虹のワルツ:番外 - if

I am (not) a hero. (05)

吹奏楽部だろうか。
滑らかにつながる音の群れが、校舎内に微かに反響している。
“彼”は人気のなくなった昇降口にたたずんでいた。季節を感じさせない黒いパーカーのフードを目深に被っているため、その表情は窺えない。
“彼”は歩き出した。ある場所へ向かって。
かさかさに乾ききった半開きの唇だけが、醜く歪んでいた。

***

多目的室の中、井上は壁に凭れて後輩たちの練習風景を指導していた。五人での演技のタイミングが中々合わず、彼女も無意識に苛立ったような声をあげてしまう。夏碕と井上の指導が飴とムチ、などと言われているのは今に始まったことではないが、それでも今日の彼女は特別、ピリピリしていた。
理由は単純で、先ほどまでの作戦会議の内容が尾を引いているだけなのだ。緊張と怒りと、不安。それがいつもは沈着冷静な井上の精神状態を不安定にさせた。
顧問の教師は職員会議のため不在なので、彼女はさっきから携帯電話を握り締めたままに指導をしている。汗ばんだ手のひらは、夏の暑さのせいではない。

五人がそろってジャンプをするタイミングがずれた。いつもいつもここでひっかかる後輩たちに喝をいれてやろうと彼女が足を踏み出そうとした瞬間、携帯が震える。鈴木からのメールだった。
(――来た)
まさか本当に今日来るとは思わなかった。認めたくなかったのかもしれない。
『帰りはいつもコウか俺がついてるし、今日は生徒もみんな早く帰るから、学校の中で仕掛けてくるかもしれない』
琉夏の推測は当たった。慧眼としか言い様がない。
急いで中身を確認し、彼女は夏碕に声をかける。
「来たよ。東階段から、校舎裏に」
「……わかった」
目を閉じて深呼吸をする彼女の肩に、井上はしっかりと手を置いた。親友の身を案じる暖かい温度が、Tシャツ越しに伝わってくる。
「私は誰かに声かけとくから…………気をつけて」
「うん。じゃあ、行ってくる」
多目的室を出て行く夏碕を見送る井上に、須藤が近寄ってきた。
「大丈夫、だよね?」
「……決まってる」
二人のおかしな様子を察知したように、後輩たちも練習の手を止めている。プレイヤーから流れていた音楽は途切れ、空調の排気音だけがホールの中に広がった。
後輩たちには気付かれたくないのだ。井上ははっとして彼女たちに向き直ると、声を上げる。
「――あ、っと。私と夏碕はちょっと外すけど、練習は続けとくように!アッコ、頼んだよ」
「はいはーい。 みんな、続きからねー」
走り出した井上を見送るように手を振る須藤の顔はにこやかで、後輩たちにはそれが演技だとは気付かれていない。
ホールには再び音楽が流れ始めた。

***

井上に指示されたとおり、校舎の東階段を下りていた夏碕は予想外の人物とすれ違った。
「よ、瑞野」
「あれ?夏碕さん、何してんの?」
柔道部の不二山と新名だった。道着姿の彼らは、書類を受け取りに生徒会室まで向かう途中とのこと。
「掃除時間中に、ちょっと落し物しちゃって……今から探しにいくとこなの。ゴミ捨ての途中、校舎裏あたりに落としたかもしれなくて……青い表紙の手帳なんだけど、見なかった?」
本当はそんなものは持っていない。ウソをつくのは申し訳ないと思いながらも、夏碕は少しだけラッキーだと感じていた。
イレギュラーな人物と遭遇して、もっともらしい情報を、“そこにいるかもしれない彼”に与える。
「んーん、見てない。っていうか、手伝おうか?」
「大丈夫よ?今から生徒会室行くんでしょ?」
「ああ。悪ぃけど。……行くぞ新名」
「ちぇー。じゃあね、夏碕さん!」
食いついた新名とは対照的に、不二山はあっさりと引き下がってくれた。それにほっとしながら夏碕は再び歩を進める。
ひょっとして今この瞬間にも襲われるかもしれないと思うと、嫌な汗が背を伝うのを止められなかった。

***

桜井琥一はすでに弟と帰宅している。
さっきこの目で見たのだから間違いない。
彼らがいないということは、彼女は今日は車で帰るのだろうか。
ならば部の練習が終わるまで、それまでにチャンスが巡りこなければ――。

“彼”は誰もいない校舎の空き教室で、ベルトループから下げたキーホルダーを弄んでいた。
(……?)
足音が聞こえる。
自分の潜んでいる教室の前を通り過ぎるのを待ってから廊下を窺うと、彼女がいた。
それも、一人で。
チャンスが巡ってきたのだ。しかし飛び出そうとした瞬間、男の声に身を硬くする。
「あれ?夏碕さん?」
気安く名前を呼ぶな。
“彼”は扉の取っ手をギリギリと握り締めながら、男たちが立ち去るのを待った。
どうやら彼女は、落としてしまった手帳を探しに行くところらしい。それを聞いた“彼”の目に光が宿った。
彼女の持ち物が欲しい。そうだ、欲しかったのだった。
今日は本当にツイている。
三人がそれぞれの目的地へと移動した後、“彼”は昂揚しつつも用心深く辺りを見回し、走り出す。
隣の教室に、琉夏が潜んでいたことには気付いていないようだった。

***

15:09 送信者:鈴木  【いた!教室に入ってった!2の3!】
15:12 送信者:井上  【東階段から校舎裏に向かわせた】
15:18 送信者:琉夏  【2−3から移動した 先回りかも】
15:20 送信者:夏碕  【今、昇降口です】
15:25 送信者:小波  【今不二山くんと新名くんに会ったけど、イノちゃんの説得でそっちにいってくれるそうです】

【校舎裏にいる 人影はなし】

送信。
琥一は携帯電話を閉じ、ポケットへと閉まった。
15:26
そろそろヤツか、あるいは夏碕が先に現れる頃だろう。
掃除用具などを入れているコンテナ小屋の影に隠れて、琥一は額の汗をぬぐった。暑さは気にならなかった。
『わかってんのは背格好……それも中肉中背ってだけ』
井上が月曜日に言っていた言葉を思い出す。そんな相手に、普段なら負ける気はしないだろう。たかが陰湿な不審者だ。それも、自分よりも体格の劣る。
けれどヤツは思いつめているに違いない。そしてこちらには守るべき存在がある。その点を考えれば、むしろこちらが不利だと言ってもいいかもしれない。
だが引くわけにはいかないのだ。
守ってみせると言った。そうだ、自分が傷ついても、夏碕さえ無事ならばそれでいいのだ。
手のひらにも嫌な汗がにじんでいる。制服の裾でぬぐおうとすると、軽い足音が聞こえた。

***

尾行られている。
ほとんど直感でそう思いながら、夏碕は振り向きたいのを必死でこらえてここまで歩いてきた。
琥一がいてくれるはず。それだけが彼女の心の支えだった。
隠し持っていた携帯電話を、気付かれないよう、ハーフパンツのウエスト部分に引っ掛けるようにして隠す。そうして自分は手帳を探すフリをすればいい。
ため息に見せかけた深呼吸を一つすると、夏碕は自分の周囲の地面を見回した。
(落し物を、探すフリ……)
意識すると難しいもので、不自然な動きをしていないか気になってしょうがない。
それ以上に、背後に潜んでいるに違いない“男”が気になっている。
ばくばくと早鐘を打つ心臓が今にも口から飛び出そうで、夏碕は震える足を休めるようにしゃがみこもうとした。
そのとき、

「やっぱりポニーテールが、似合うね」

聞き覚えのない、鼻にかかる嫌な声が聞こえた。
いっそう大きく跳ねた心臓を鎮めるように胸に手を当てて、夏碕はゆっくりと振り返る。
太陽を背に、黒いパーカーの男が立っていた。歪に笑う口元が邪悪で、恐ろしい。
気味の悪さと恐怖のせいで、口の中が乾いて声が出せなかった。
「手帳を探しているんでしょう?」
“彼”はおそらく、自分ではさわやかに言っているつもりなのだろうが、声質のせいか性格のせいか、どうしても粘着質で気持ちの悪いようにしか聞こえない。
「違う?」
誰か助けて。
そう叫びたいのに、できない。
「どうして答えないんだ!!」
苛立ったように声を上げた男に、夏碕は体を大きく震わせた。答えないのではない、答えられないのだ。
緊張で喉を鳴らした夏碕を、“彼”は異常なほど嬉しそうに眺めている。
「……桜井琥一と、いつも一緒にいるみたいだね」
“彼”はパーカーのポケットから何かを取り出した。10センチほどの長さの、黒い金属の棒。“彼”が手首をすばやくひねると、一体どういう仕組みになっているのだろう、それはナイフの刃に代わっていた。
バタフライナイフというものだろうか、これが。
腰が抜けてしまって、夏碕は動けない。まさか凶器まで持ち出すとは予想していなかったのだ。
「ほんとうは彼を殺すつもりだったけど、気味が僕のものにならないのなら…………」
蝉が鳴いている。
徐々に距離を詰めてくる男から逃れることもせず、夏碕は真夏の太陽を受けてぎらぎらと輝くナイフの切っ先を見ていた。
(琥一くん―――)
振り上げられたナイフは、きっと自分の体を傷つけるのだろう。いいや、それどころか死んでしまうのかもしれない。
視界が暗転するような、眩暈がした。

20110411