上げて、苦しかった。今もその石は無くならないけど、いつか自分の一部になってちゃんと、胸の奥にしまえるんだと思う。
どうしてだろうな。オマエが笑うの見るたび、そんな気がするんだ」

オマエが笑ってくれると、本当にあったかい気持ちになるんだ。
こんな話をして、正直になって、まっとうになりたくて、そういうんじゃない。
俺はただ、楽になりたかった。全部全部打ち明けて、俺のこと知って欲しかった。それだけだ。

「おかしいよな。でもな、俺はオマエと一緒にいると、本当は俺にだって幸せになる道があるように思えてくる」

都合がよすぎるよな。
こんな風にすがるだけしかできなくて、俺はその代わり美奈子に何ができるんだろう。何かしてあげたいのに、何もできやしない。
でも美奈子は、そんなのお構いなしに俺の手を握ってくれる。だから、もしかしたら、俺が無力でずるくて、しょうもない人間だって知っても、俺のことを見放さないような気がしたんだ。
甘えたかったんだ。美奈子がいてくれたら、俺はこんな世界だって心から愛せると思ってたんだ。

「ずっと世界がうらめしかった。どうして俺だけこんなふうなんだろうって、思ってた。もしも世界中の幸福と不幸の量が決まっているとしたら、誰かが不幸にならなきゃ、俺は幸せになれないって、そんなことも考えてた。俺はね、だったら不幸でもいいやって思った。今の父さんも母さんも、コウも、俺のせいで不幸になんてなってほしくなかった。馬鹿みたいだろ。自分が不幸なことに納得できないくせに、そう思い込もうとしてたんだ」

雪が降ると、世界はとても静かになるような気がする。
すべての音を吸い込んで、雪は嫌なものまで覆い尽くしていく。少し、泣きたいと思った。その涙さえ、雪の欠片が吸い取っていくみたいに思えた。瞬きをしても、俺の両目は乾いたままだ。

「琉夏くん……」

俺は、オマエに何て言ってほしいのかわからない。本当は、何も言われなくてもいいのかもしれない。
いいんだよな、それで。俺がただ吐き出して、楽になりたかっただけだから。これ以上のわがままなんて、もう望めない。

「ありがとう、美奈子」
「え?」

ちゃんと目を合わせると、美奈子はほっぺたまで赤くしていた。ごめんな、こんな寒いところに連れ出して。

「美奈子がいてくれたから、俺はちゃんと生きられる気がする。美奈子に出会えて、俺、本当によかった」
「私……」
「オマエはね、自分で思ってるよりずっと、他の人にいい影響与えてるんだよ」
「……そうなの?」
「そう。だから俺も、いつかオマエの十パーセント分くらいは、誰かのために何かできるようになりたいって思うよ」

その前に、オマエのために何でもできるようになりたいけど。

「琉夏くんなら、できるよ。私だって、琉夏くんと会えて嬉しい。よかったって、ありがとうって、思ってるもん」

今にも泣き出しそうな顔で笑いながら、美奈子は俺の手をいっそう強く握り締めた。
何でもできるようになりたいって思ってるけど、多分俺は、美奈子のためなら何だってできるようになってしまったんだと思った。
同時に、ようやくわかった。
心の底にすとんと落ちてきた。
もしも美奈子が危ない目にあっていたとして、俺がどんな犠牲を払っても美奈子を助けることができたら、それは本当に幸せなことだって思うんだろう。
父さんと母さんも、死んでしまったことはきっと不幸なのだろうけど、俺をかばうように抱きしめてくれた母さんも、ハンドルを切って後部座席を守ろうとした父さんも、俺が今生きているって事実が救いになったのかもしれない。
愛してくれた人はもうこの世界にいなくても、愛されていた事実は、いつまでも消えない。俺が覚えている限り、俺が生きてる限り。そういうものをいつまでも心に持つことができるのは、本当はすごく幸せなのかもしれない。
俺はヒーローになりたかった。小さい俺は自分自身を守るだけで精一杯で、守ろうとする代わりに誰かを傷つけることしかできなかった。
でも、もうヒーローじゃなくていい。俺は、俺の守りたいものを守れるなら、その場で負けたってどうなったっていい。

だけど、できることなら大切な人を悲しませたくなんて、ない。
しんしんと降り続ける雪を見上げながら、じんわりと熱くなった目頭を感じた。
星が、綺麗だ。
月も綺麗だ。
夜空に舞い散る雪も綺麗だ。

この世界は、今日も美しい。

「美奈子、」
「うん?」

隣に大切な人がいる。彼女は僕の手を握って暖めてくれる。
それだけで、目の前の景色が生まれ変わったように輝きだす。

「メリークリスマス」

美奈子の笑った顔が見たくて、一番好きな表情が欲しくて、俺は、笑った。

20121225