虹のワルツ

94. 歩みは遅く、鼓動は早く(琥一)

三年三学期の学校は、妙な雰囲気だ。

他の学年は知ったこっちゃないが、三年生の大半は週末のセンター試験に向けて追い込みをかけている。俺やルカを含む、そもそも大学を受験しない連中は、いささか居心地の悪い思いをしながら、残りわずかな登校期間が終わるのを待っていた。
私立大に行くやつとか、推薦で決まっているやつでも小波のように「センターは一応申し込んでたし、受験するつもりだよ」 なんて物好きを言ってる人間もいる。俺にはそういうのをする心情もよくわからないが、記念受験とか言うらしい。まごうことなき物好きだと思う。


***


「よし、許可証だ。自由登校期間になって学校に来なくても、卒業式までは高校生だから節度ある行動を心がけるように」
「うす」

職員室で受け取った、自動車学校の入学のための許可証は、ぺらぺらの紙切れだった。
このたかだか一枚を手に入れるために、二学期の補修を全部受けて卒業条件を獲得したのだ。どういう風の吹き回しかと、補修仲間からそんな顔をされたことを思い出す。補修仲間、進学校の中のおちこぼれとでも言っていい中でも、明確に進路を決めていないのは多分、俺とルカくらいだったような気がする。
いや、俺だけ、か。


***


『大学に行きたい』

ルカはそう言ったらしい。
らしい、というのは、ルカと親父が話していた場に俺がいなくて、それを親父から又聞きしたから、だ。
あのルカが自分から、勉強するために、大学に行きたいなんて。そう驚いたのは俺だけじゃなかったし、多分親父のほうが俺の何倍も驚いたに違いない。
大学でやりたいことでもあるのかと聞いた親父に、ルカは笑ってこう答えたらしい。

『わからない。でも、俺がやりたいことと、俺にできること、両方満たせるようなことがしたい』

漠然としすぎる。けれど、有無を言わさないような妙な迫力、プラス、ルカのいつにない熱心な頼みに折れて、親父はルカの浪人を許可したんだろう。……今年大学を受験しないルカが来年“浪人生”というのかどうかは知らないが。
親父はひょっとしなくても、ルカが初めて自分の将来について、「これがやりたい」 と言い出したことが嬉しかったのかもしれない。俺だって、ルカが将来何になりたいとか、そういうことは知らない。ヒーローは、ノーカウントだ。
そして俺も、自分が何になりたいのかわからない。ルカのように、何が自分にできるのかなんてことも考えたことすらない。大体、何やったって人並み以上にできるやつがそういうことを言うのは、正直嫌味にも思える。もちろん、ルカはそういう意味でその言葉を言ったのではないだろうけど。

ただぼんやりと、自分は多分親の仕事を継ぐんだろうと思っていた。世の中のシステムは大体そういう風にできていると思っていたし、俺の前には生まれる前から道があるんだと信じていた。
親父がその道を歩いている。その後ろを、俺は歩く。綺麗に舗装された道だ。躓くことはあっても、自分から行き先を決めたり、未開の土地を耕すことなんてしなくていい。
楽な人生なんだろう。それがいいことなのか悪いことなのかなんて、考えたこともなかった。
そのときまでは。

「お前はどうするんだ」

聞きづらそうなのは、多分親父としても俺とルカとを比べたくないのかもしれない。昔はこういう場面じゃ、無口な親父が何を考えているのかわからずに困っていたような気がする。今は、手に取るようにとはいかないけれど、なんとなくわかる気がした。

「俺は、」

親父の跡を継ぐ、というのがなぜか気恥ずかしかった。

「俺は、大学なんか行かねぇ」

大学に行かず、ではどうするのか。その後を親父に汲み取ってもらおうと、甘いことを考えていた。

「じゃあ何やるんだ」
「何って、」

見習いでも何でもいいから、親父が俺を雇ってくれればいい。それで、将来的には俺が――
そう言おうとした俺は、口を開けられなかった。真剣すぎる親父の視線に気圧されて。

「念のため聞いとくが、琥一、お前、この会社を継ぐとか、そういうこと考えてるか?」

なんだ、親父だってわかっているじゃないか。そう思って黙ったままうなずくと、親父は「そうか」 と言うだけだった。


***


「そりゃ、そのまますんなりアンタを雇うなんてことは、まぁ、色々あるし、難しいかもしれないわね」

結局親父がどういうつもりだったのかわからずに、お袋に聞くことにした。台所でりんごを剥く背中を見ながら、興味もない新聞をめくりつつ顛末を話すと、複雑そうな顔をされた。

「色々って何だよ」
「色々よ。不景気だからねぇ、採用自体減ってるし、そんな中で経験も資格もない人間を、いくら我が子だからって雇うのはねぇ……ってお父さん言ってたわよ」
「……なんだそりゃ」

つまり俺は、自動的にスタートラインに立てたわけじゃなかったのだ。
じわじわと不安感のようなものが襲ってくる。短期的にはフリーターか何かをして食いつなぐことはできるだろうが、そのままじゃ先は見えない。むしろ、ないに等しい。どういうことなんだ、親父は俺に継がせる気なんてないのか。そう考えている俺の目の前に、綺麗に向かれたりんごが置かれた。
お袋は、一つ食べながら笑う。

「そんな辛気臭い顔しなくても、別にお父さんはアンタのこと雇わないなんて言ってないじゃない」
「は?」
「経験も資格もないから雇ってもらえないなら、経験か資格を手に入れたらいいってことなんじゃないの?」
「……そういう意味なのか?」
「さぁ、お母さんもよくは知りません」
「資格ったって……」

どんな資格がいいのかとか考えるのも面倒だし、これ以上勉強するのも正直勘弁して欲しい。経験なんて、そんなものは親父の会社に入ってから積むってのは駄目なのか。
上手く働かない頭で逃げ道を探そうとしていると、お袋はりんごの皿を俺のほうに押しやった。母方のばあさんから送られてきたものらしい。そういうことを聞くと、どうしても手を伸ばさざるを得ないのが自分で情けなかった。しわくちゃになって笑うばあさんの顔が瞼の裏に見えるようで。

「なぁ、親父はじいさんからすんなり継いだのか?」
「え?……そうねぇ、でも苦労したみたいよ」
「なんでだよ」
「周りからは、“現場のこともわからねぇガキが、我が物顔で出てくるんじゃねぇ” なんて言われたりして」
「…………」

蜜の入ったりんごは、普通のりんごより甘すぎる。

「でもそれもそうかもしれないわね。いくら社長の子だからって、同じように仕事ができるとは限らない。むしろ経験がない分足手まといでしかないかもしれない。いい加減な人にトップに立たれて困るのは、働いてる人たちだものね。
あ、お父さん、そんなことあったからアンタのこと雇うの迷ってるのよ。親心ってやつよ」
「……親父はそれで、どうしたんだよ」
「がんばったみたいよ、お父さん負けず嫌いだから。誰よりも早く仕事場に着いて、誰よりも多く仕事をこなそうと思って働いたんだって。わずかな休みの時間も勉強時間に充てて。それでも結局、おじいちゃんの跡を継いだのは、おじいちゃんが亡くなってからだもの。十何年もそうやってがんばってたのよ」

俺の知らない親父のことを話すお袋は、なんだか誇らしげだった。きっと苦労の半分くらいは、お袋も味わってきたに違いない。

「お父さんが背負ってるのは私たちだけじゃないからね。従業員全員の生活を背負ってるんだもの。そんな苦労、今に比べればまだマシだって思えるらしいわ」

何を言ったらいいのかわからず、俺は黙ったまま食べかけのりんごを見ていた。
そんな苦労の話をされたって俺はどうしたらいいのかわからない。俺はどうすればいい?

「母さーん、年賀状余ってない?」

沈黙を破って台所に入ってきたのはルカだった。平和な声色に、お袋は呆れたような顔をする。

「年賀状ってアンタ、もう六日だから寒中見舞いにしないと駄目よ」
「え?そうなの? あ、りんごじゃん。二人だけで食べてずりー」
「はいはい、食べなさい食べなさい。どうせコウはちょっとしか食べないんだから」
「じゃ部屋に持って行っていい?」
「駄目」
「ちぇ」

ルカはためらいもなくりんごをかじった。その横顔になんとなく聞いてみる。

「なぁルカ、」
「何?ちゃんとコウの分残しとくよ?」
「ちげーよ。……今からでも私大に申し込めば、オマエならそこそこのとこ行けるんじゃねぇのか?」

そうすりゃ、浪人なんかせずに大学生になれるのに。

「コウ、大学に行くのが目的なんじゃないよ。大学でやることが目的なんだよ。やりたいことやれない大学に入ったって、俺は嬉しくない」

多分、そんなことは聞かなくてもわかっていたはずなのに。俺は自分とルカの違いをまざまざと見せ付けられて、打ちのめされた。
お袋が感激したような顔をしているのが、視界の端に見える。

「あら、ルカがまともなこと言ってる」
「でしょ?大迫ちゃんの受け売りだけど」
「……感心して損したわ」

目先のことだけ考えていてはいけないということは、ルカのほうがわかっているんだろう。
その場しのぎでルカの人生までめちゃくちゃにしたのは俺だ。浅はかな考えで誰かを救えるなんて思い込んでいたのも俺だ。そのツケが全部まわってきたような気がした。俺にはもう何も、わからない。


***


『お前は実家を継ぐのかもしれないが、とにかく、進路が決定したら報告するようにな』

学校は、静かだ。
生徒が帰ってしまっているのか、それともどこかで勉強しているのか。わからないが、とにかく静かだ。
担任の言葉を思い出して、俺は必死に何かを考えようとする。だけど何を考えたらいい?俺は何も知らない。
他人が必死で勉強している間、自分の将来を考えている間、俺は何をしていたのだろうか。

「あれ、琥一くん」

夏碕、

「今から帰るの?」
「俺は――」

俺は、どこへ行けばいい?

20130114