虹のワルツ

97. 君と蒔いた種が芽吹く季節に (美奈子)

卒業式の朝は、今までで一番早く目が覚めてしまった。
まだ冷たい朝の空気を吸い込むと、気分がしゃんとする。どこからか甘い花の香りが漂ってくるようで、春の訪れはきゅうっと胸を締め付けた。
いつもどおりのことなのに、今日は特別、パジャマのボタンを外すのだって一つ一つ丁寧にしてしまう。
アイロンをかけたブラウス。三年間で少しだけ毛羽立ったブレザーとスカート。いつもは少しだけ緩めているリボンのホック。
全部、今日が最後の出番。
いつもよりもきっちり着こなした私は、どこか大人びて見えた。こんな風に引き締まった気持ちで制服を着ると、入学式のことを思い出してしまうからかもしれない。
あの頃の私には想像もできなかった。こんなに寂しい日が来ることを。すべてのことには始まりがあること、それと等しく終わりが来ること。

人が少ないのは早朝のバスだけじゃない。まだ覚醒しきっていない街の中を、滑るようにバスは駆ける。普段と比べ物にならないくらい早くついてしまった学校にも、誰もいない。
広い校舎を最後に独り占めできたような気分になって、私は少し頬を緩めながら、教室の窓を開けた。
花曇の空は、午後からは晴れてくるらしい。
ぼんやりした朝の光を受けて、霞のように広がる雲がキラキラと輝いて見えた。
中庭の木々も、校庭のフェンスも、渡り廊下の屋根も、全部がキラキラしたものに見えた。
それは今日だけのことなのかもしれない。私のこの感傷的な気分が、そう思わせているだけなのかもしれない。
でも、いつだって私の目に映るものはキラキラしていた。全てが大好きだった。今までのことを思い出すだけで泣きそうになる。でも、もう少しだけ、我慢しよう。
まだ終わりの時間には早いから。

しばらく外を眺めていると、教室のドアが開いた。丁度登校時間の三十分前、暖房が入り始めた頃に。
自分のことはさておき、随分早く来るものだな、なんて思いながら振り返った先には夏碕ちゃんがいた。お互いに気が急いているのか、こんな時間に教室に二人きりになったのが照れくさいようで、ちょっと困ったように笑ってしまう。

「おはよう」

こうやって教室で声をかけあうのも最後。
少なくとも前期試験の結果が出るまでは学校に出てくる夏碕ちゃんは違うけれど、私はもう学校に来ることはない。

「おはよ」

そう考えると、もっとたくさんやりたいことがあったような気がするし、もっと頑張ってれば、本当はやりたいことを全部やれたんじゃないかって、そういうことも考えてしまう。
全力で、生きて来れたかな。
ほんの少しの後悔もないくらいに、一瞬一瞬と向き合ってこれたかな。
恥ずかしくないように毎日を過ごせたかな。数年後の私は、今日のことを思い出して何を思うのかな。

「三年間、」

千鳥格子のマフラーをしたままの夏碕ちゃんが、窓の外を見ながら呟く。

「早かったね」

芽吹く予感の梢に、雀が三羽とまっていた。しなやかな枝を揺らし、一羽がジャンプするように先端へ移動していく。

「うん……そうだね」

先頭の雀を追いかけるようにして、他の二羽もまた梢の上をちょこちょこと駆け回った。かわいらしい光景に、思わず目を細めてしまう。

「あっという間で、でもそのときは全然そんなこと思ってなくて、だけどやっぱり、あっという間だったね」

夏碕ちゃんは、うまく言葉が出ないみたいだった。でも何を考えているのか、何を伝えたいのかなんて全部わかる。それは多分、今日を迎えたみんなが思っていることだから。

「楽しかったね」
「もちろん」

脳裏を駆け巡るたくさんの景色が、全部夢だったように思える。
三羽だった雀たちの間に、もう一羽、雀が舞い降りてきた。梢は大きく揺れて、びっくりしたように四羽の雀はばらばらと飛び立つ。

「寂しいね」
「……うん」

きっと私たちが言葉少ななのは、感情が零れ落ちないようにこらえているから。惜しむ気持ちはもう少しだけ、胸に隠したままでいたいから。
雀たちはどこへいったのだろう。もうさえずる声すら耳には届かない。
思いもしなかった物悲しい雰囲気に呑まれそうで、どうしようかと戸惑ってしまう。何を言ったらいいのかな、なんて彼女の前で考えたことなんてなかった。これも今日という日の為せる業なのだとしたら、卒業式の後にはどうなってしまうだろうと不安になる。
ちらと、隣に立った夏碕ちゃんの顔を盗み見た。
綺麗に整えられた眉が、穏やかなカーブを描いている。
どうしてだろう。その下の優しい目を見ていると、すがり付いて泣きたくなってしまう。
子供の頃のこと。うさぎの形をした容器に入っていたシャンプーの香り、夕暮れの枯れ草の感触、父親の腕の温度、繰り返しテレビで流れていた名も知らぬメロディー。
暖かいもの、尊いもの。今までに積み重ねてきたもの。それがまた、今日という節目の日に増えてゆく。ほんの少しを取りこぼしながら、それでも私たちはすべてを忘れないように、必死で今を生きている。

生きている。

終わる瞬間のことを思い描けるくらいに成長した私たちは、その先の未来を手探りに掴もうともがいている。
もがきながら苦しんで、傷ついて、それでもより多くの暖かいものを抱きしめるために、生きている。


『三年生のクラス委員は、それぞれ卒業アルバムを職員室へ受け取りに来てください』

暖房が効き始めると、教室は人で一杯になり始める。クラス委員の子が職員室から受け取ってきた卒業アルバムはすでに全員にいきわたり、ページをめくったり寄せ書きをし合う賑やかな声で沸き立った。

「バーンビ!」

違うクラスだろうがおかまいなしに入ってくるカレンも、ちょっと気が引けるみたいに引きずられるミヨの姿も、今日で見納めだ。

「アルバム委員お疲れ様っ!写真のチョイス、すっごいイイ!イイよ〜!」
「私だけが選んだわけじゃないよ、みんなで決めたんだから」
「でもバンビが選んだのはわかる」
「うんうん!これとかそうでしょ?それからこれもだし、こっちはちょっと自信ないけどこれもじゃない?」
「……カレン、すごいね」

どうしてわかるのか不思議だけど、確かにカレンが指差したのは私がアルバム委員のみんなの前で、「これはどうかな?」 って提案したものだった。
三年間の中のたくさんの思い出の、かけらたち。
入学式の、今より幼い私たち。
文化祭の合間にピースサインを送るメイド姿の女の子たち。
体育祭の騎馬戦で優勝して誇らしげな不二山くんたちと、少しだけ疲れた顔で笑う平くん。
修学旅行の一コマは、小樽の市場でおいしそうに買い食いしている琉夏くんと琥一くん。
文化祭の展示の前ではにかむミヨと後輩の女の子。
生徒会の挨拶運動の中には、紺野先輩の姿もある。
部活動のページには、真剣な顔でボールを追うカレンが一番大きく取り上げられていて、別の写真では胴着に身を包んだ新名くんも、隣の不二山くんに負けないくらいに強い目をしていた。
クリスマスパーティーの写真の片隅には、不機嫌そうな顔をした設楽先輩が写っているけれど、これは隣のクラスの女の子が無理を言って載せたものだ。
その時々のことを思い出すと、感慨深いため息がこぼれてしまう。

「バンビはこの写真が一番輝いてる」

ミヨが微笑みながら示したのは、ローズクイーンのガウンをまとった笑顔の私だった。
本当は恥ずかしくて、できることなら載せたくなかったけど、みんなが「これも女王の務めだ」 なんて言うものだから。もちろん、嫌なわけじゃない。はばたき学園での三年間で、私が手に入れた、思っていた以上のもの。たくさんの人と仲良くなって、みんなが私のことを認めてくれた。私はこれからも、みんなの思う以上に、私の思うように、恥ずかしくない生き方をしていきたい。

「う〜ん、やっぱそうかも。アタシとしては、クリスマスのドレス姿も外せないんだけど!」

カレンがパラパラと捲ったページ、クリスマスパーティーの写真は多くはない。
一枚一枚も大きくはない写真の中で、ひときわ目を引く笑顔。私がこっそり選んだ写真。
ワルツのステップを踏む、夏碕ちゃんのとびきりの笑顔。

「……まぁでも、このページは、バンビじゃなくて夏碕が主役だね」
「主役は――多分、みんなそうだよ」

写真の一枚に、どれだけの想いがつまっているんだろう。どれだけの幸せが詰め込まれているんだろう。
私たちはこれから、時々このアルバムを引っ張り出してその欠片を思い返すに違いない。

「はぁ……なんか、なんか、ね」
「感傷に浸っちゃう?」
「それ。ああ……もっかい高校生やりたい……」
「ふふ。わからないでもないけど」
「カレンは家に帰ったら荷造りが待ってるからそんな暇ないと思う」
「ミヨ……なにも最後まで辛辣なこと言わなくても……っていうかほんと荷造り間に合わないかも。バンビ!手伝って!」
「え?ええ?いいけど……」

ひしと握られた手に戸惑う間もなく、勢いよくドアを開けた大迫先生にその場は遮られた。

「こらー!最後くらいは大目に見るがそろそろ体育館に移動しろー!」
「大迫ちゃん今日決まってんね?」
「スーツ新しくない?」
「先生、式の最中に泣かないでねー!」

どっと沸いた教室を見渡しながら、大迫先生はちょっとだけ困惑したみたいに笑った。
ああ、先生泣きそうだもんなぁ、と冷静に思えるわけでもない。きっとみんな、式が終わる頃には涙でぐちゃぐちゃに違いないから。
三年間、どの瞬間も目一杯輝いていたから。


『卒業生、起立』

三年前のことを思い出す。
中学校の卒業式も、私は思いっきり泣いていた。引っ越すことが決まって、中学のクラスメイトたちとは離れ離れになるってわかっていたから。
高校の入学式は寂しさと、不安とでいっぱいだった。
友達、できるかな。勉強についていけるかな。高校では、今までとやりかたが違うこともあるかもしれない。私、うまくやれるのかな。
右も左もわからないくらいに忘れてしまった街を歩いた。本当は怖かったのかもしれない。動いていないと不安に押しつぶされそうで。
そのときの私は、小さい頃のことを思い出していた。
はばたき市に、最初に来たときのこと。公園に遊びに行こうとして、道に迷ってしまった日のこと。立ち止まったら二度と帰れなくなりそうで、足を動かさずにはいられなかった。
強い風に帽子は飛ばされて、私は為す術もなく立ち尽くすばかりで、それを助けてくれたのが琉夏くんと琥一くんだった。

もしもあの時私が迷子にならなかったら。風が帽子を飛ばさなかったら。
私はどんな風にすごして、どんな人になったんだろう。


「この花はね、妖精の鍵だよ」

いつまでも忘れられない伝説を知ることもなく、


「1つだけ望みをかなえてくれる、妖精の鍵。心に思い描く人のところに、きっと、連れてってくれるんだ」

痛みすら伴う、こんな想いを抱えることもなく、


「遠くに行っても、きっとまた会える……お祈りするんだ また会えますように」

大切な人と出会うこともなかったんだろうか。


「……信じる?」



私たちはまためぐり合った。
それが運命なのか偶然なのか、誰にもわからない。
だけど、わからなくていいんだと思う。
私はずっと、あなたに会いたかった。
あなたもきっと、同じ気持ちだった。

それだけで十分だから。

淡い桃色の絨毯。妖精の鍵。あの日と同じ景色。あの日と違う私。あの日と同じ気持ち。

琉夏くん、私は信じる。
私たちが信じる限り、伝説は真実になる。
だってめぐり合えたんだから。

教会のステンドグラスは、七色の道筋となって私を誘う。
ここが約束の場所。思い描いていた未来はここにある。

思い描いていた人が、

「――美奈子」

今、そこにいる。


20130301