虹のワルツ

98. あおい花が咲く季節 (夏碕)

合格発表の日は、久しぶりの晴れだった。
車道には昨夜の雨の水溜りが残っている。けれど、少し暑いくらいの今日の天気なら昼過ぎには全部跡形もなく消えてしまいそうなくらいに思えた。それまでは、車が跳ね上げる水しぶきに注意して歩かないと。そう思っていた矢先に後ろから車が近づいてくる。できるだけ車道から離れようとした私の横で、車だと思っていたバイクは停車した。

「よう」
「琥一くん、」

何してるのと口を開きかけて、ヘルメットの下のその顔つきに噴出してしまう。妙に強張っているのは、緊張のせいだろうか。
失礼なのはわかってるけど、彼が憮然とした顔になるまで肩を震わせるのをとめられなかった。

「おい、何笑ってんだ」
「ううん!なんでもないの」

そういえば報告してなかったな、っていうのと、そんな顔しちゃうくらい気にかけてくれてたのが嬉しくて、私はどう切り出したものかと唸ってしまう。それをどういう風に受け止めたのか、琥一くんはさらに真面目な顔になる。受験した私よりもずっと、そわそわしているみたいだ。

「今から、見に行くのか」
「……合格発表のこと?」
「お、おお。なんなら乗せて行っても――」

あんまり焦らすと可哀想だから、私はピースサインを掲げる。

「二……?なんだ、二って」
「合格!」
「…………予言か?」
「違うよ!合格したの!受かったの!今はインターネットで見れるんだってば」

琥一くんはぽかんとした顔のまま、その場で固まっている。バイクのほうは、エンジンがストンと音を立てて止まってしまった。

「……便利な世の中になったもんだな」

……琥一くん、昭和の人みたい。


***


学校へ報告に行く途中だったというと、琥一くんは少し考えて、乗せていく、とヘルメットを私に差し出した。
私は水色のそれを、そっと押し返す。

「ゆっくり歩いていきたいな」
「……まぁ、別にいいけどよ」
「バイクだとお話できないでしょ?」
「そうか」

とは言ったものの、何を話していいのかわからない。天気のこととか、私は制服だけど、琥一くんの私服のこととか、そんなことしか思いつかない。大学のことを話すにしても、進路が不明瞭な琥一くんの前でする話題じゃないような気もするし、かといってあの病院での出来事なんて口に出せるはずもなかった。
こういうときに便利なのは共通の友人の話なわけで、卒業式の日に晴れてカップルとなった美奈ちゃんと琉夏くんは格好の的だった。今更すぎるとか、長かったとか、そういう失礼なことばかり、本人がいないからって言いすぎかもしれない。ごめん二人とも。今度何かおごります。
この場にいない誰かに謝るのは、なんだかすごくおかしい。

「まぁ、これでルカもちったぁ落ち着くだろ」
「お兄ちゃんとしては寂しい?」
「馬鹿言ってんじゃねぇ」

そうかも。
あの二人のほうだって、今頃「お兄ちゃんとお姉ちゃんはいつになったら」 なんてことを話してるのかもしれない。二人もまた、その場にいない誰かのことを話すのは不思議な気分だ、なんて思っているのかしら。

私たちは多分二人ともお互いに、思い上がりでも自惚れでもなく、半分くらいは確信してるような気がする。ひょっとしたら今日、告げられるのかな。こんな話している間も、まるで自分たちのことのように、思えないでもなかったし。

なんだかドキドキしてきた。
歩道に転がった砂利を、タイヤが踏む音がやけに聞こえる。
会話は、ない。

頭の上を、時々雀か何かが、鳴きながら飛んでいく。のどかな風景に違いないのに、今にも音を立てて崩れて、非日常が襲ってきそうな気がした。一歩踏み出したら全てが変わってしまうことが私にはわかっているからかもしれない。

結局ろくに話すこともないまま学校にたどり着いてしまい、校門の前で琥一くんはバイクのスタンドを下ろして、一息つくみたいに寄りかかる。
職員室に向かう私を、琥一くんは「こんな格好だしよ、また担任からなんだかんだ言われそうだからやめとくわ」 と見送った。琥一くんのクラス担任の先生は、確かに進路が決まっていない琥一くんのことをやきもきしているかもしれない。この前職員室で見たときには家まで乗り込んで行きかねない勢いだったし。

「そっか。……帰っちゃう?」

顔色を窺うように見上げると、琥一くんはふいと顔を逸らした。

「……待っとくから、電話かメールかしろ」
「う……うん、それじゃ」

やっぱり、ドキドキしてきた。


***


下級生たちは通常通りに授業を受けているから、邪魔にならないようにこっそりと職員室を目指す。
なんだか卒業した実感がなくて、まるでサボっているような気分になった。
まだ桜の開かない枝を見上げる。琥一くんはどこで待っているんだろう。
合格発表までの日々は、早く結果を知りたいような、その日が来てほしくないような、そんなどっちつかずの気持ちだった。
今も同じような思いをして、私は長い廊下にたたずんでいる。
十分後は何をしているのかわからない。見えない未来を思い描く行為は、いつだって心の底が熱くなる。

「色々とお世話になりました」

お辞儀をしながらそう言うと、大迫先生は感極まったみたいな顔をして、それから私の両手をがっしり掴んだ。
喜んでくれているのがわかってとても嬉しいし、先生のけして大きくはない体に喜びが収まりきれない様を目の当たりにすると、本当にいい先生にめぐり合えてよかったと思った。

「大学でもがんばれ!」
「はいっ」
「悩んだりしたときにはいつでも先生のところに来ていいからな!」

万感胸に溢れる、そんな感じが私にもじわじわ伝わってきた。情けないかもしれないけど、落ち込んでどうしようもなくなったら大迫先生に会いに来ようと思った。先生の元気は、いつだって周りも明るくしてしまうから。

「氷室先生にもお礼を言いたいんですけど、」

職員室の中には姿が見えない。
訪問がちょうどお昼時と重なってしまって、ほとんどの先生がここでお昼を食べている時間なのに。

「ああ、氷室先生なら来客中だ。もうすぐ終わると思うから、まぁ茶でも飲んで行け!」

まるで自分の家みたいに言う大迫先生の申し出に甘えてみたかったけど、校門で私を待っているに違いない彼のことを思い出して、辞退した。
また後日伺いますとだけ言った私は、職員室を出るなり慌てたような声に呼び止められる。
視線の先には、一人の女の子がいた。


***


「ごめんね、お待たせ」

琥一くんは校門の前で缶コーヒーを飲んでいた。バイクは、裏手のコンビニに停めてきたらしい。
すっかり冷たくなったカフェオレの缶を渡されて、本当にずいぶん待たせてしまったことをもう一度謝る。少し息の上がった私を、彼は優しい目で苦笑した。

「別に、気にしてねぇよ。用事切り上げてきたなら、悪かったな」
「ううん、そういうのじゃなくて――」
「なんだ?」

ブレザーのポケットに手を入れて、私は取り出したものを見せた。青と透明のガラス玉が連なる、華奢なブレスレット。とめ具が壊れてしまっているけど、交換すればまた、つけられる。

「……なくしたんじゃなかったのか?」
「見つけてもらったの」

誰に、と尋ねた琥一くんに、私は一人の女の子の名前を告げた。彼はなんとも言えない風に眉を寄せるけれど、気持ちはわからなくもない。私も、しょうがないとはいえ冷たい言葉を投げられたし。

『なんかこないだ、体育倉庫の掃除やらされて、見つけたから。友達に聞いたらアンタのだって言われたし、これ』

それが本当でも嘘でも、彼女がこうして、大切なものを手渡してくれたのが嬉しかった。ううん、本当は探してくれていたのかもしれない。恥ずかしそうに、居心地悪そうに、でも、ちゃんと面と向かって話せて、私はとても嬉しかった。
彼女は京都の女子大へ進学するらしい。同じクラスになったことはないから、クラス会なんかでも会うことがないかもしれない。でも、これでよかったんだと思う。

「……嬉しいのか?」

琥一くんは、少し困ったような穏やかな顔をしていた。傍から見ても、きっと私はとても喜んでいたに違いない。

「だって、失くしたと思ってたものが、大事なものが戻ってきたんだもの。嬉しいよ」
「でもそれ、壊れてんじゃねぇか」
「直せばまだつけられるよ」

掲げたブレスレットのガラス玉が、太陽の光を濾してかすかにゆらめいた。
琥一くんは、少し照れている。

「オマエ、結構ケチくせぇんだな」

私は責める気も起こらず、ただ微笑んだ。コーヒーを飲み終わって、空き缶をもてあました琥一くんと私は、なんとなくそのまま歩き出す。学校を囲む塀にそって、多分裏手のコンビニまで。

「……また何か買ってやるよ。お祝い、しねぇといけねぇしよ」
「お祝い?」
「受験の」
「本当?」

琥一くんは、誇らしげな横顔だった。なんでも買ってやる、なんて言ってくれるのは、正直嬉しいよりも気が引ける。
欲しいものがあるのならと言われて、私は少し考える。

「でも、もらってばかりだもの」

触れたブラウスの下には、ペンダントがある。
私の欲しいものはなんだろう。
私の、たった一つの望み。

「おめでとうって言ってもらえたら、それでいいよ」

あんまり黙っているのも変だから、そう答えると拍子抜けした顔に出会う。

「遠慮すんなって」
「ううん、いいってば。……あ、それじゃアナスタシアでケーキセットおごってもらおうかな」
「そんなもんでいいのかよ」
「十分だよ」

世界のどこかで、同じようにデートの口実を作ってる女の子が、私のほかにもいるかもしれない。どうか男の子たちは、彼女たちのずるさに気がつきませんように。

「そうかよ。……あぁ、じゃあ、おめでとさん」
「うん、ありがと」

それだけでいい、なんて言ったくせに、私はまだ物足りない。もっと本心から、心の奥の奥から溢れる気持ちを、受け止めてくれるような、せき止めてくれるような、言葉が温度が、欲しいと願っている。
こんなことを考えている私を、彼はどう思うだろうか。恥ずかしいような、申し訳ないような気持ちでいっぱいになって、私は顔を伏せた。三年履いたローファーは、つま先の縫い目がほつれかけている。

不意に、足元の長い影が動きをとめた。まだ低い春の太陽を、さえぎるように彼は立ち止まっている。

「なぁ、ちょっといいか」
「ん?」


***


手をつないで私たちは薄暗い林の中を進んでいた。

「ガキの頃、よくここに来てた。俺とルカと、小波の三人だ」

琥一くんは私の前を歩きながら、時折聞き取れなくなるくらいの声量で何かを話し出した。

「かくれんぼばっかりやってたな。まぁ、アイツは女だったし、しょうがねえ」

私の知らない思い出で笑う彼が、すこし恨めしかった。
今の私がどうあがいても、その思い出は手に入らない。
琥一くんが願ったとしても、全ての記憶は共有できない。
三月のまだ冷たい風が私のスカートの裾を揺らす。鼻の奥がツンとした痛みを訴えた。
本当は、まだ春は遠いのかもしれない。そう思った矢先に、開けた視界一面の、桃色がそれを覆す。

「あの頃もな、咲いてたんだよ。ただ、俺が全部――ちぎって捨てた」

桃色の絨毯の前で、咲き誇っているサクラソウを目の当たりにして、琥一くんが口にしたのは景色とは正反対のことだった。
私の手を握る指先に、少し力がこめられた。

「なんでそんなことしたのか……なんでだろうな。ルカが言ってた。サクラソウは妖精の鍵で、会いたいヤツのところに連れて行ってくれんだと。あの頃のルカが一番会いたがってた人間なんて、そんなの――わかるだろ。わかるし、会いに行くって意味だって、わかるだろ」

うん、わかるよ。
頷いた先は、言葉の意味だけじゃない。
どうして琥一くんがそんなに辛そうな顔をしているかわかる。人の分まで背負ってくれるから、優しいから。親しい人のことは、もう自分の身に起きたことと一緒なんだよね。

「俺は多分、それが許せなかったんだろうな。ルカを殴って“ふざけんな”って言う代わりに、こんな花って思って、全部根こそぎ、むしりとったんだ。馬鹿だった。アイツはただ小波にまた会いたくて、遠くに行っちまう小波を安心させたくて、サクラソウの話をしただけなのにな。そうに違いなかったんだ」

見計らったように、途切れた言葉の合間で風が吹いた。
私たちが通り抜けてきた林の梢をざわめかせるそれは、とても不安な気持ちにさせる。
琥一くんはじっと押し黙っている。言葉を選んでいるのか、タイミングを見ているのか、それとも、慟哭しそうな息を整えているのか。私には、見上げる勇気がない。

「結局、俺はまた空回りだったのかもしれねぇな。花、咲かせたの見せてやりたくて、手入れしてたんだ」

私があの夏の日、ジョウロを持った琥一くんと鉢合わせた日のことを思い出すと、琥一くんも同じことを考えていたのか、ふっと息を漏らした。

「けどよ、アイツらはこんなものなくたって、うまくやれたのかもしれない。俺は、ただ許されたかっただけだ。こんなことしたって、俺がやったことはナシにはならねぇ。こんなもの、なくてもよかった。俺がしたのは自己満足だ。俺は、汚ぇ奴だ」

もしかしたら琥一くんは、今このときに、私に心情を吐露して言葉をかけてもらう自分のことすら憎んでいるのかもしれない。私には、どうすることが一番いいことなのかわからない。
だから、私は私の思うままの言葉を選んだ。そうすることを、とめられなかった。

「そんなことない。私は琥一くんに会えてよかった。琥一くんがいてくれてよかった。サクラソウだって、こんなに綺麗なのは琥一くんがいたからだよ。琉夏くんも美奈ちゃんも、琥一くんに感謝してるよ、一緒でよかったって、絶対、思ってるよ」

風に吹かれて冷たくなった指をからめた。
どちらからともなく。

「……ルカが、こう言ってた。“俺が抱えてる痛みとか苦しみとか、そういうものは何があったって減ったりなくなったりしない。だけど不思議だ。美奈子が隣にいると、俺は美奈子に半分背負ってもらおうなんて考えてないのに、辛いことなんて何もなかったような気持ちになる”」

琉夏くんは、照れを隠したに違いない、そう思った。美奈ちゃんだけじゃないと思うから。琉夏くんを少しずつ癒していた人たちの中に、琥一くんは絶対に入っているに違いないから。
悲しいわけじゃない。だけど、泣き出したくなった。ほんの数センチだけ、私は彼に近づいた。人の発する体温が感じられた。

「わかる気がした。俺だって似たような気になった。
俺がしたことはどうやっても、元には戻らねぇし、なかったことになんてできねぇ。誰かに許してもらえるわけないし、許してもらおうなんて、思ってもない。
けど、なんでだろうな。オマエがこうして隣にいて、笑って、話してくれて、俺はそれだけで、ここにいていいんだって、許されたような気がした」

彼が罪を背負っているとは思えない。それは私だけが思っていることで、例え真実がどうであれ、彼の中では拭えない罪の記憶が渦巻いているのかもしれなかった。
もしも仮に、罪を背負っているとして。
饒舌な琥一くんは、全てから解放されたように思えた。
許されたという感覚が、彼をそうさせていたのかもしれない。

「好きだ」

そして風は吹く。髪の端々もスカートの裾も、私の思わぬ方向へ乱れていく。
たった三文字の言葉で、私は心から幸せになれる。心は風に舞い上がって、遠い空の向こうまで飛んでいく。
虹の彼方の、苦しみも悲しみもない世界が、ようやく訪れる。

「――私も」

この口からこぼれ出るものが、素直な言葉でよかった。
心臓も瞼も、もう私の思うように動いていないから。
ただ素直だったのは、言葉と心と、力を込めあった指先だけ。

誰に教えられたわけでもないけれど、恋に落ちた。
誰にも教えられていないけれど、想いを伝え合うことができた。
でも、この後どうすればいいのか、私たちは知らない。

見上げてもいいのかな。
声をかけてもいいのかな。
もっと近くに行っても、いいのかな。

好きだと伝えても溢れる想いは、一体どうしたらいいんだろう。

「――あ、」

何かを言いかけた琥一くんを見上げた私は、同じ瞬間に手を引かれる。
抱き寄せられるのかと思って強張った体は、数歩歩いた先の、教会の壁沿いに腰を落ち着けた。

「あの、」
「ちょっと黙ってろ」

わけがわからないながらも、私は修学旅行を思い出す。
あのときもこんな風にして、押入れに隠れたっけ。
そのときと同じように、三つの足音が近づいてきた。
琥一くんは、これに気づいたんだろうか。

「――本当にここを使うのか?」

声の一つには聞き覚えがある。氷室先生だ。
こんなところで何をしてるんだろう。それは私たちだって言えたことじゃないけれど、氷室先生と教会のほうが想像しづらい組み合わせだ。
耳をそばだててしまうのをとめられない。それは、琥一くんも同じみたいだった。

「はい!だってここは思い出の場所ですから。ね?」

女の人の声。多分もう一人の誰かに問いかけたのだろうけど、返事はなかった。ないかわり、しばらくして彼女の幸せそうな笑い声がした。もう一人の誰かは、寡黙な人なのかもしれない。

しばらく彼らはその場で何事かを話していた。相談する、もしくは確認しあうと言った方が、適切かもしれない。
私たちは座ったまま、手をつないだまま、風が過ぎ去るのを待っていた。昨夜の雨が少しだけ残った草むらから立ち上る、かすかに青いにおいが鼻腔をつく。
三人が立ち去った後も、しばらく私たちは眺めていた。
目の前に広がるサクラソウの花を。

「綺麗に咲いたね」
「……ああ」

そのうちの一つが、真っ白な一輪が、彼の手で摘まれ、私へ差し出される。

言葉はない。
ただ、彼の目は笑っていた。
「一本くらい、自分のために使ってもいいだろう」 と。

私はその花を受け取った。
さっきの彼らは、この場所にどんな思い出があるのだろう。
案外私たちみたいに、「始まり」 の思い出なのかもしれない。
そしてまたこの場所が、新しい始まりの出発地になるんだろう。
これまでにいくつもの物語が生まれて、幸せな伝説へとその身を変えていった。
私たちもまた、もう一つの思い出を上書きする。

知らないことばかり。

私は目を閉じながら、そう思う。
触れ合ったらどんな風なのかしらと考える。
唇が離れたら、どんな気持ちになるのかしらと想像する。
だけど再びこの目を開けたときも、きっと風は変わらず吹き続け、サクラソウを揺らしているのだろう。

きっと、いつまでも。

- end -

20130318