虹のワルツ:番外



夢見る頃を過ぎても

休日だというのにずいぶん早く目が覚めてしまった琥一がリビングに下りても、そこには誰の姿もなかった。
後ろ頭をかきながらぐるりと頭を回しても、家族が起き出してきそうな気配すら感じられない。放っておけば昼まで寝ている弟はともかく、休日などないに等しい専業主婦の母親が起きていないのは珍しい。
と、そこまで考えて思い当たる。
両親は揃って昨日から、どこかに旅行に行っていたのだと。
昨夜だって一人で食事をこしらえていたのに忘れてしまうとは。ついでに二人の行き先すら思い出せないのもどういうわけだか。歳だろうかなどと首をかしげながら細口のケトルをコンロにかけて、あることに思い当たる。

「あれー?今日仕事?」

ふと思いついた考え事は、ぼんやりした声にかき消された。
寝ぼけ眼をこすりながらドアを開けて入ってきたのは琉夏だ。いくら初夏の兆しが見え始めているとはいえ、五月に上半身裸で寝る弟の気が知れない。
「休みだ」
「早起きだな。あ、デート?」
「違ぇよ」
夏碕なら一週間前から出張に出てる。
そう言いながらコンロの火をつける。琉夏はソファーに腰掛け、というより半分寝そべりながら当然のように「俺にもココア」と注文をつけた。
「テメェで淹れろ」
「いつ帰ってくるの?」
自分で話をふっておいて話題を変える弟の脈絡のなさは、ほとんど女のそれに近いと、たまに思う。それにうんざりしていたし、頼みごとは聞き入れられて当然といった態度に腹を立てていたこともあったけれど、今となっては言い返して無駄なエネルギーを消費するほうがばかばかしい。
「今日の夜っつってたか。言っただろオマエにも」
ついでに土産までせびっていたぞオマエは。
それは口に出さず、マグカップに直接ドリッパーとフィルターをセットする。ついでに琉夏のカップにはインスタントココアを。
「そうだっけ?せっかく誕生日なのに残念だな」
「アホか。そんな歳じゃねえだろ」
「大人だ」
「テメェよりはな」
笑いながらの軽口を叩きながらケトルの上に手をかざすが、まだ湯気すら出ていない。
「一足先にまた大人になっちゃうもんなー、コウは」
「大した差じゃねぇだろがよ」
その些細な差が辛かった歳はとうに過ぎている。
「腹減ったー。てか寒い。湯冷めした」
上半身裸だったのは風呂上りだったかららしい。朝に風呂なんて入るようなヤツだったかと首をかしげながら、琥一は、ソファーから立ち上がった琉夏を振り返った。
「服ぐらい着てこいよ」
「じゃあご飯の用意よろしく」

これだから。
誰かの口癖と同じ言葉を胸の奥で呟く。好き勝手にやっている弟に対していつもいつも『もう!』と言っていた幼馴染の気持ちがよくわかった気がした。
琉夏が本心からの我侭を言っていたのはいつも彼女に対してだけだった。琥一と両親には、遠慮していたのだろう。両親は致し方ないとは言え、自分にまで気を遣っていたのだと、それに気がついたのは随分と成長した頃のことだった。
水臭ぇことしやがって。
我侭というには少し落ち着きすぎた頼み事も言える。悪態ももう自分の胸のうちで処理できる。そのくらい、大人になれたのだと思いたい。
沸騰し始めたケトルを火からおろし、先に琉夏の分から作ってしまう。インスタントココアにお湯を半分まで注ぎ、ダマにならないよう混ぜて、猫舌の琉夏のために最後に牛乳を足す。本当は純ココアの粉と砂糖を火にかけてゆっくり作るものだということは知っている。
知っているけれど、それを琉夏にしてやるのは一人だけでいいと思う。
どうせ自分がしたところであーだこーだと文句をつけるだけだ。
自分がしてやるとすれば、今にもなくなりそうなインスタントのココアを買い足すぐらいなのだろう。それすら、敢えて“してやる”ほどのことでもないかもしれないけれど。
カーテンを開ければ、磨きぬかれたフローリングに眩い光が散った。目を細めて、琥一は今日の予定を考える。
ドリッパーから落ちるコーヒーをゆっくりと待ちながら。


***


買い置きのインスタントスープとベーコンエッグ、それからバゲットをトーストしただけの朝食を食べ終わった琉夏は大きなあくびをした。朝が強いわけではない琉夏だが、今日はいつもより随分だるそうにしている。本当に風邪でもひいたのではないかと眉をひそめていると、琉夏は背伸びをし、億劫そうに腰を叩いた。自分よりも爺むさい仕草に、琥一は苦笑するが、
「俺寝るー」
「はぁ?二度寝する前に――」
洗い物くらいしろと言いたい目を見て、琉夏は幾分か面倒そうに言った。
「俺、夜勤明け」
「あ?そうだったか?」
「そうだよ。何忘れてんの?健忘症?」
けらけら笑うのも少し疲れているようで、とろんとした瞼を擦りながら琉夏は立ち上がった。
疲れているのだろう。しょうがない、洗い物までやってやる。どうせ今日は一日ヒマなのだ。
「あ、そうだ」
自分の食器をシンクに運びながら、琉夏は思い出したように声を上げた。
「夏碕ちゃんがいないからって美奈子誘っちゃダメだからな」
「誘うかよ」
二人は笑う。
「っていうか美奈子、今日はちびっ子たちと社会科見学だけどね」
「休みまで大変だな、センセーはよ」
二杯目のコーヒーを口に運びながら、琥一はもう一度笑った。『もーねー、体力勝負よー!』 なんてことを言いながら楽しそうに笑っていた顔を思い出して。
「俺もね、寂しがりやのコウの相手したいのは山々なんだけど」
「いらねぇ。とっとと寝ろよ」
「ハイハイ。じゃ、おやすみー。ご馳走様」


後ろ手に閉じられたドアをしばらく見つめた後、考える。
一人か。
夏碕が帰ってくるのは今日の最後の飛行機だ。さすがに出張を終えたばかりの彼女を呼びつけるのは気がとがめる。
それに、別に寂しいわけじゃ……――
ないとは言えない。
胸のうちが淀んでいるような、焦燥感に似た不安を覚えながら、なんだか今日の自分は少しおかしい気がすると自嘲した。
一人の休日なんて今までだって山ほどあったのだから。
ふと思い出して携帯のメールボックスを開けば、ここ数日は夏碕からのメールばかりが届いていた。

『19日まで出張になっちゃった。ごめんなさい』
  仕方ねえだろ、そんなの。気にするな。俺も気にしてねえ。
『できるだけ早く帰れるようにするから』
  いいから。気をつけて行って来い。 出張先ってどこだ?
『北海道!おいしいものたくさん買ってくるね。琉夏くんが教えてくれたチョコレートのお店にも行ってくる!』
  仕事しに行くんじゃねえのかよ……。
『そうだけど……それとこれとは別問題』
  まぁとにかく、ちゃんと勤めは果たして来い。
『はーい。じゃあね、おやすみ』
  おやすみ。


毎晩「おやすみ」を、直接言えたならいいのに。

『こっちはまだちょっと寒い気がする』
  風邪ひくなよ
『うん。今日は早めに寝ます。あ、泊まってるホテルのおいしいレストランに行ったんだけど、お土産にそこのレトルトのシチュー買ったから楽しみにしてね』
  わかった。楽しみにしとく。


凍える肌を温められたらいいのに。
旨いものを食べるのも、二人ならいいのに。

『疲れたー……早く帰りたいよー』
  お疲れ。まだあと四日あるだろ。
『わかってるよー。でも会いたい すっごく』
  俺もだ
『電話してもいい?』


会いたいなんて言う必要のない距離にずっといられたらいいのに。



ふと昔のことを思い出す。
いつかショッピングモールに行ったときのこと。
いつの間にか隣を歩いていたはずの夏碕の姿が見えなくなって、慌てて周りを見回せばなんのことはない。
夏碕はショーウィンドウの中に目を奪われて、足を止めていたのだ。
そして、今より少し幼い自分が、同じように少し幼い彼女のところまで歩いていく。何を見ているかと聞けば――



「……あ?」
日がな一日ダラダラと過ごし、いつの間にかまどろんでいた目を開ければ辺りはとうに暗くなっていた。
目を覚ましたのは携帯が震えたせいだ。
夏碕からの着信。

「もしもし?」
『ただいま』
「おう……おかえり。あ?早いな?まだ8時じゃねーか、もうこっち帰ってんのか?」

テーブルの上のデジタル時計を見れば、聞いていた時間よりも随分早い。立ち上がって部屋の照明をつけると、カーテンを開けたままの窓ガラスに琥一の姿が映る。ニヤついた自分の顔に居心地の悪さを感じて、彼は少し乱暴にカーテンを引いた。
夏碕はくすぐったそうに笑っている。吐息の温度は、受話器越しには伝わらない。

『それが思いのほか捗っちゃって、飛行機早くできちゃって、そんでもって先輩がね、もう帰っていいよって言ってくれて』
嬉しいのを隠せない。だらしなく緩む口元を意識しながらも、電話の向こうで夏碕が同じ顔をしているのがよくわかった。

「……そうか。今どこだ?」
『駅』
「迎えに行く。ウィニングにでも入って待ってろ」
『うん!ありがとう!』

きっと迎えに来ると言う事を見越して、彼女は電話をしてきたのだろう。数日前に電話越しに“会いたい”と言った、あのときとは違う明るい声が物語っていた。
会いたいのは、お互い同じだ。
人気のない家を出て行く前に、まだ寝ているに違いない琉夏に声をかけるべきか迷ったけれど、テーブルの上に一枚のメモが載っているのを見て、彼は笑った。

【誕生日オメデトウ。ところで美奈子とご飯食べてくるから】

どんなに疲れていても、恋人同士というのはそういうものらしい。人のことは笑えない。自分だって彼女だって、そうなのだから。
駅までどれくらいかかるだろうかと考えながら、琥一は部屋着を脱いだ。脱衣所の籠にそれらを放りこみ、自室に戻ってデニムに足を通す。上に何を着ようかと、ワードローブの中身とにらみ合い、琥一は頭をかいた。自分の生まれた月ながら、中々着るものに困る季節だと思う。窓をあけて外の風を招き入れると、昨日よりも寒いような気がした。
結局黒いカットソーを着て、先日買ったばかりのこれまた黒いジャケットを羽織ってから思い当たる。どうせ車で行くのだから考え込む必要もなかったと。髪はそのまま、手櫛で整えて、クロノグラフの時計を嵌めればそれなりに時間が経っていた。休日だ、道は混んでいるだろう。
琥一は財布と鍵と携帯をもって、急ぎ足に玄関に向かった。


***


駅のロータリーに車を停車させて、夏碕に電話をする。本当は、この足で迎えに行きたい。手をとって、抱き寄せて、直接ただいまとおかえりを言いあいたい。

「(って……ガキかよ、俺は)」

実際のところ、昔は照れのほうが勝っていたせいで、そういう場面でもむっつりと黙り込んだふりをして、本当は笑いたい顔を隠しながら近くまで行ったのだけれど。
それでも夏碕は嬉しそうに笑いながら、小走りに駆け寄って手をつないでくれた。そうされる度、同い年のはずなのに自分が殊更子供のように思えて、よっぽど恥ずかしかった。
というより、申し訳なかった。今なら笑って迎えられるけれど、一体いつからそうすることができるようになっただろうか。
ハザードを出した赤いマスタングのハンドルに軽く凭れ、ネオンサインと流れるヘッドライトに照らされながら琥一は改札前のウィニングバーガーを見つめていた。待ち人はまだ出てこない。
きっちりしているのだ。食事をしているわけではないだろうけど、飲み残しもプラスチックカップも紙くずも、きちんとしかるべきところに収めてから出てくるのだろう。
ああ、出てきた。
土産をたくさん買っていそうな口ぶりだったから両手に大きな荷物でも持っているかと思えば、ショルダーバッグにスーツケースと紙袋が一つだけ。宅配便で送ったのだろうか。きっとそうだろう。
夏碕が笑っている。いつもの穏やかな微笑みで、自分を見ている。
見つめられることが気恥ずかしくなくなったのはいつくらいだろう。今はただ、笑っている顔が好きで、好きで、それだけ。
ずっと変わらない。優しい笑顔が。
薄く青みがかったジャケットと、ライトグレーのマーメイドスカート。ヒールのある靴だってもう履きなれた。コンサバティブなデザインのパンプスは黒とロイヤルブルーのバイカラー。トリーバーチのロゴマークは下向きのヘッドライトを受け、彼女の歩みに合わせてわずかに反射していた。
髪はきっちりまとめられている。ヘアクリップを上手く使って大人っぽく、いや、大人なのだから歳相応にというべきか。
とにかく、少し疲れた顔をしているのを除けばいつも通りの小奇麗な格好だ。きっと昔の自分が見ても何の興味も持たなさそうな服装も、もう当たり前に彼女に似合うと思える。
琥一は、ふと考える。
自分もそうだが、夏碕も高校時代の服はもう、処分してしまっているだろう。少しずつワードローブの中身は増えて、追いやられるように古いものから姿を消した。それだけ時間は過ぎて、その間ずっと二人は一緒にいた。思い出は同じように積み重ねられて、けれど昔の記憶は消えることなく褪せることもなく、ずっと胸の中にゆるやかに堆積していく。
無邪気に笑っていた歳を過ぎて、見つめあうのではなく、同じ方向を二人一緒に見ている。
今、これからの二人はそんな風にしている気がした。

疲れているにもかかわらず、夏碕は軽い足取りで車の背後に回る。スーツケースの引き手をたたむ姿がサイドミラーに映り、琥一はトランクを開けてやった。荷物をちょっと乱暴にその中に納めると、夏碕はヒールを鳴らして助手席に飛び込む。待ちきれなかったのは、多分二人とも同じだ。
「はぁ!……ただいま」
「おう、おかえり」
キスをするわけじゃないけれど、夏碕はしばらく琥一の肩口に額を寄せていた。その頭を軽く撫でるように叩いて、シートベルトをしめるように促す。
「寝てていい。着いたら起こす」
「平気だよ、飛行機の中で随分寝たもん」
「そうか」
サイドブレーキを戻して、その車はロータリーをゆっくりと回り、国道へと出て行く。
向かう先は彼女の家。就職してから、一人暮らしになった夏碕の暮らすマンション。
道すがら、二人はとりとめのない話をする。仕事のこと、家族のこと、友人のこと、テレビのこと。話したそばから忘れてしまいそうなどうでもいいようなことなのに、話題は尽きない。これまで同じことを何度繰り返しても、飽きることなく話は続いていく。
近くのコインパーキングに車を停めて、マンションのエントランスをくぐっても二人は穏やかに話し続けていた。
琥一は、人目があるうちには触れ合えないもどかしさを埋めるように、会話をしているような気がした。

だから部屋の中に入ったとき、後ろから抱きしめてしまったのだと思う。身じろぎをしながら、彼女が軽く笑った気がした。

「……誕生日おめでとう。あんまり、一緒にいられなくてごめんね」

数日前のメールとは違って、気にしていないとは言えなかった。
久しぶりに会う、ということはこれまでも何度もあったはずなのに、今日は殊更寂しさを埋めたくなる。
髪をまとめていたヘアクリップを簡単に引き抜き、頭ごと抱き寄せる。夏碕はされるがまま、一つ息をついた。乱れながら背中に胸に落ちていった髪の束から、甘い香りが漂う。細いうなじからはもっと危険な香りが立ち込めて、体の奥がうずくような衝動を訴える。

「やべ、」
「ん?」
「したくなった」

笑うように息を漏らして、夏碕は腰に回された手に自分のそれを重ねた。大きな手。暖かい手。

「……待って、お風呂――」
「待てねえ」
「え、ちょっと……」
「なんだ、ダメな日なのか?」
「そうじゃ、ないけど……」
「ならいいだろ」

ジャケットのボタンはあっけなく外され、さらさらした素材のカットソーの中に大きな手が侵入する。
細くくびれたウエストをなぞりながら、片手はスカートのホックへ、もう片方は――

「こんなとこじゃ……」

嫌。
告げる唇をふさいで、向かい合ったままその場に崩れ落ちそうになる。
明かりもつけぬまま、荷物はそこに置いたまま、そして剥ぎ取られる衣服はその上に散らかしたまま、夜は更けていった。



***



そうしてどうやら、そのまま二人して眠ってしまったようだった。さすがにきちんと、二人並んでベッドの中にはいるけれど。
薄暗い明かりの中で、枕の近くに投げ出していた腕時計の文字盤を確認すればまだ7時にもなっていなかった。
昨日よりもずっと早くに目が覚めてしまったけれど随分頭が冴えている。
腕の中の心地よい重みを確認しながら、琥一は夏碕の体を抱きしめた。
同じほうを向いた横向きの寝相で、彼女はまだすやすやと穏やかな寝息を立てている。
昨日まで仕事だったのだ。疲れていても当然だろう。その体にあんな無理をさせて申し訳ないといえば、それはそうなのだが。誕生日くらい甘えてもいいだろうと都合のいい解釈をすることにした。
肌寒い朝の空気に、時計の秒針が進む音が溶けている。
それを聞いているとまぶたが自然と閉じられていくようで、琥一もまた気だるい睡魔の中に落ちていった。


二度目に目を覚ましたのは、それから二時間後だった。

「あー……ケーキ、買ってきたのに冷蔵庫に入れ忘れてた……」

気がつけば二人ともゆるゆると睡眠から浮上していて、腕を解くでもなく、その中から抜け出すでもなく、同じ姿勢でブランケットに包まったまま。
夏碕はしばらくの沈黙の後に、そう呟いた。二人とも、互いが起きているのは知っている。

「後で買いに行こう?あ、それと、どっかにご飯食べに行こ?」

結局昨夜は何も食べないままにそういうことになってしまって、夏碕はおなかがすいたと訴えているし、琥一もかなり空腹だった。

「冷蔵庫の中、空っぽだから……。でも、ちゃんとね、プレゼントは用意してるからね?」

どちらにせよ、一旦外には出ないといけないらしい。
何を食べに行こうかと考えて、今までに行ったたくさんの場所を思い出す。ベーグルサンドが旨いカフェに行きたい。
シャワーを浴びて、着替えて、ああそういえば着替えも何も持ってきていなかった。
琥一はなんとなしに、思いついたことを口にしていた。

「ビーフシチュー、食いてえ」
「お土産に買ったやつ?」
「違う。オマエが作ったのがいい」
「それでいいならいいけど……わかった」
「それでいい。プレゼント」
「……そんなに食べたいほど、おいしいかなぁ?」
「毎日でも食いたいくらい、な」
「あのね、褒めても上手にできるわけじゃないからね?」
「別におだててるわけじゃねえ。毎日食いたいんだよ」

噛み付くように肩に唇を当てると、変な誤解をしたのか夏碕が身を捩じらせた。

「んっ……くすぐったいって」
「毎日――」

毎日、オマエの作った飯を食べて、二人で、そんで帰ったら今日あったこと話して、眠るのも起きるのも家を出るのも同じで、当たり前に一緒にいて、当たり前に――
それが、当たり前っていうただの事実が、欲しい。
抱きしめた腕に力をこめれば、黙り込んだ琥一を覗き込もうと夏碕が体をひねろうとするが、腕の力は抜けない。

「……どうしたの?」
「……今もらうことにした」
「え?プレゼントのこと?――待って、鞄の中……」

起き上がろうとしても、相変わらず抱きしめた腕の力は同じで。

「いい。ちょっとじっとしてろ」
「ええ?何?」
「両手出せ」
「? はい」
白くて細い指が並んでいる中に、一つだけ指輪が嵌められている。
琥一が、プレゼントしたものだ。
もう何年前のことだろう。思い出せないくらい昔のような気がするし、昨日のことのように思い出せる気もする。
あの時と同じ指に、今も同じ輝きを湛えたまま、それは当たり前のようにそこにあった。
「ちゃんとつけてんだな」
「もう、いつもつけてるよ。どうして?」

答えずに、琥一は右手の薬指からその指輪を抜いた。

「え…………」

指輪を奪われて、不安な声をあげる夏碕の、今度は左手を掴む。返せなんて言わねえよと笑いながら。

「オマエは俺のこと、馬鹿だとかガキだとか言うかも知れねえけどよ、」

それでもいい。あの頃から何年経っても、今だって自分は馬鹿で子供だ。

「この一週間、堪えた」

彼女の前でなら、ありのままでいられる。

「もう、離したくねぇ。だから――」

指輪は、もうそろそろ左手の薬指に嵌めていいだろう?




「嫁に来い」




琥一は指輪を嵌めた手を引き寄せて、軽く口付けた。
夏碕の顔は相変わらず見えないし、何かを言う気配もない。
しばらく重なるように横たわったままだった琥一の胸に、もやもやと不安が広がった。
告白したときだってそうだった。長い間一緒にいて、お互い気持ちなんて一緒だろうなんて期待しながら、結局は不安なのだ。
強く抱きしめても無反応で、剥き出しの肩に唇で触れても微動だにしない。
自分の独りよがりなんじゃないかとか、急だったか、とか。負の感情は溢れていく。
それともこんなチャチな指輪じゃイヤなんだろうかと、突然思いついて慌てて、

「ああ……もちろんこれは、とりあえずだ。ちゃんとしたの、後で買いに、」
「いいよ」

フォローしようとした琥一を、夏碕は突き放した。まるで怒っているような、拗ねているような声で。
氷の塊をぶつけられたようにギクリとした彼の耳に、鼻をすするような音が聞こえる。
夏碕の肩はいつのまにか小刻みに震えていた。
泣いている。なんで泣いているのか、琥一にはよくわからない。多分、悲しくて泣いているのではないと思うけれど――

「これで、十分」

左手を軽く握って、目の辺りに当てている。涙を拭っているんだろう。

「……いや、行く。買いに行くぞ」
「いい、ってば」

震える声で、意地を張っているようなことを言う彼女が愛おしかった。

「バカ、何泣いてんだ」
「な……う、え……らいて、らいよぉ」

探るように頬に触れると、暖かい涙が指先を濡らした。
そっと拭っても拭っても、それは堪えることもない。とうとうしゃくりあげ始めた夏碕の体をこっちに向けさせると、顔を隠すように琥一の胸板にすがりついた。

「顔見せろよ」
「だって、せっかくプロポーズされてんのに、顔、ぐちゃぐちゃ……」
「気にしねえよ」
「メイクだって落としてないし、」
「いいじゃねえか」
「お風呂だって入ってない」
「俺だってそうだ」

よくよく考えれば素っ裸でプロポーズなんて、ムードもへったくれもないと思う。自分だって、まさかこんなことを、こんなタイミングで口にするなんて思わなかった。
例えばどこぞで聞くような、夜景の見えるレストランとか、そういう場所でするものだと思ってはいた。
いたけれど、やり直そうとは思わない。これでいい。その先のことのほうが、大事なのだから。

「ほら、」

顎に指をかけて、上を向かせれば確かに夏碕が言うとおりのぐちゃぐちゃの顔が現れた。
ファンデーションは、そうは見えないけれど剥がれ落ちつつあるのだろう。唯一わかるのはアイシャドウとマスカラが涙で流れて隈みたいになっていることだけ。
思わず、ひでぇ顔だなと笑うと、夏碕は、琥一の胸板を叩く。そして起き上がって、そのあたりに落ちていたタオルで顔を拭いていた。余計にひどくなりそうだと思ったが、それでいいならいいのだろう。
どんなにひどい顔だと言い張っても、思うままをさらけ出す様が愛おしい。彼女がそういう顔を見せるのは、世界で自分だけだから。
ゆるやかに差し込む朝日に、なだらかな体の淵が照らされていた。淡く消えそうなそれに手を伸ばそうとして、頭を振る。
もうどこかに行ってしまうことはないのだと確信したかった。
琥一は起き上がって、彼女の体を後ろから抱きしめた。

「……結婚、してくれるか?」

聞きなおすというのも中々恥ずかしい気がする。今更、照れに襲われて琥一は腕に力を込めた。

「…………する」

夏碕は鼻をすすりながら、小さく頷いた。

「びっくりしたけど、多分、私……待ってた」
「ああ……待たせたな」

小さな頭を抱え、髪の間に指を通す間も、彼女は泣いていた。
泣きながら笑っているような気がした。








『何見てんだ?欲しいもんでも――』
『えっ!あ、……えー、と…………えへへ』
『…………それ、』
『あ、違うよ!私じゃなくて、琥一くん、こういうフロックコートとか、似合いそうだなぁ、って』
『ば、ンなわけ……』
『ある!絶対似合うよ!』
『なんだよどっから出てくんだよそんな自信……』
『だって琥一くん、背が高くて足長くて肩幅あるし、きっと……ううん、絶対かっこいいよ』
『…………』
『やっぱり黒かなぁ、でも白もきっと素敵。ね、どっちがいい?』
『……知るか。行くぞ』
『そっか。……ゴメン』
『…………』
『…………』
『……別に、嫌とかそういうんじゃなくてだな、』
『うん』
『……もうちょっと、待て。そんときにゆっくり見りゃ、いいだろ』
『うん……!』





あの頃はまだ子供で。
女ってやっぱああいうの好きなんだな、なんて考えながら、気恥ずかしくて夏碕の手を引いてすぐに立ち去ってしまった。
あのとき言えなかったけれど、オマエのほうがあの、真っ白なドレスが似合うに違いない。
頭にキラキラしたティアラなんか載せて、ヴェールの隙間から覗かせた顔は、きっと少しだけ恥ずかしそうに笑いながら俺のことを見上げるんだろうなんて、想像してたくせに。
その想像がもうすぐ、約束された未来になる。
随分待たせた気もするけれど、その分俺たちは大人になれているんだろうか。
いや、思っている以上に、俺たちは大人になってしまったのかもしれない。
それでもきっと、オマエは照れくさそうに微笑むんだろう。
そうして俺は、そんなオマエに見惚れながら、やっぱり幸せそうに笑うんだと思う。

夢見る頃を過ぎても、同じ目をしたまま。

20120519

Happy birthday!! Be togather now and forever...