虹のワルツ

95. でも、ごめんね (夏碕)

「っくしゅ!」

去年もそうだったような気がするけれど、毎年センター試験の日は悪天候っていう決まりでもあるんだろうか。
雪のせいで風邪をひいたかもしれない。昨日の白い空を恨みがましく思いながら、くしゃみでムズムズした鼻をこする。
試験から一夜明けての今日は、学校で自己採点の日だった。私は悲喜こもごもの教室を抜け出す。進路指導室へ向かう廊下には昨日の寒さが、まだ残っているようだ。

「失礼します」

石油ストーブの柔らかい熱が、部屋中にこもっている。壁二面が本で溢れて独特のにおいがする部屋の真ん中には、氷室先生が静かに座っていた。
自己採点の結果を告げても、氷室先生は「ふむ」 と、納得したようなそうでないような、よくわからない相槌を打つだけだった。
しょうがない。自分でも微妙な点数だとは思う。足切りされるほど悪くはないけれど、余裕を持って二次試験を受けられるほどよくもない。センター試験と二次試験の合計で合否が決まる国立大の点数配分はそれぞれで、私が希望する一流大学の合格ラインはやっぱりそれなりに高かった。

「私大は受けるのか?」

氷室先生の質問に、私は二つほどの大学名を挙げることで答えた。便利なもので、私大の中には全国の主な都市に受験会場を設けてくれる学校もある。それどころかセンター試験の結果を流用するやり方もあって、これだと申し込みだけで済んで受験会場に出向く必要もない。
私はできるだけ二次試験に集中したかったから、こう言ってはなんだけれど、私にとっては滑り止めでしかない私大はセンター利用で受験することにした。先生は少し、口元を緩めた。

「この点数なら、よほど志望者が集中しない限りは大丈夫だろう」
「……だと、いいんですけど」

氷室先生は事実だけを淡々と言うタイプの人だと思うから、多分私も大丈夫なのかもしれない。だからって舞い上がってはいけないけれど、なんとなくほっとして私は一つ息を吐いた。

「国立は、一流にするのか?」
「はい。……厳しいでしょうか」
「判定はおそらく、C程度だろう」

微妙なところだ。もしも二次試験に数学がなければ、もう少し可能性は高かったかもしれないのに。
大体、文系なのに二次試験に数学があるなんてひどいと思う。もはやそんなことは言っていられない時期だけど、一流大を受験するネックはここなのだ。
他にも、難しい大学でそういうところは多いようで、文系の選抜クラスは数学の特別授業が放課後に二コマ分設けられている。その中で、やっぱり私は駄目なほうで、担当している氷室先生だって頭が痛いに違いない。そんな生徒が無謀にも数学必須の受験をしようとしているんだから。

「厳しければ、それで君は諦めるのか?」

先生は、私と自己採点のシートを見比べた。数学の点数は、一つが96点、一つは……67点だ。

「……それは、」
「点数で選ぶなと言ったはずだ。君は、一流大でなければならない理由があるのだろう。ご家族の意向などではなく」
「……」

おばあちゃんに言われたからでもない。両親に勧められたからでもない。あかりさんや佐伯さんが話してくれたからじゃない。
私は一流大に行きたい。選んだのは私、進むのも私。

「私、一流大を受けます」

受かるかどうかなんてわからないけれど、受験しなきゃ受かるものだって受からない。
いくつか受ける大学のうち、ひとつくらい挑戦圏があったっていいじゃないか。もしも駄目だったら、そんなことはそのときに考えよう。今は、自分がしてきた努力だけを信じていたい。

「わかった。願書は確実に、期日までに郵送するように。いくら大学が近くても持ち込みは受け付けてもらえないからな」
「はい」
「よろしい。以上だ」

氷室先生には、この一年間でずいぶんお世話になった。志望校が中々決まらず、ずいぶん相談にも乗ってもらった。クラス担任の仕事で忙しい大迫先生にももちろんお世話にはなっているけど、個人的には私の担任は氷室先生だったような気さえする。
手のかかる生徒だったに違いない。いつも以上に丁寧なお辞儀で立ち去ろうとすると、

瑞野、」
「はい?」

先生が、少し笑ったような気がした。

「いや、なんでもない」


***


よく意味はわからないけれど、多分悪い意味ではないんだろう。大方、進路に悩む私の問題が片付いてほっと一息、くらいのものなんだと思う。
そう結論付けて、私は冬の帰り道を急いだ。
一月の夕暮れは少し遅くなったとは言え、気温はどんどん下がっていく。かじかむ指先に息を吐きかけながらバス停にたどり着くと、ちょうど発進してしまったバスと行き違ってしまった。数メートル先のバス停に近寄って時刻表を確かめると、残念なことに当分バスは来そうにない。
仕方ない。
カバンの中から、小ぶりの文法のテキストを取りだした。少しの時間すら惜しくて、誰もいないバス停で私はテキストを読み込みはじめる。
次のバスは二十分後。いつもより早く帰るから、きっと中途半端な時間帯なんだろう。午後四時の町は、私の知らない空気をまとっていた。なんだか静かだ。車の通りも多くないし、人が集まる駅は学校を挟んで反対側だから、かもしれない。
意図せず、勉強にぴったりの状況になってしまったな、なんて苦笑しながらページをめくっていると、やたらと大きな音を響かせる車がこちらに向かってきた。爆音が近づいてくる。早く通り過ぎて遠くに行ってくれないかな、と思っていると、その車はバス停の近くに荒々しく停車した。

なんだろう、と、思ってこっそり視線を遣ると、ちょうど助手席のドアが開くところだった。
出てきた人影に、私は思わず顔をテキストで隠した。

琥一くんと、喧嘩してた人だ。

やり過ごそう。黙ってれば、気づかないふりしてれば、きっと大丈夫。
そう信じて顔を伏せてたのに、

「よぉ」

近寄ってきたその人は、私の傍で立ち止まってしまった。ここには私しかいないから、声をかけられれば反応せざるをえない。イヤホンで音楽でも聴いてれば気づかないフリ、できたのかも。そう思ってももう遅い。
ゆっくり振り返ると、爬虫類みたいな目が意地悪そうに私を見ていた。
停まったままの車から聞こえてくる重低音が体中に響いて、心臓の音と区別できない。

「アンタ、琥一の女だろ?」
「――ち、がいます」

もしかしたら、この人は私を使って琥一くんを呼び出そうとしているのかもしれない。ほとんどひらめきに近い考えで、私はそう返事をしながら後ずさろうとした。なのに、

「な〜んだ違うんなら、俺たちとイイとこ行こうぜ〜?」

手首を掴まれて、引き止められる。それどころか、ぐいと引っぱられて車のほうへと連れて行かれそうになる。
抱えていたテキストが、乾いた地面に落ちた。

「や、めて!放してください!」
「ンだよ、楽しいコトしようって誘ってんだぜ?そこまで嫌がることねぇだろ?」

腰に手が回されて、言いようのない嫌悪感が背筋を這い上がってきた。身を捩って逃げようとしても、私の力じゃどうにもならなかった。

「嫌っ!」
「……うるせぇ女だな、そんなに嫌ならよ、」

両手首を掴まれて、強制的に正面からにらまれた。嫌な顔。こんな人に触れられたくない。

「琥一呼べ」

息を呑むしかできない私を、彼は楽しそうに見ていた。実際、楽しいのだろう。彼にとってはどちらに転んでも、それはそれでいいのかもしれない。

「呼んだらお前のことは見逃してやるよ、悪くねぇだろ?」
「…………」
「呼べよ、琥一ク〜ン、助けてぇ〜ってよぉ!」

どうしたらいい?
早く逃げたい。でも一人じゃ逃げられない。だけど琥一くんを呼ぶなんてできるはずがない。そんなことしたらまた喧嘩になっちゃう。
じわじわと涙が溢れそうだった。恐怖と、嫌悪感と、無力さゆえの、悔し涙だ。

「アンタが呼ばねぇってンなら俺が呼んでやるよ、代わりにな。ケータイ出しな」

はっと、気づいた。
多分、私を連れ去ることより琥一くんを呼ぶことを優先してるのかもしれない。もしそうじゃないなら、私はとっくに車の中にいて、どこかへ向かう道すがらに琥一くんを呼び出すに違いないから。
だったら、私がどうにかして逃げてしまえばいい。

「……嫌です」
「あぁ?今なんつったよ?」
「携帯は、出しません。琥一くんも、来させない」
「……見た目より度胸はあるみてぇだな」

苛立ちを隠さない視線に、一発や二発は殴られるかもしれないと覚悟を決めたとき、

「――オイ」

どうしてそこに通りがかったのか、きっと誰にもわからない。わからないけれど、琥一くんはそこにいた。
私の好きな人の声は、いつもよりもずっと低かった。

「何してんだ」

足早に近寄る琥一くんの顔がこわばっていた。見たことないような怖い顔だった。
片手だけ開放されて、私は少しだけバランスを崩しそうになった。掴んでいた本人は、もう私のことはどうでもいいらしい。琥一くんのほうを向いて、殺気だった目をしている。

「呼び出すまでもなかったってか、へッ!正義の味方気取りかぁ?琥一」
「放せ」

琥一くんは、多分怒っている。

「やっぱテメェの女かよ」
「放せっつってんだ!」

もっと早く学校を出ていれば、こんなことにはならなかった。
今更どうしようもないことを後悔しながら、私は唇を震わせるしかできなかった。

「放してやってもいいけどよ琥一、わかってんだろうな」

やめて。

「……頭ねぇくせに周りくどいことしてんじゃねぇよ」
「あぁ?」
「テメェらが用があんのは俺だろうが。関係ねぇ女の尻おっかけまわして何になるってんだよ」

舌打ちと同時に、私は解放される。乱暴に振りほどかれた勢いそのまま、地面に膝をつきながら。

「テメェ、減らず口きいてんのも今のうちだ」
「クッ、聞き飽きたんだよ、ンな台詞はよ」

待って、と、言いたいのに、私の体はどこも言うことをきいてくれない。そして琥一くんは導かれて車に乗り込み、どこかへと走り去ってしまった。
もう、うるさい重低音は聞こえない。
ここには私以外、誰もいない。

「…………どうしよう」

視界がにじんできた。
日が暮れ始めた街に、雪が降り始める。ぼやけて大きく見える白い風花。座り込んだままの足が冷える。

追いかけたらいいのだろうか。
そんなことは考え付かなかった。
何も考えられなかった。
私はただ、雪の降りしきる中泣きじゃくっていた。

20130120