虹のワルツ:番外 - if

I am (not) a hero. (02)

帰路の最中も夏碕は口をつぐんでいた。
琥一は何を話しかければよいのかわからず、二人して黙り込んだまま、徐々に暗くなっていく路地を歩んだ。まだ蒸し暑いのに、夏碕はジャージをきちんと袖まで伸ばして着込んでいるものだから傍目にはおかしいものがある。昼間ならば日焼け対策とでも認識できただろうが。
ぐるぐると、琥一の頭の中では色々な考えが浮かんでは消える。
見られたような気配はなかったのか、犯人に心当たりはないか、他。
どれも口に出す気になれない。この慎ましやかな恋人は、きっと自分にも落ち度があるぐらいに思いつめているに違いないのだ。そして口下手な彼は、どうやってそれを解消してやれるのか、そもそも可能なのかどうか、わからない。力ばかり強く、体ばかり大きくても、大切な人に何もしてやれないのが悔しかった。
彼はただ、しなやかな指先を無骨な手で握り締めていた。怒りよりも、彼女を案ずる気持ちのほうが大きかった。

彼女の家の前に着くと、彼は口を開く。
「話しづれぇンなら、俺が代わりに説明してやるけど……」
両親にも知らせた方が良いことであるに違いない。それは彼女だって十分承知していることだろう。
「うん…………あ、ううん!平気、自分で言える」
些か上の空なままに空元気の返事で応える夏碕に心許なさを感じながらも、彼もまた本来の帰路についた。
具体的な解決策すら思いつかず、水平線に吸い込まれるように落ちる夕陽をぼんやりと視界の端に確認しながら。

***

West Beachに帰り着くと、半開きのドアの隙間から外にまで、食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってきていた。
彼の弟が作ることのできるメニューはゆで卵とホットケーキだけ。したがって、甘辛いソースがこげるような匂いの元を手がけているのは琉夏ではない。心当たりがあるのは一人だけ。
「おかえりー」
「おじゃましてまーす」
やはり。琥一の読みどおり、制服の上からエプロンをつけてキッチンカウンターの内側から手を振る、小波美奈子が夕食を作っていた。琉夏は手伝うでもなく、カウンターの向かいに座って頬杖をついている。
美奈子は桜井兄弟の幼馴染であり、今は琉夏の恋人である。
「おう」
彼女は時折West Beachにやってきてはあれやこれやと世話を焼いていく。主に弟の。
琥一は自分が手のかかる人間だとは思っていないし、事実琉夏よりも、経済的な意味ではないが生活能力は高い。したがって彼は弟の世話は焼いても美奈子に世話を焼かれているという自覚はあまり抱いていない。尤も、美奈子はそうは思っていないようだが。
それでも自分が作るよりも小洒落たメニューが食卓に並ぶのは悪くないし、ついでに……と言うと聞こえが悪いが、彼女の料理は美味いのだから文句など一つもない。
部活動で忙しい夏碕にはこういった芸当が物理的に不可能であるため、琥一はいつも美奈子に感謝していた。
美奈子はカウンターの中からグラスにつめたいお茶を注ぎ、琥一に手渡す。こういうささやかな気配りをなんでもないようにできるところが彼女の美徳だろう。
「あれ?疲れてんの?」
気の抜けない表情が張り付いたままの琥一に、琉夏は何気なく声をかけた。が、グラスの中身を呷った琥一はしばし考え込んだ後、
「――……いや?着替えてくる」
空になったグラスをカウンターに置き、何もないフリを装って階段を上っていく。
勘の鋭い弟は、琥一の纏った違和感に気が付いているようだった。何か怪しい。だが彼はまさか“事件”が起こっていたとは露知らず、大方夏碕とケンカをしたとかそのあたりだろうと思い込んでいた。
ので、美奈子に向き直ってニヤニヤしながら茶化すような言葉を並べ立てる。
「もう、そういうこと言っちゃだめでしょ」
「はぁい」
美奈子が“はば学のお母さん”の異名を持つのも、さもあらん。琉夏は大人しく頬杖をついて、段々と出来上がりに近づいていくハンバーグのプレートを楽しみに待つことにした。

***

デミソースのハンバーグをつついている間も琥一は考え込むような顔で、琉夏と美奈子の会話には上の空の相槌を打つばかりだった。
美奈子はさておき、最初こそおもしろがっていた琉夏も次第に深刻さに気がついたような面持ちになる。
「何か、あった?」
美奈子よりはずっと、琥一との距離感を掴んでいる琉夏が口を開くと、付け合せのジャガイモを口に運んでいた琥一が顔を上げた。
「何かって、なんだよ」
本来の意味で不機嫌なわけではなさそうだが、琥一はいわば“むしゃくしゃ”しているために機嫌はよろしくない。
「その何かを聞いてんじゃん」
が、琉夏は気にする風でもなく更に追求した。口ぶりこそ飄々とはしているものの、眼だけは真剣な色をしている。その隣に座る美奈子も同じだった。悲しそうにも見える四つの目に見つめられて、琥一の胸が痛んだ。
弟たちに心配をかけている。そのことについては申し訳なくも思っているが、事が事だけに彼らの耳にはそう易々と入れるわけにはいかない。そんな気がした。
適当にごまかすということが苦手であるし、弟は自分のウソをすぐに見破る。かと言って真実を告げてしまうのはいかがなものか。
琥一が困り果てていると、琉夏は意を汲んだのかへらっと笑い、
「まあ、言いたくないんならいいけどさ」
サラダボウルの中のミニトマトを口に放り込んだ。ドレッシングが利きすぎて塩辛い。
「……あ、ああ」
悪いな、と、続けようとすると、琥一の携帯電話が震えた。夏碕からのメールだった。

【心配かけてごめんね。家まで送ってもらったのにお礼もいえなくて……。明日は父さんに学校まで送ってもらいます。おやすみなさい】

車か何かで送ってもらうということだろうか。それなら確かに自分が迎えに行くよりも安全だろう。
夏碕は夏碕で、学校を挟んで家が逆方向の琥一に迷惑をかけるのは忍びないと思っているに違いないし。
と言っても、琥一としてはそれは全く迷惑ではないのだが。
そもそも今日だって放課後は一緒に帰る約束をしていたわけだから、そこまで恐縮することでもなかろうと彼は思うのだが。
思うのだが、夏碕はそうは感じないのだろう。彼はそれを、ときどき水臭いと思う。

***

翌朝。
琉夏と共に登校した琥一は眠気をこらえながら下駄箱から上履きを取り出そうとした。背後では琉夏がくしゃみをするのが聞こえる。何か悪い噂でもされているんだろうと含み笑いをしながら乱暴に床に上履きを落とすと、しばし遅れてその上に黒い封筒が落ちてきた。
「……?」
下駄箱に手紙なんて前時代的なことをされるような覚えはない。どちらかというとそれは、黄色い声の女子生徒たちに騒がれている弟のほうに縁がありそうな出来事のように思える。が、真っ黒い封筒はそういった甘ったるい子供っぽさではなく、得体の知れない気味悪さをかもし出している。
拾い上げてみると、意外に重い。それに分厚い。
何が入っているのかと眉を寄せ、折り曲げられただけで封のされていない口を開けると、何枚もの写真が出てくる。
吐き気がした。
おそらく家庭用のプリンターで出力したのであろうそれらの被写体は全て新体操部……というよりも夏碕ばかりだった。ズームを使ったのか撮影後に拡大したのか、きわどい部分まで……というよりもそういったアングルばかりを選んでいるように思える。
一体誰が。考えるまでもなかった。
昨日、新体操部の使っているシャワールームを覗いた人間と、今日琥一の下駄箱にこの悪趣味な封筒を入れた人間はすぐにイコールで結び付けられた。
「(ヤロウ……)」
目の前の下駄箱を殴ろうとした彼の手は止められた。琉夏が、琥一の手首を掴んでいる。
「……ルカ、」
「ごめん…………見えちゃった」
そういう琉夏の顔にも悲痛な怒りと嫌悪感がにじみ出ている。琥一にとって最愛である夏碕は、琉夏にとってもまた大事な存在なのは当然だった。
「ひょっとしてさ、コウが昨日機嫌悪かったの、関係ある?」
自分よりも随分冷静な琉夏に、少しだけ逡巡しながら頷いてみせる。段々と生徒が増えてくる昇降口で立ち尽くす背の高い二人の姿は否応無しに耳目を集めた。
「移動しよう。ここじゃ、不味いだろ?」
そう言って踵を返し、二人は教会に程近い校舎裏に腰を下ろした。

***

「……のぞき!?」
昨日の自分と同じような、うわずったような声を上げて琉夏が目を大きく見開いている。昨日の顛末をかいつまんで話すのにそう時間はかからなかった。
「誰だよ?そんなことしたの。犯人――……」
琉夏の言葉は途中で意図的に途切れた。犯人がわかっていれば、今頃その男は琥一によって見る影もないくらいのボコボコになっているはずだろう。可哀想だがそれが最も“ありそうな”結末だ。
したがって未だ犯人はわからないどころか、挑発するように琥一の下駄箱にえげつない写真を――
(なんで、コウ?…………昨日、夏碕ちゃんを送っていったから?)
ふと浮かび上がった疑問を吟味していると、ある一つの可能性にぶつかった。
「……ってことは、」
「なんだよ」
昨日よりも随分機嫌の悪い琥一に、琉夏は自分の考えを述べようとした。が、思いとどまって携帯を開く。
「おいルカ、」
「なぁ、犯人見たのってサッカー部の鈴木?」
「あ?……ああ、確かあの井上ってヤツがそう言ってた」
「そっか。じゃあ昨日、井上さんは誰と帰った?」
「あぁ?何だよいきなり……。彼氏呼ぶとか言ってたから、そうじゃねえのか?」
それがどう関係あるのか聞く前に、琉夏は携帯電話を操作して誰かと通話を始める。
「もしもし?……うん、俺。あ、おはよ。……え?いやそれはゴメン。っていうかさ、今教室?あそう。下駄箱に何か入ってなかった?」
琥一は弟の目的を知る由もなく、ただ怪訝な目をしていた。一体誰と話しているのか。
「そっか。……え?いや、なんでもないよ。……ハイハイ、じゃあな」
通話が終わった琉夏に尋ねると、電話の相手は当の鈴木だったらしい。琉夏は知っている。彼と井上の仲を。それくらいに鈴木とは親しい。
「まさかって思ったけどさ、鈴木の下駄箱にも井上さんの写真入ってるかなって思って確認したけど、何もなかったって」
「は……?なんで井上が、鈴木なんだよ?」
さっぱりワケがわからないといった顔の琥一に琉夏が説明してやると、彼は更に釈然としない顔つきになる。
昨日の放課後、井上が何故鈴木をその場に呼んでいなかったかについて、その理由をようやく理解した。別に、問い詰めはしただろうが殴ったりはしないのに、と、琥一は指の関節を鳴らしながら憤然とする。もしも誰かがその場面を見ていれば、彼がこれからケンカにでも行くのかと思いそうな剣幕だった。
「ってことはだ」
琉夏はようやく自分の考えを説明し始めた。

昨日の時点での犯人の目的として考えられるのは三つだった。

一つは 『犯人はシャワーを使っている“女子”を見たかった』
一つは 『犯人はシャワーを使っている“新体操部の女子”を見たかった』
一つは 『犯人はシャワーを使っている“瑞野夏碕”を見たかった』

そして今日、“夏碕の写真だけ”が入った黒い封筒は“琥一の下駄箱だけ”に入れられていた。

「シャワーを使ってるのが重要かどうかはまずおいといても、犯人は夏碕ちゃんだけが目的だと思う」
「なんでだよ」
「だってさ、考えてみろよ。下駄箱に入ってた写真、一日やそこらで準備できる量じゃない」
確かに。数十枚の写真は衣装もそれぞれ違っているようだし、かなり“年季の入った”ものだというのは傍目にもわかる。
「ひょっとして新体操部全員の写真持ってるのかなっても思ったけど。でもさ、そしたらコウの下駄箱にだけ突っ込む理由がよくわかんない。そもそもなんでこんな写真を、新体操部と無関係なコウのところに置いていったのかってことだけど、犯人は昨日、二人が一緒に帰ってるところ見たんじゃないかな」
「あぁ?……ちょっと待て、もうちょいわかりやすく説明しろ」
人差し指を立てる兄がいつになく真剣な顔をしている。
「うん。だってさ、夏碕ちゃんとコウがつきあってること知ってる人間は限られてて、逆に井上さんと鈴木の仲はけっこうな数の人に知られてる」
「俺は知らなかったけどな」
「それはコウが鈍いからだろ。……ともかく、犯人は“お目当て”の、彼氏……彼氏じゃなくても近しい異性に敵意を向けてるんじゃないかって俺は思うワケ。少なくとも今日以降は」
「……それで?」
「もしも新体操部全員とか、別の子、例えば井上さんだったとしたら、鈴木とつきあってるの知ってる人は多いし、傍目にだってわかりやすい。だから井上さんの彼氏の、鈴木の下駄箱に入れない?それも、今日よりもずっと前に可能なはず。井上さんが目的ならそれでいいし、新体操部全員だったら写真を刷るのだって時間がかかるはずだから、一日じゃ用意できない可能性もあるし。大体全員分なんて手間かかることするくらいなら、別の手段で嫌がらせしてくるだろうし」
言い切って、『でも大事なはずの“コレクション”を“おすそ分け”してくれるなんて太っ腹な犯人だ』と琉夏は胸のうちで呟く。それとも犯人はもっとたくさんの“お宝”を持っているのだろうか。考えたくもないが。
琥一はちょっと考え込んで、
「…………そうだな」
なんともいえない顔で頷いた。
「だろ?こんな写真持ってて、送りつけるようなヤツだ、きっと昨日もどっかにこっそり隠れてて、夏碕ちゃんのこと付けねらってたのかもしれない。だからコウと夏碕ちゃんが一緒にいるのを見ちゃって、こんなことをした。俺はそんな気がする。
……それどころじゃなくて、ひょっとしたらさっき下駄箱でコウが腹立ててんの、どっかで見てたのかも」
笑いながら、とは言えずに琉夏が言葉を切ると、琥一は頭に血が上りきったのか烈火のごとく怒り始めた。
「ふざけやがって……」

琉夏にはまだいくつかの考えがある。
一つ、琥一の下駄箱にこんなものを入れられるのはすなわち、学園内部の人間である可能性が高いということ。シャワールームの場所を知っているということもそれを裏付けるように思える。
一つ、そのうち夏碕自身にも直接被害が及ぶのではないかという懸念。
そして今思い浮かんだのだが、昨日のぞきが発見されたのは犯人の目論見どおりだったのではないかということ。
(犯人は夏碕ちゃんを、いや……コウのことも、じわじわ追い詰めるのが目的なんじゃないかな)
わざと自分を見つけさせて、存在を知らしめる。
正体不明の誰かが自分たちを見ている、その恐怖に怯えているターゲットを見て、さらにほくそ笑む。変質者というのは自己顕示欲が強いのだろうか。いたぶるような行動が非情に不愉快だった。
そんな陰湿な犯人像が浮かんで、琉夏もまた苛立ちを覚えていた。

「とりあえずさ、写真のことも含めて夏碕ちゃんには黙っておこう。精神的に参っちゃうよ、大会前なのに」
「……ああ、そうだな」
こんなことを知っているのは自分たちだけでいい。後で鈴木に、先ほどの電話について何か聞かれても黙っておこうと琉夏は胸のうちで誓った。
「ルカ、」
「なに?」
「あー……なんつーんだ、その」
照れているのか、不甲斐無いのか。琥一は言いよどんだままだった。琉夏の分析のおかげで色々なことがわかったのは感謝すべきだが、気持ち悪い事件に巻き込んでしまったようで申し訳なくもある。
「いいよ。コウは推理とか、苦手だもんね」
「ウルセ」
「俺だってけっこう、役に立つだろ?」
いつまでも、守られてた頃の自分じゃないんだと、言外に含んだセリフにもう一つ意味を込めた。
全部しょいこまないで、ちょっとくらい頼ればいいのに。それくらいで潰れたり、嫌がったりするほどもう自分は脆くない。
「……だな」
「あれ、素直だ」
ちょっと気持ち悪いかも、と言う琉夏の頭を後ろから叩きながら、始業のチャイムに追い立てられるように教室に向かった。
サボるわけにはいかないのだ。
口やかましくも愛おしい者が一人ずつ、それぞれについているから。

20110411