彼女の一日(拍手お礼再掲)



昇降口の薄暗いところを抜けると、そこは随分にぎやかだった。
彼女は見知った顔を見つける。
「おはようございます、紺野先輩」
声をかけられた男子生徒は一瞬気を緩めたように笑顔を見せた。
「おはよう、瑞野さん」
「今日は人が多いけど、何かあるんですか?」
「服装検査だよ。……うん、君は問題ないから、教室に行っていいよ」
「よかった。それじゃあお疲れ様です」
「うん」
「あ、紺野先輩」
彼女は指定鞄とサブバッグを床に置くと、男子生徒に向かって手を伸ばした。
「髪にゴミがついていたので。もう取れましたよ」
「あ、ありがとう……」
彼は少しドギマギして、顔を赤らめた。
そうしてにっこり笑った彼女を見送る。また、違反者がいないか目を光らせるのだ。
けれど彼が平静を取り戻すまで、しばらく時間がかかることなど、彼女は知る由もない。

一限目:日本史

授業が始まる前に、彼女はトイレの洗面台で髪をなおす。
一度全部の髪を下ろしてコームで梳くと、どうしても斜めに分け目が出来る。
つむじの位置や髪の生え方の問題だろうが、たまに、こうして全部髪を下ろしていると本当に自分はふけ顔だと思ってしまう。
ややネガティブに捉えてしまっているので、彼女は友人に教えてもらったヘアアレンジしかしない。
いつか本当に大人になったら、髪を全部下ろしてみるのもいいかもしれないと思う。
彼女はポンパドールを器用に作ると、洗面台に落ちた髪をまとめてごみ箱に棄てた。
第三者から見れば彼女の顔は、大人びてはいるもののそれは老けているというには、また逆の意味でおこがましいのではないかと思える。
だが彼女は頑として、自分が高校生に見られないようなことはしないようにしている。
その理由は彼女しか知らない。

二限目:現代文

一年生のときも担任だった教師の授業はわかりやすい。
それはそれとして、彼女が今授業を聞きながら思い出しているのは、一年時に同じクラスだった男子生徒が早弁をしていた姿だった。
アレは多分、教師にはわかっていただろうに、彼はなんのおとがめもなかった。
哀れなことに、それをまじまじと見ていた彼女の友人が叱られてしまっている。
「(あ、美奈子ちゃん……大迫先生が見てるのに……)」
自分とて無為に叱られるのは嫌だから、居眠りをしている友人の方ばかりを見ているわけにはいかない。
教師はさっきからちらちらと、朝っぱらから寝息を立てる小柄な女子生徒を気にしている。
評論文の説明が止まった。皆が顔を上げると、教師が教壇から降りて、彼女のほうへ向かっていた。
「コラァ!小波!」
「わぁっ!!いたっ!」
案の定、彼女の頭に教科書が振り下ろされる。
どっと沸く教室は、いつも明るく、ときどきやかましい。
彼女はそれが嫌いではない。

三・四限目:芸術

音楽・美術・書道の中から好きな科目を選べるようになっているが、彼女は音楽を選択している。
特に深い理由はない。
しいて言えば、この中では一番、学校に持ってくる荷物が増えなさそうだと思ったくらいだ。
「今日は準備の担当だった」
思い出して、彼女は急ぎ足になる。音楽の準備などたかがしれているが。どうしても性分で真面目にとりくんでしまう。
誰よりも早く音楽室に入ると、先客がいた。
「あ」
「設楽先輩?何してるんですか?」
彼は机の中や、壁際に配置された古いオルガンの蓋を開け閉めしている。
「携帯忘れたんだ」
どうやらそれを探しているらしい。
「鳴らしましょうか?」
「マナーモードになってる。バイブも切ってるからな」
それならば仕方がない。彼女も一緒にあちらこちらを探して、何故かグランドピアノのカバーの中にあるのを見つけたときには、授業開始までそう時間はなかった。
「見つかってよかったですね」
「ああ。でも、悪かったな」
「いいですよ、そんな」
そうして彼はちょっとだけ具合が悪いような顔をして、音楽室を出て行く。
彼がそうそう他人に謝るような人間でないことを、彼女は知らない。

昼休み

最近、はば学の名物になっている出来事がある。
『柔道部主将・不二山嵐と柔道部部員・新名旬平の追いかけっこ』
毎日のように猛スピードで廊下や屋上やグラウンドを走り抜けていく様子は、騒がしいがちょっと見ものだ。
彼女はそのとき、違うクラスの友人と昼食を食べるべく廊下をゆったりと歩いていた。
「夏碕さん!助けて!」
えっ、と振り向くと、追われるものの新名が抱きつくように迫っていた。
なんとなく間一髪でそれを避けると、空振りした彼は器用に体勢を整える。向かいから不二山が追ってくるまでしばらくあるのかもしれない。彼は息を整えながら、ひとしきり部の主将に対して愚痴を述べた。
「追いかけてくれるのが夏碕さんならよかったのに!」
「ええ?なんで私?」
結構運動が得意な部類の新名を追い掛け回す、そんな持久力が自分にあるとは思えない。
「なんでって……そりゃ……げっ!」
廊下の端から不二山が無言で駆けてくる。なんとなく、彼女は昔見た洋画のサイボーグを思い出した。
「じゃ!」
「あ、うん……」
新名が駆け出し、不二山が猛スピードで通り過ぎる。
彼女はちょっとだけ、風が吹いて涼しいなあと思った。

五間目:体育

体育は他のクラスと合同で、男女がそれぞれに別れてバドミントンのゲームを楽しんでいる。
バドミントンはそうでもないかもしれないが、高校生の男女は入り混じってゲームをするのにはやはり体力も体格も差がありすぎる。
その中で、ネットのない場所で戯れるようにラリーをしている男女のペアがところどころにいる。
その一組を彼女はほほえましく見ていた。
「ここの線がネットの代わりね」
バスケットボールのコートの端の線を利用してゲームをしているその二人は、時折本気になりかけながら、のんびりとしたラリーを続けていた。
「琉夏くんも美奈子ちゃんもけっこう続くねえ」
「俺たち気が合うからね」
「そうかもー」
ぽん、ぽん、と平和な音で打ち返されるシャトルを追いながら、二人は笑った。
「おーい琉夏!そろそろこっちのゲーム始まるぞ!」
遠くから、男子生徒が呼んでいる。
「わかったー!……んじゃ、そろそろ決着をつけようか」
「えっ」
小波が身構えたのは、琉夏が大きくラケットを振りかぶったからだった。
当然、男子の本気での一撃が飛んでくるものだと思って、小波は慌てて後退する。
が、琉夏のそのフリはフェイントだった。ちょんとはじかれたシャトルは線をギリギリ越えて、床に落ちる。
「はい、俺の勝ち」
「せこい!」
「勝負だもん」
琉夏は言い残すと、ラケットを持って男子のコートに走っていった。
彼女は苦笑しながら、ラケットを握り締めて悔しがる小波をなだめた。

六限目:数学

彼女は数学があまり得意ではない。
得意ではないが、いや、だからこそ他の教科よりも熱心に取り組んでいる。
予習も復習もしているが、わからないところはある。
そういうときは、担当の氷室に質問をしにいく。
それは昼休みだったり、授業終了後だったりする。
最近は積分が難しいと思っていたので毎回授業後に氷室の元を訪れていたが、今日はそうしない。
彼女は誰にも気取られない程度にそわそわしている。
時折、高校の入学祝に買ってもらったちょっと高めの腕時計の文字盤を見ている。
ノートを取りながら。
そこにいるべき人物がいない机を、少し物足りなさそうな目で見つめながら。

放課後

友人たちに別れを告げ、教科書を鞄に詰め込み、机のうえを少し手で払ってから、彼女は昇降口へ向かった。
待ち合わせの相手は六限目の授業をサボタージュしている。
大方屋上で寝ているんだろう。
いまさら何かを言うつもりはないが、しかしこのままでは彼自身が危うくなるのではないかとも思っている。
下駄箱でローファーに履き替えるときも、彼女は体を折って身をかがめるのではなく、しゃがんで脱いだ上履きをすくい上げる。
そうしろと言ったのはどちらかというと放任主義な両親ではない。厳格な祖母だ。
今日、彼女はレンタルCDショップへ行く。一人ではない。
音楽に(偏って)詳しい友人を伴う予定だ。
彼が詳しいのは、彼女の厳格な祖母が自分くらいの歳だったころの曲だが、有名私立女子校に一貫して通い、そこの教師を勤め上げた彼女はもっとずっと昔の曲ばかり聴いていたのではないかと思う。
腕時計を見る。そして腕を下げる。もう一度確認する。立ち止まったまま上の空で、情報が頭に入ってこない。
「オウ、お前ここにいたのか」
茜空を見上げていると、低い低い声がかけられた。彼女の待ち人だ。
「教室にいると思って探しちまったじゃねーか」
まるで自分に非があるように言われたので、負けじと彼女も言い返す。
ムキになるとこの友人は取り合わなくなるので、一言で痛烈に言うのが効果的だとは思うのだが、いつもそんな言葉は出てこない。
「六限目、出てたらこうはならなかったのに」
「やなこった」
飄々としている彼は大きな靴を地面に投げ出す。パン、と音がして、靴はそれぞれ別の方向を向いて地面に並んだ。
いつも思うが、もし彼が自分の祖母と会ったらお互いに顔をしかめるだろう。
彼女はその自分の想像がちょっとおもしろいと思っている。
「置いてくぞ」
夕陽の逆光は、彼と初めて会った日のことを思い出す。
あの頃は、こうして二人並んで帰る日がくるなんて思いもしなかった。
むしろ、こういう状況になるだけの心境の変化が自分に訪れるとも思わなかった。
彼女はそれがとても嬉しく、ずっと続いていけば良いと願っている。
そしていつか、彼が自分と同じようなことを思い、願ってくれればいいとも。
しかし彼女は、彼が、桜井琥一がすでにそう思っているということは、今はまだ知らない。

20110710再掲

2010年08月19日〜分