虹のワルツ:番外 - if

I am (not) a hero. (01)

夏休みを間近に控えたある月曜日の放課後、私立はばたき学園高等部敷地内にはまだ半数程度の生徒が残っている。
私立ゆえ設備投資には力を入れており、かつ学園には多くの運動部があるため、男女共に相当数のシャワーが設置されている。
夏場は特に利用する生徒も増え、いくらシャワーの数が多いと言ってもそれなりに待たされてしまうこともある。というよりむしろそれは、大会前のこの季節にはありふれた光景だった。

今、校庭から校舎の方へ向かってくるのはサッカー部の生徒たちだ。炎天下で何時間も声を上げつつの練習は、彼らにとってもかなり堪えるものがあるのだろう。あるものはユニフォームを脱いで、あるものは手のひらで顔を仰ぎつつ、彼らは早くシャワーを浴びたいだのアイスが食べたいだの、他愛無い会話をしながら集団でだらだらと歩いてくる。
とある男子生徒は水飲み場で水を飲んでくると言い、集団から外れて別の方向へと向かった。水飲み場はシャワールームの裏側を通っていかなければならず、校舎の入り口からは大きく迂回して行く必要がある。が、彼にとっては喉の渇きを潤すことのほうが現時点では重要だったのだ。砂で汚れたスパイクが、数日雨の降っていない乾いた地面を音を立てつつ進んでいく。
もっと近くに水飲み場か、せめて自販機でも作ってくれればいいのに。そう考えながら疲労感を抱えた彼が校舎の影に入ると、顔つきが強張る。
視線の先には、黒いパーカーのフードを目深に被った、おそらく男だろう、人影があった。
それだけなら彼も数秒後に忘れてしまっていただろう。眼前の人物が、無理な体勢で塀によじ登ったりしていなければ。

「――おい!」
持ち前の正義感で声を張り上げてしまったのは、“不審者”が覗き込もうとした先が女子用のシャワールームだったからだ。平均より背の高い彼の頭より上に設置され、かつ鱗のように加工され目隠しはされているだろうが、そんな窓に向かってごそごそと怪しい動きをしていれば誰でも“のぞき”だろうと考えるに違いない。
当然、“不審者”は慌てふためいて、ほとんど転げ落ちるようにして逃走を始める。顔は、見えない。
彼も追うように走り出したが、“不審者”の足が予想外に速かったことと、部活終了後の彼の体力がほとんど残っていなかったゆえに途中で失速し、100メートルほど追いかけたところで見失ってしまった。
別に自分が被害を受けたわけではないが、取り逃がしてしまったとなると必要以上に悔しく感じる。
その場で地団駄を踏みたくなるのをこらえ、彼はとりあえず職員室へと報告に向かうことにした。

***

制服のポケットに入れていた携帯電話の振動で桜井琥一は目を覚ました。彼が居眠りをしていたのは、外とは対照的に冷房の効いた図書室の自習ブースだが、勉強をするためにそこにいたわけではない。
寝ている間に椅子からずり落ちそうなほど浅く腰掛ける格好になっていたがために、一瞬本当に尻餅をつくかと身を強張らせたがそんなヘマはしない。注意深く周りに目を配りながら体勢を整えるのは、彼の弟に言わせれば『カッコつけだから』だろう。
メールかと思って折りたたみ式のそれを開くと、待ち受け画面が通話着信を知らせていた。
さすがに図書室でとれば面倒なことになるだろうと思い、彼は足早にそこを出、廊下を歩きながら通話ボタンを押した。着信の相手もこちらに向かっているだろうという考えもあったので、それが効率的だろうと考えたのである。
「おう、俺だ」
ちょっとだけ浮ついている自覚のある声に返事をしたのは、予想していた人物ではなかった。
『あー、琥一くん?今どこ?』
聞き覚えがあるようなないような、低めの女声が耳に届く。
はて、自分は夏碕からの電話をとったと思うのだが。と、考えながら、彼は一旦顔から携帯を遠ざけて待ち受け画面を確認した。

【 通話中 】
瑞野 夏碕

おかしい、あっている。
「…………誰だ?」
『うっわ、ひど。愛しの夏碕ちゃんが出なかったからって冷たくない?』
ぼんやりと相手が誰だかわかったような気がした。彼に対して“愛しの夏碕ちゃん”という言葉が使える存在というのは、ごくごく限られている。
「ウルセ」
『…………。まぁいいけど?井上はやさしーですから』
相手は新体操部の副部長で夏碕の親友の一人でもある、今言われたとおり井上という女だ。と、琥一の頭は情報を集め始めた。艶のある黒いストレートの髪と切れ長の目がトレードマークで、歯に衣を着せない毒舌、もとい、話しぶりが一部の男子に恐れられている。
「で?なんでオマエが電話してんだよ」
それも夏碕の電話で。
一向に判然としない目的を聞き出そうとすると、何故か煙にまかれる。
『電話じゃちょっと言いにくいし、ていうかさ、今どこ?まだ学校にいる?』
「なんだそりゃ……。ああ、まあ学校の中だ」
『うっし。ならさ、大至急多目的室まで来て。ちょっと大変だから。じゃね』
それだけ言うと井上は一方的に通話を終えた。
憮然とした琥一は相手のペースに乗せられるのが釈然としないまま、言われたとおりに多目的室――新体操部がいつも練習しているホールのような教室――に向かうことにする。
大変なこと、と言った井上が少し焦っていたような口ぶりだったことと、夏碕本人が電話をしなかったこと。その二つが無意識に彼の足取りを速めていた。
間もなく、太陽が地平線に姿を隠す。

***

「――のぞき……だぁ?」

多目的室に着いてみると、そこには夏碕と井上の姿しかなかった。琥一は、それには少し安堵していた。
けれど、どこか思いつめたような顔の夏碕は、暑がりにも関わらず今日はジャージを羽織っている。琥一も井上も、窓を開け放っているとは言え、微かに吹き込んでくる昼間の熱の残る風のせいでホールの中では汗が滲みそうな暑さを感じているのに、だ。さらに、床に座った彼女の膝の上にはおそらく井上のものであろうジャージまでかけられていて、なにやらただならぬ違和感を感じた。
そして説明を聞いた琥一が思わず叫んでしまったのが先ほどの一言。曰く、女子シャワールームを窓から覗いていたような男が本日目撃されたらしい。それも、新体操部がシャワーを使っている時間に。
女子二人は琥一の声に驚いて硬直してしまい、彼はやや遅れて「悪ぃ」と小さく呟いた。
「……いいよ、無理ないし」
井上は落ち着いているようだが夏碕の顔は晴れない。ショックを受けているのだろう。無理もないのはそちらの方だ。大方二枚のジャージもそのせいだろう。無意識の自己防衛というべきか。
彼女の隣にそっと腰を下ろすと、細い指先が彼のシャツをくいと掴んだ。それで安心できるかはともかく、夏碕の頭を撫でてやるとふわりと石鹸の香りが舞い上がって、琥一はやたらと苛立つ自分を感じた。もちろん、怒りの対象はのぞきの犯人だ。
自分がなだめるよりもずっと安心したような顔の夏碕に苦笑し、井上はしばしの後に顔つきを険しくさせた。
ところで井上とてショックを受けてはいるがそれよりもずっと怒りのほうが大きい。時として怒り心頭に達した人間は針が振り切れたように冷静になることがあるから、おそらくそうなっているのだろう、彼女も。
事実井上は部長である夏碕の代わりに後輩たちに指示を出し、今も琥一に説明をしながら頭の中では秘かに対策を練っている。

「わた……じゃなくて、サッカー部の鈴木が見たらしいんだけどさ、パーカー着た男。そいつが犯人」
紫色のサテンのようなシュシュをつけた手首を振りながら、井上は眉をひそめた。想像して気味悪がっているのだろう。
「…………ここの生徒なのか?」
「わかんない。私服なのか、それともジャージか制服の上にパーカー着てたのか。それに、制服着てたからって生徒っては言えないだろうし、私服だからって外部犯とも言えないだろうし、わかってんのは背格好……それも中肉中背ってだけ、だけど」
「ンだよ、クソの役にも立ちゃあしねぇな」
井上は自分の冷静な(と、少なくとも彼女は自負している)分析に向けられた琥一の“とてもお上品とは言えない”言葉に若干顔をしかめて、先に下級生たちを帰した自分の判断は正しかったと確信しつつ安堵した。

琥一と夏碕が付き合っていることを知っている人間は少ない。
知られたくない、というよりも、知られない方がいいのではないかと言い出したのは琥一のほうだった。自分がために夏碕がいらぬ中傷を受けでもすればたまったものではない。彼はそう言ったし、夏碕は不満ながらも渋々彼の主張を受け入れていた。
受け入れたのにもそれなりに理由はある。琥一が、さらに言うならば所謂“不良”として見られている琥一が、新体操部の後輩たちから恐れられていることは薄々、夏碕でさえ勘付いていたし、心も痛めていた。彼女たちから憧れ混じりに慕われている(本人の実感としては、懐かれている、程度なのだが)夏碕の恋人が琥一であると当の彼女たちに知られれば、いらぬ気まで回さなければならない。とりあえず大会前の時期だけはこのままで、彼女たちの“説得”はその後でもいいと、彼女が考えていたのも事実である。そんなことをする必要があるというのは、至極残念ではあるのだが。
したがって、知っているのはごくごく一部である。琉夏と美奈子の二人は当然として、親友の花椿カレンと宇賀神みよ、そして新体操部の同級生である井上と“アッコ”と呼ばれている須藤だけだ。ちなみに須藤は今日、習い事のために先に帰宅している。

「この子こんなんだしさ、送ってあげてよ」
「あ?……ああ、そりゃもちろん、そうするけどよ」
オマエはどうするんだと言外に含めて視線を送ると、井上は一瞬だけ、夏碕からジャージを取り返す動きをとめた。
「は?心配してくれてんの?」
半分笑い半分怪訝な顔で問い返すと、琥一は些か傷ついたように眉をしかめた。彼だって、井上は恋人の親友ということもあって……それを抜きにしても一応は女なのだから心配の一つくらいはする。
「……今その気が失せた」
「ごめんごめん!いーよ、彼氏呼ぶからさ。夏碕は頼んだよー」
ここを施錠してから自分も帰るから。
そう言って二人を見送ると携帯電話を開いて一つの番号を呼び出す。
相手は自分の恋人で、今回の騒動の第一発見者だ。

「あ、もしもし?――うん、済んだ。……え?多目的室、うん。…………あー、鍵閉めてくるから、じゃあ昇降口で。はいはーい」
一つため息をついて、荷物をまとめ始める。
自分もそのときシャワーを浴びていたから犯人は憎い。見られたかどうかはこの際問題ではない。そういう人間がいたということが、それだけで嫌悪の対象であり、許せないのだ。
さっきまでは冗談抜きに 『犯人の男性機能を再起不能にしても足りない』 とさえ思っていた。
が、「少なくとも半殺しにはしなければ」とでも言い出しそうな琥一を先ほど目の当たりにして、何故か井上は犯人に幾ばくかの同情を禁じえなかった。
と同時に、もしも自分の恋人がこの場にいたら桜井琥一の理不尽な(けれどある意味では真っ当な)八つ当たりの的にさえなりかねなかったに違いない。
やはりこういうときの自分の判断はちょっと大したものではないだろうか。自画自賛する井上は少しだけ機嫌を良くし、全ての窓と扉を施錠して昇降口へ向かった。

20110411