虹のワルツ

99. 風に揺れる思いの丈

ゆっくりと二人の頬を、風が撫でていった。

湾を見下ろす緩やかな斜面の中腹に、白い石碑が無数に並んでいる。控えめにレリーフされたアルファベットの文字列には、ここが日本であることを寸の間、忘れさせる趣がある。

また、風が通り抜けた。

「雪、降らなくてよかったね」

三月の小樽はまだ寒い。
日によっては豪雪となることもあるし、現に今日とて明け方にはわずかながらも雪が舞っていた。
美奈子の言葉を聞いた琉夏は、目を細めて微笑む。
吐く息は白い。

「北海道の春って、いつからなのかな」

ためらいがちな美奈子の言葉は、風にさらわれることなく二人の間にひと時、漂った。
彼の記憶の中に、一体どれほどの思い出が残っているのだろうか。冷たい土の下にいるのか、それとも天高い青の果てしなく向こう側にいるのか――彼の両親の記憶は、どれほどが心の中に残っているのだろうか。
忘れたわけじゃないわ、思い出せないだけ。
どこかで聴いた歌の歌詞を思い浮かべる。
忘れることも思い出せないことも、結局は同じだと思った。

「五月になれば、桜も咲くよ」

琉夏はそっと美奈子を抱き寄せた。
彼がこの地で桜を見たのは数えるほどだろう。そう考えると、込み上げてくるものがあった。
隠そうとして、美奈子は顔を伏せる。けれど、カンのいい恋人は気づいていないフリをしているに違いない。
二人はしばらくそうして身を寄せ合っていた。
白い墓碑の前に、しゃがみこんだまま。

どうして彼女を連れてきたんだろうか、と、琉夏は考える。
あの日以来、北海道に来なかったわけではない。何度か訪ねたこともあるし、直近では修学旅行があった。
生家の跡地には向かったけれど――さすがにあの時に墓参りまですることはできなかった。もしも美奈子がいなかったら、一人でも訪れたかもしれない。
けれど、今この場にいるのが二人でよかったと、琉夏は考えながら深呼吸をした。
潮の香りのような、牧草の香りのような。
具体的な何かではなく、暖かい雰囲気のような漠然とした記憶を呼び覚ますにおいに、琉夏はたまらなくなった。
自分は、生きているのだ。
血の通う体、痛みを知る心、蓄積された経験と記憶と、大切な思い出。
どれか一つ欠けても生きる喜びを知ることができないのだとしたら、自分はたった今、もう一度生まれたのかもしれない。
在りし日の幼い自分が、見知った大地を駆けていく。見える。覚えている。自分はそこにいた。
それは今の自分につながるもの。
家は取り壊され、家財道具は売り払われ、家族の持ち物はほとんどが消えてなくなった。
それは悲しいことに違いない。けれど――
それらがなくても胸のうちに全てを取り戻せた琉夏は、その悲しみを凌駕する。
悲しみが常に幸福をすり減らすとは、限らないのだから。

「ありがとう」

琉夏は不意に言葉を漏らす。
一体何に対しての言葉なのかわからず、美奈子はその横顔を見上げた。

「生まれて初めて、生きててよかったって、生まれてきてよかったって、思えたかもしれない」

それは悲しい言葉なのかもしれない。けれど、琉夏の言葉には明るい響きがあった。

「そう思えたのはオマエのおかげだ。でも、オマエがいるからそう感じてるんじゃないかもしれない。
俺がこうしていられるのは、もっとずっとたくさんの人のおかげだって、オマエのおかげで気づけたんだ。
今なら、俺、自然に言えるよ。誰に対してでもありがとうって、感謝できる」

万物への感謝は、彼の両親の信じた教義だろうか。美奈子は琉夏の顔を覗き込んだ。
ああ、違う。
彼は今、もっと原始的なものを感じている。意味を後付された人の行いではない、穏やかな波の中にいる。
幼い頃になんとなく感じ取っていた彼の優しさに、ようやく彼自身が気づいた瞬間だと思った。

「父さんも、母さんにも、ありがとうって言わないと」

美奈子は、両の手のひらを合わせるべきなのか、それとも胸の前で手を組むべきなのか、わからなかった。
だけどそんなことはもう、どうだっていいのだと思う。
こぼれた涙の雫は、風に払われてどこかへ落ちた。

やわらかい草の生い茂った墓地に、二つの小さな影が寄り添っている。
どこからか海鳥の鳴く声も聞こえた。その方向に、天使の梯子がかかっている。
海上には、晴れ間が広がっているらしい。
しばしの間も無く、白い石碑の群れも暖かな陽の光に照らされるだろう。

そのわずかな間、墓地には優しく雪が降り注いでいた。

20130319