虹のワルツ:番外



ぶどうぎらい

瑞野夏碕、5歳。
身長と体重は平均並、気の弱さは平均以上。人見知りで物怖じするタイプで、通っている幼稚園の仲のいい3人の女の子以外に友達と呼べる子供はいない。
好きな食べ物は母親の作る焼きプリン、好きな場所は父親の運転する車の助手席。母方の祖母が作ってくれた水色のポシェットと、年若い叔父がくれた大きなリボンの髪飾りがお気に入りで、外出するときはいつも身に着けている。

彼女は今、はばたき市のカーディーラーの店舗内にいる。両親がSUVタイプの新車を物色している間、彼女はキッズスペースのテーブルに広げられた画用紙に無心で絵を描いていた。
休日のカーディーラーは同じような家族が他にも何組か訪れていた。新婚の夫婦もいれば、子供の就職祝いを買い求めに来たらしい家族もいる。キッズスペースには、夏碕ともう一人の男の子しかいない。彼はテレビ下のデッキに入っている戦隊ヒーローもののビデオを巻き戻しては繰り返し、観ている。
夏碕は、自分が家にいる間はチャンネル権はほぼ彼女にあるのでビデオデッキの類には触ったこともない。テレビ台の下に何か四角い黒い箱が置かれているとしか認識していない。
それにリモコンは画面の中の映像を変えるためのもの、という程度の理解しかしていないので、テレビにかじりついている少し年上に見える男の子が何をしているのかわからなかった。ただ、わからないなりに、自分にできないことをしているのはすごいなあとは思っていた。
時折、女性のスタッフがお菓子やジュースをくれた。『ありがとう』とぼそぼそと小さな声で言って差し出されたものを受け取る彼女とは対照的に、彼は見向きもせずにただテレビだけを見ている。
おなか、減らないのかな。おやつ、おいしいのにな。
夏碕はそんな素朴な疑問を抱え、小さな両手でオレンジジュースの入った紙コップを持って、彼の後姿を見るともなく眺めていた。何歳かはわからないが、それなりに大きな体であぐらをかいて、ちょっと猫背になっている。田舎のおじいちゃんに似てる、と夏碕はこっそり笑った。
テレビの中では20代くらいの、多分変身したらヒーローになるのであろう男性二人がささいなことでケンカをしていた。

夏碕の両親が、というか母親が車体の色を赤にするかシルバーにするかはたまた黒にするかを悩んでいる間、夏碕は3枚目の絵を描いていた。途中、スタッフが勧めてくれた車の塗り絵をカウントすればすでに5枚目。ちなみにビデオは3回目の再生に突入している。
時々どこかの業者が営業に来て、時々新しい客も入ってくる。先に入っていた件の新婚夫妻は青い車を契約して、幸せそうな顔で帰ってしまっている。就職祝いの家族は、気に入ったセダンの納品が長引くと聞いて早々に去っていった。
夏碕はそろそろ飽きてきたな、と頬杖をついた。上げた視線の先は液晶テレビで、その中ではまさに主人公たちが正義のヒーローに変身しているところだった。
夏碕は一人っ子だし、何しろ女の子だからこういうものは観ない。観るとしてもいわゆる魔法少女もののアニメくらいで、こういう実写特撮をまともに観るのは初めてだった。
かっこいいとか、おもしろそうとか、そういうのはさておき、夏碕は“へぇ”と思っていた。こういうものが世の中にあるのか、というと随分斜に構えた感想だが、初めて観るものに対する感想は大体そんなものだった。
絵を描くのにも飽きてきたのでそれを観ていると、今度はぶどうジュースの“配給”がやってきた。正直喉は渇いてもいなかったけれど、生来気が弱くて、差し出されたものを断る術を知らない夏碕はまたぼそぼそと謝辞を述べてジュースを受け取り、一口飲んだ後はどうしようもなくなってテーブルの上に乗せておいた。


桜井琥一、5歳。
身長と体重は平均以上、気の強さも平均以上。ついでに態度も大きければ父親譲りの細い目はあまり同年代を近寄らせないし、通っている幼稚園では年長組の面々を差し置いてガキ大将のポジションに納まっている。
好きな食べ物は母親の作るハンバーグ、好きな場所は父親とその友人の集まるツーリングの場。この前の夏休みに縁日で買ってもらった戦隊ヒーローのお面と、こちらはおもちゃ屋で買ってもらった変身ベルトがお気に入りだが、今日はどちらも身につけていない。

乗り物好きの彼は、父親が新しい車を買うと言うので無理を言ってここまでついて来た。が、それはいいものの店の中に入るなり大人たちによってたかってキッズスペースに押し込められて、細い目を更に細くして憤然としていた。
とは言ってもそれも最初だけで、テレビ台の下にお気に入りのヒーローのビデオが揃っているのを見つけると、他に誰もいないのをいいことに好きな話が収録された巻を手早く引き抜いて、勝手に再生させ始めた。何度観ても、かっこよさにはシビれる、とか思っているのかはわからないが、もう何度観たかわからない回をまたここで彼は観始めるのだった。
レッドは主人公だけど好きじゃない。かっこいいかもしれないけど、なんだかかっこよすぎて白々しいし、それにみんながかっこいいと言っているのをかっこいいと馬鹿みたいに言うなんて本当に馬鹿がすることだと、彼は思っている。RX-7や8よりも断然ベレGがかっこいい。ひねくれているのだ。
例えば、レッドのライバル。今見てるやつならブルー、去年のシリーズならブラック、こいつは切れ者で本当にピンチのときに打開策を出す担当で、そういうのがかっこいい。もっとこう、縁の下の力持ちのような、誰も見ていないところで実はかっこいいことをしているような役のほうがかっこいいと思う。そういうと母親には呆れられるし、父親には大笑いされた。別に間違ってはいないと思うし、それがかっこいいと思うのだからしょうがない。彼は頑固でもある。
一度観始めると止まらない。誰かがキッズスペースに来たらしいのはわかっていたし、ジュースを勧められてもそれどころじゃなかったので返事をしなかっただけだ。オレンジジュースは好きだったから、後で切りのいいところで貰おうと、そう彼は計算していた。画面の中では、レッドたちが本日三回目の変身シーンを演出している。やっぱり何度観てもかっこいい。いや、レッドがじゃなくて。
それから10分ほどしてエンディングに入ると、父親が彼を呼ぶ声がした。どうやら商談が終わってもう帰るらしい。
しょうがない。ジュースは帰りに買ってもらって、どんな車を買ったのかは家についてから詳しく聞きだすことにしよう。
小さな頭でそう考えてから、彼は立ち上がった。後ろのテーブルに、お上品そうなワンピースを着た女の子がいた。げえ、と顔をしかめてしまう。ああいう“気取った”タイプはこまっしゃくれた感じがして、彼がニガテとしている種類なのだ。尤も、女の子自体、やかましいしめんどくさいしで彼は嫌いなのだが。
大股で父親の方へ歩いていく途中、足に何かがひっかかった。転ぶ、と焦って体勢を立て直そうとした瞬間に、紫色が広がるのが見えた。
次の瞬間に聞こえたのは、自分がテーブルにぶつかった大きな音と、それからしばらくして聞こえてきたすすり泣きの声だった。
何がなんだかわからない中で、泣いているのはあのいけ好かない女だろうと見当をつけて首をひねってみると案の定彼女がしくしくと泣いている。よくよく見れば、しゃれたピンクのワンピースに紫色の、まるで日本列島みたいな染みができていた。
やっちまった。と思ったのか、それとも、俺のせいじゃないだろ、と思ったのか。琥一はどうしようもなくなってしばらくその場から動けなかった。誰か、大人がなんとかしてくれるだろうと思っていた。
「琥一!」
「いってぇ!」
しかし、頼みの大人であったはずの父親はよりによって自分に拳骨を降らせる。母親は女の子の頭を撫でてなだめようとしている。そうこうしているうちに、今度は女の子の母親まで駆けつけてきて、母親同士の謝罪合戦が始まってしまった。
「謝らんか!」
「おれのせいじゃねえ!」
また、殴られた。今度はかなり痛かった。大きな目からぽろぽろと涙をこぼしている女の子を見ていると、泣きたいのはこっちだと言いたくなる。泣かないけど。
結局父親から頭の後ろを押されるようにして「ごめん」と言っても、女の子は泣き止まなかった。
「一人っ子なもので、こんなに気が弱くって」「あらあらうちだって一人っ子でこんなにわがままに育って」母親同士は好き放題なことを言っている。何で俺がこんな目にあわなきゃいけないんだ。琥一はふてくされたくて唇をかみ締めた。
その日以来、琥一はぶどうジュースと、父親が買ったX-TRAILが嫌いになった。



「本日からグレープフラペチーノ、新発売となっておりまーす!いかがでしょうかー!」

放課後、いつもの喫茶店によると店員が新発売のメニューを片手に呼び込みを行っていた。
「新発売だって、どうする?」
夏碕が琥一に尋ねると、彼はしかめっつらを作る。
「パス。俺はアイスコーヒーでいい」
「そう?じゃあ私もアイスティー、レモンで」
「かしこまりましたー」
他のメニューなら、例えば去年の限定メニューだった、マンゴーフラペチーノは美味しかったのに、と夏碕は残念に思う。でもどちらにしろ甘いものなら彼は口にしないだろう。それに、
「私、どうしてか知らないけどぶどうが苦手なのよね」
レモンのポーションを注ぎながら夏碕が困ったように笑うと、琥一は意外そうな顔をした。
「お前もか?」
「も、って……」
「俺もどういうわけかぶどうだけは、ダメだな」
「なんで?」
「わかってたら苦労しねえよ」
「はぁ……まあ、そうね……」
今度はダイエット・ガムシロップの口を開けて琥珀色の液体の中に溶かしている。
「珍しいね」
「だな」
お互い様だけどな、と、琥一は笑いながらアイスコーヒーのグラスを口に運んだ。毎度の事ながらストローは使わない。
「で、今度の日曜日のことだけど……」
結局、二人にとっては意外な共通点それ以上でもそれ以下でもないことだし、来るべき未来のほうが今は大事なのだ。

これは二人も知らないずっと昔の話。

20100911

過去に接点があるとしたら?