虹のワルツ

96. ため息の海におぼれて (琥一)

こんなことになるなんて思っていなかった。
そんな顔をさせるつもりなんてなかった。
いくら言い訳をしても、オマエは二度と笑ってくれない。
「もう、いいよ」 とつまらなさそうに呟くだけで、俺と視線すら合わせようとしない。

これが、報いだ。


***


真っ白な海の中にいるようだった。
目を開けると、薬のにおいが染み付いたシーツが広がっている。
嫌な夢を見た。現実かと間違えてしまいそうなくらい、嫌な夢だった。正夢になりそうで、俺は寝返りを打ちつつ布団をかぶりなおした。
病院の布団というのは、どうしてこうも重たいのだろう。

昨夜一緒に搬送されたルカによると、補修を担当している他所の学校の教師と、小波と三人で帰っている途中で夏碕を見つけたらしい。なんとか事情を聞きだしたルカは、そのままバイクを飛ばして埠頭までやってきた。
俺が「ルカを呼び出せ」 と馬鹿共に何度言われてもつっぱねていた矢先にこれだ。俺も似たような顔をしてたに違いないが、あのときの連中の顔は中々見ものだった。今、思えば。
そのときは正直混乱していて、俺だけが殴られてりゃ終わるだろうになんでオマエまで、とか、ルカの野郎暴れたりしねぇだろうなと心配したりだとか、そんなことを考えていたのかもしれない。正直、イマイチ覚えていなかった。
ぼんやりした記憶の中、その若王子とかいう教師が通報したのか、埠頭に向かって群れを成して走ってくるパトカーと、救急車のサイレンがやけに耳に残っている。
凍えるような寒さの中で体中をあざだらけにされて、そんな記憶は確かになくなればいい。どうせ事実は消えないのだから。ただ、俺は無理でもせめて、アイツの記憶からは消えてなくなって欲しかった。

病室のドアがノックされる。
何時だろうと壁を見上げると、朝の七時だった。病院の朝は早いらしい。
ぺたぺたとサンダルを鳴らして入ってきた看護士のオバサンは、サイドテーブルにカルテらしいものを載せる。プラスチックが触れ合う音は、体温計か何かだろうか。

「桜井琥一くん、琉夏くん。起きてる?」

起きてなかったらたたき起こすつもりなんだろう。カーテンを勢いよく開けられて、否が応でも瞼の裏が痛くなる。

「……うす」

視界には、朝日に照らされて埃がちらちらと舞っていた。昨日の雪のようだった。埠頭にあお向けに転がって、空から絶え間なく降ってくる雪を見ていた。にび色の空、灰色の天井。

「おはよう、琥一くん。琉夏くんはまだ寝てるのかしら?」
「俺、寝てます」
「起きてるじゃないの。顔洗ったら検温して、三十分してから検査室に来るように」
「うす」
「はーい」

看護士が出て行くと、頬骨のあたりが青黒いルカは、だるそうにあくびをしようとして、切った口の端が痛むのか呻いた。
顔に限らず体中が似たような状況の俺は、かみ殺すようにあくびをする。同じことやる意味なんてねぇ。
教訓ってのは、こういうことだ。

昨夜病院に運び込まれたのが何時ごろだったのか覚えていない。
傷の手当と検査をずいぶんと長い時間かけて施されて、その後は警察に事情徴収の予告だけされて、親父とお袋がどうしようもなさそうな顔をしていて。
医者や看護士から何度も「頭は打っていないか、変なところが痛まないか」 と聞かれたときには受け答えできたのに、俺は一体誰に、アイツが無事でいるかどうかを聞けばいいのかわからなかった。
ちゃんと帰れたんだろうか。どうしているだろうか。
聞くのが怖かったのかもしれない。ルカは何も言わなかったから。俺に不都合な現実を言うまいと、気を遣われているのかもしれないと思ったから。

洗面台で歯を磨こうと口を開けると、今度は俺が切り傷に顔をしかめる番だった。
そもそも俺たちが、特に大きな怪我をしていないにも係らずこんなところにいるのには一応の理由がある。
昨夜俺たちを診た若い医者が「頭部の外傷は時間が経ってから影響が出ることもありますし、念のため明日、再検査しましょう」 なんて言うもんだから、鵜呑みにしたお袋は俺たちを同じ病室に放り込ませて一夜を過ごさせたのだ。たまったもんじゃない。一晩しかインターバルを空けない検査なんて意味があるんだろうか。俺はきっと、当直の医師が自分の腕に自信がないもんでそんなことを言って検査させようとしたに違いないと踏んでいる。そう言うと、ルカは納得したように二三度うなずいて、迷惑そうに「かもね」 と答えた。
お互い、家に帰りたいらしい。

予想通りに俺たちの頭には異常なんてなかった。じいさんになりかけのベテランっぽい医者は、「まぁ若いし、無茶もやるだろうねぇ」 と訳知り顔で笑い、「でも本当に後から痛みだすこともあるからねぇ、おかしな痛みが出てきたらすぐに来なさい」 と、しっかり脅しをかけていった。なにやら死の宣告でもされたような陰鬱な気持ちで診察室を出ると、外来受付の椅子にお袋がいた。

「なんともなかったの?」

心底不安そうな顔に、申し訳なくなった。
俺とルカは、努めてなんでもなさそうに笑い飛ばそうとする。お袋はそんな俺たちにため息をついて、午後から警察署に連れて行くと宣告した。本日二度目の宣告、二度目の脅しだ。

「お巡りさんから聞いたけど、今回はアンタたち、お咎めなしになりそうだってね」
「……そうなの?」

俺たちがズタボロになっていながら自分たちだけは無傷だったのを追及されて、連中は正直に白状したらしい。俺たちが呼ばれるのは裏づけを得るためだとかなんだとか。
アイツらがどういう風になるのか知ったことではないし予想もつかないが、後味の悪さだけは残る。それでも、今後は多分こんなことは起きないだろうと思うとほっとした。黙って蹴られ殴られ続けた甲斐だってあった。

「卒業前に喧嘩やらかしてどうしたものかと思ったけど先生方もわかってくださったみたいよ。本当最後まで手間ばっかりかけさせてアンタたちは……。それにしてもあの理事長さん、ダンディでステキよねぇ」

お袋の長話が始まった。正確には、始まろうとした。付き合わないでもないが、さすがに心身ともに疲弊しきってた俺とルカは、部屋を片付けてくるとかなんとか適当に理由をつけて待合室から逃げることにする。
布団はちゃんと畳めだの、ゴミはまとめておけだののお小言を背中に浴びながら。


「怒られるかなぁ」

二度寝するつもりなのか、ベッドに勢いよく飛び込んだルカがぽつりと呟いた。

「誰にだよ」
「親父」

窓のほうを向いたままの後ろ頭を振り返る。気にしていたとは思えなくて。

「殴られるかなぁ」
「さぁな」
「こんなだし、今殴られたら痛いだろうなぁ」

ルカは少し、身を震わせて笑った。
古めかしい空調が、乾燥した風を部屋中に撒き散らしている。俺はこういう臭いが大嫌いだ。

「痛ぇだろうな」

俺もつられて軽く、笑った。


その後も何をするでもなくぼけっとベッドの上に寝転がっていた。起き上がったルカは窓の外を眺めているようだ。
言わなきゃいけないことが、あったような気がする。
多分ルカに謝るとしたら、今が最後のチャンスなんだろう。そう思っても、口は重く閉じたままだし、頭はちっとも働かない。そろそろお袋が「まだ支度できてないの!?」 とか言いながら怒鳴り込んできそうなものなのに、二人ともその場を動こうとしなかった。

「あっ」

不意にそんな声を出して、ルカは腰を浮かせる。

「どうしたよ」
「うん…………なんでもない」
「なんだそりゃ」

言葉尻を濁しておきながら、ルカは立ち上がって「ジュース買って来る」 と、廊下へ出てしまった。
外に誰かいたんだろうか。担任とか、まさか氷室が来たとか。我ながら嫌な思いつきにうんざりする。ルカは逃げたに違いない。薄情者、一言言ったっていいんじゃないか。俺もどこかへ雲隠れしてしまおうか、そう思って上半身だけ起こした瞬間に、ノックの音がする。遅かった。

「……はい」

しょうがねぇ。人生十八年分のツケは今日一日で払いきってしまおう。そう覚悟を決めた俺の前に現れたのは、

「あの……あれっ」

夏碕だった。
一瞬、大きなマスクのせいで誰かと思ったが、目元と声が夏碕だった。
まさかの展開に混乱して絶句していると、夏碕は、マスクを指先でずり下げて笑う。笑顔は、どこかごまかすような余所余所しいものだった。

「びっくりした。誰かと思っちゃった」
「は?なんでだよ」
「だって、髪」

言われて思い出した。寝起きのままだった。昨夜無理矢理シャワーを浴びさせられて、起きたら起きたで頭部の検査をするからそのままでいるように言われて、結局今の今まで髪のことを忘れていた。
無性に恥ずかしくなって、あわてて両手でかきあげる。

「見んな」

つっぱねるように言っても、夏碕は微笑んでいるだけだった。「なんか、かわいい」 って、冗談じゃねぇ。笑うな。

「オマエこそ、マスクなんかして誰かと思った」
「あ、これ、風邪ひいちゃって」
「……人の見舞いに来るより養生してろよ」
「うん……でもお見舞いっていうか、」

小さい咳を挟んで、夏碕は申し訳なさそうに頭を下げた。

「謝りに来たの。ごめんなさい」

髪の一房が遅れて肩からすべり落ちる。整った毛先は性格を現しているようで、そんなことを考えてしまうのはつまり、なんでそんなこと言い出すのかっていう気持ちの裏側には、コイツはいずれそういうことを律儀にも言い出すだろうと、なんとなく予想していたってのが、あったからだ。
ゆっくりと顔を上げるのを待っていたわけじゃないが、ややあって俺は口を開く。

「なんで、オマエが謝るんだ」
「私があんなところにいたから、私が、あの人たちに会わなかったら、二人ともこんなことにならなかったから」
「違ぇよ」

多分ルカも、同じようなことを思っていたのかもしれない。自分がいたから、自分のせいで俺がこうなったんだって思い込んでいるのかもしれない。けど、元を正せば、いや、どう考えたって俺が全部の原因なんだ。

「オマエのせいなんかじゃねぇ、俺たちが――」

だけど本当は、

「俺のせいなんだ、全部。全部よ」

本当は誰かに、「それはしょうがなかったことなんだ」 って、言って欲しかったのかもしれない。
みっともないことを考えている。俺はみっともないついでに、思いつくままにみっともない俺のことを話し出した。

「ルカがうちに来て、学校じゃ同い年の、似てない兄弟って、おかしいって言われ続けて、辛そうな顔したルカが見てらんなくてよ……だけど俺は、何もできなくて」
「うん」
「片っ端から、ンなこと言うヤツらを殴っていくばっかで、ルカも俺みてぇになっちまって、アイツは、本当はあんなヤツじゃねぇんだ」
「……」
「俺がアイツをあんな風にしちまったんだ。全部、だから全部、俺のせいなんだ。オマエを巻き込んで悪かった、し、それに……わざとじゃねぇにしろ、あんときはオマエを、殴っちまった、俺は、もう、」

みっともない、情けない。惨めで最低な男だ。

「俺はオマエには――」

そんな自分を愛してほしかった。求めてほしかった。大馬鹿野郎だ。
どの面を下げて、こんなところでこんな話をしているのだろう。まるで道化だ。
泣きそうだった。
思わず俯いた視線の先に、ローファーのつま先がにじんでいた。

「もう、いいよ」

眠りの中の世界が、現実になる。これから俺は報いを受ける。そうさ、許されるわけなんてなかった。
夢の中と同じことを言われて、その顔を振り返るのが怖い。なぁ、どんな顔してる?知りたいのに、顔を上げられない。
瞼を閉じると、膝の上で組んだ両手に何かさらさらとしたものが触れた。

「もう全部終わったよ、もう大丈夫だよ」

触れた何かがスカートの裾だと気づいた俺の頭が抱え込まれていた。まるで子供をあやすようにゆっくり頭を撫でられている。普段誰にも触れられない髪の中まで、指先はいつの間にか入り込んでいた。
制服の白いブラウスが目にまぶしい。まぶしくて、俺は再び目を閉じた。どうしてこんなに心地いいのだろう。
俺はこんな幸福を、受け取っていいんだろうか。

「きっと琉夏くん、そうやって琥一くんが守ってくれて、嬉しかったと思うよ。どんな形でも一人じゃないって思えたことが、何より支えになったはずだよ」

一つずつ丁寧に選ばれた言葉が、冷たい耳から静かに浸透していく。それは一つ一つが枷を解く鍵のように思えた。許されているのだと思った。誰に、とか、そういうことじゃないんだと思った。

「もう、そんなこと言わなくていいよ」

認めてくれる人がいてくれるという事実だけで、俺は自分がいるべき場所を得たような、安心して眠れるような不思議な気持ちになった。
頭のてっぺんに、柔らかい頬が寄せられる。まわされた腕も、体も甘いにおいで、今すぐ掻き抱きたい衝動が込み上げてきた。そんなどうしようもない男の性は、

「へ……へくしっ!」

色気のないくしゃみで掻き消えた。

「ご、ごめん」
「オマエ……平気なのか?」
「ん、大丈夫。でも、うつしちゃいけないからもう帰るね」

ぱっと腕を開放されて、急にあたりが寒くなったように思えた。もう少しだけ人の肌を味わいたくて、俺はその手を引き止める。

「うつしたら治るって言うだろ」
「うん……?」

不思議そうな顔をされると、自分がどれだけ馬鹿なことを考えているかよくわかる。

「うつしてけよ」

受験とかに差し支えるだろうなんてもっともらしい言い訳はしない。ただもう少しだけここにいて欲しい。もう少しだけ抱いていたい。もう少し、なんてことは言わない。

「えぇ?うつせって言われても……うつそうと思ってうつせるものじゃ……わ!」

もう一度手を引いて、今度は脚の上に座らせて、自分の腕の中に閉じ込めてしまうことにした。
俺はオマエが今、欲しい。

「ちょ、ちょっと待って、あの……は、ひ……」
「目、とじ――」
「いっくしゅ!」

何が起こったのか理解したのはほんの数秒経ってからだった。
いい感じだった雰囲気をぶちこわしたくしゃみはずいぶん勢いがよかったらしく、夏碕は俺の鎖骨のあたりにものすごい勢いで、頭突きしてきたのだ。

「あっ、あ、ご、ごめん!」

言葉もない。服の上から鎖骨をさすりながらこめかみのあたりにも手をあてた。
やっぱり今日は呪いでもかけられているのだろうか。
それとも大事な女の大事な時期に、こういうことをするのは間違っているってことなんだろうか。

「いや……平気だ」
「そ、そっか!よかった!」
「…………」
「……」
「……今の、」
「えと、やっぱ、帰るね!」

そそくさと立ち上がってスカートのひだを整える夏碕の顔は、耳まで真っ赤だった。
まぁ、本当に嫌ならぶたれているだろうし、悪くは思われていないんだろう。
とはいえ、こういう風に見送るのはどうにもかっこ悪くてしょうがない。
ドアの引き手を掴んだまま、夏碕は振り返った。

「そつぎょ――受験終わったら、また、ね」

それだけ言い残すと、開けたドアもそのままにすたこらと走り去ってしまった。

また、ね。
とは、どういうことなのか。
それはつまり、今の続きをしてもいいということなんだろうか。いや、ただ単純に「また会おうね」 くらいの意味なのかもしれない。
悶々と考え込みそうになりながら、とりあえず病室のドアを閉めた。ぬるい部屋の中に取り残された俺の頭は、ふと重大な事実に気がつく。

「……まだ言ってなかったしな」

好きだとか、そういうことを。
すっとばしてしまうのも我ながらどうかと思うし、女のアイツは俺以上にこだわるんだろう。
受験が終わったら、か。

そのときが、待ち遠しいようで、少し気恥ずかしくもあった。

20130121