虹のワルツ:番外 - if

I am (not) a hero. (06)

「なっ……!?」
“彼”は突然飛び出した人影に驚き、ナイフを持った腕を掴まれそうになりながらも寸でのところでそれをかわした。
避けられて舌打ちをする琥一に、“彼”は明らかに動揺していた。
「なんで……なんでお前が…………」
後ずさりながらナイフを構えなおし、口の中で何やらぶつぶつと呟いている。
「なんでもクソもあるかよ。大人しく捕まりやがれってんだ」
「帰ったんじゃなかったのか……帰ったんじゃ…………畜生!騙したな!?」
激昂する犯人がフードを取り去ると、不健康そうに痛んだ短い茶髪が現れた。加えて目の下のクマや、ニキビのできた肌も異常な様相を際立たせている。
一体何歳くらいなのか、判別しかねる面立ちだった。それに目立ちそうな風貌をしているにもかかわらず、こんな生徒は琥一も夏碕も見たことがない。
「人聞きの悪ぃこと言ってんじゃねぇよ。テメェが勝手に勘違いしただけだろうが」
腰の抜けた夏碕を背後にかばうように琥一はじりじりと犯人に近づく。ナイフを持った右手に注意しながら。
あのナイフさえなければ、すぐにでも取り押さえられるというのに。
「琥一くん……!」
「……心配すんな」
大きな手のひらで示されたとおり、夏碕はへたりこんだまま後方へとずり下がっていった。今すぐにでも、連絡を取り合っていた仲間たちに知らせなければいけないのに、手も体も震えて言うことを聞かない。
胸の辺りから腹部にむかって、一筋の汗が滑り落ちた。

「邪魔をするなぁぁ!!」
犯人はナイフを振りかざし、琥一に向かってくる。邪魔、というのは自分と夏碕の、妄想の仲のことだろう。
反吐がでそうになるのをこらえ、琥一は振り下ろされたナイフを避けた。
(早ぇ……!)
見くびっていた。元々これだけの身体能力があるのか、それともいわゆる“火事場の馬鹿力”というヤツなのか。犯人が何度も振りかぶるナイフは、時折彼の肌を掠める。緊張のせいもあって、その手を受け止めるのは至難の業だった。ここでも後手に回るしかないのが歯がゆい。
そうこうしている間に犯人が肩で息をし始める。どうやら、少なくとも体力だけは琥一に分があるようだ。
「夏碕ちゃん!!」
その時、数人の走る足音が近づいてきた。ようやく琉夏たちが集まってきたのだろう。ほっと安堵する琥一とは対照的に、犯人の顔色は優れない。
「二人とも、無事!?」
夏碕のいる方からは、琉夏を先頭に井上と美奈子が。そして逆の方からは不二山と新名が、挟み撃ちのように迫ってきていた。
「――琥一さん!」
「ソイツか、犯人」
そう言って道着の黒い帯に手をかけて深呼吸しながら睨みつける不二山と、その隣で息を呑む新名を確認して、犯人は目を泳がせ始める。
逃げられない。
そう思ったのだろう、彼はナイフを両手で持ち直すと、琥一めがけて突進してきた。切っ先は彼の胸の中心を、正確に狙っている。
「てめぇだけでもぉぉ!!」
狂気しか宿らない、見たこともない目の色に琥一は射抜かれたように、動けなかった。

(殺される――?)

スローモーションのように、迫ってくるナイフが見えた。ああ、俺は死ぬんだろうか。
いいや、ただでは死なない。刺し違えてでも止めてみせる。
彼女さえ無事だったら、それでいい。

『……どこにも行っちゃ、嫌。私のところにずっといて欲しいの。帰ってきて欲しいの』


小さな声で囁いてくれた言葉と、触れてくれた指先の温かさを思い出した。
死ぬわけには、いかない。
もっとずっと、傍にいたい。離れたくなんかない。あの愛おしい存在を、一人残していけるはずがない。
守る。それは彼女のためであって、同時に自分のため。

(守ってみせる。賭けるのは命なんかじゃねぇ、俺の……!)

瞬間、琥一の脳裏に浮かんだのは、教会のステンドグラスを背に白いドレスを着て佇んでいる夏碕の姿だった。
何故そんな光景を思い浮かべたのか、琥一にはよくわからなかった。

「――っ、いやーっ!!」
たまらず叫んでしまった夏碕は目を覆うことすら叶わなかった。おそらく次の瞬間に真っ赤に染まる光景は、網膜に焼き付いて離れないだろう。出来もしない覚悟をするための時間さえ与えられないのか。夏碕の両目から涙が零れた。
だが――
琥一は身を翻してそれを避けた。紙一重――けれど切っ先は確実に琥一の腕を浅く抉る。
乾いた地面に数滴の赤い雫が落ちた。琥一は傷の痛みに眉をひそめながらも、犯人の手首を締め上げ、もつれるようにして地面に倒れこむ。
「がっ――……!」
衝撃で肺の中の空気が全部抜けたように、“彼”は苦悶の表情で喘いだ。琥一は犯人に跨るようにして押さえ込んだまま、手に力を込めてナイフを落とさせる。腕の傷から玉のように血が浮き上がり、だらだらと力強い腕を伝って地面に落ちた。
砂埃が巻き上がる中不二山が冷静に、新名はおっかなびっくりの様子で駆け寄り、取り押さえる琥一に手を貸す。
武器を失った犯人の体から抵抗する力と闘志が抜けきってしまうまでに、そう時間はかからなかった。

***

一番酷い腕の傷と、顔や手足に無数に付けられた小さな切り傷を琥一は「かすり傷だ」と強がって手当てさせようとしなかった。
「何言ってるの!破傷風になるかもしれないのに!」
が、夏碕の涙ながらの説得に負けて彼は保健室で手ずからの処置を受けている。他の面々は元の部活に戻ったり、かけつけた教師に説明をしているので、ここには二人きり。

黒いスツールに向かい合って座り、水洗いした傷口の消毒に取り掛かる。
「いっ……」
「浸みる、よね……。でもガマンして」
消毒液を含ませた脱脂綿があちこちに触れるたび、そんなにもたくさんの傷を負っていたのかと彼は今更ながらに慄いた。傷自体は痛くないのに、消毒液というのは何故こうも攻撃的なのだろう。治療しているはずなのに。
琥一は、そんなことをふと考えていた。

犯人はどうやら一昨年にはば学を卒業した元生徒らしく、大学受験に失敗して以来、無目的かつ自堕落な日々をすごしていたらしい。高校時代から夏碕に一方的な好意を抱いていたらしいが、ここ最近になって唐突に制服でカムフラージュし、凶行に及んだ理由は誰にも……ひょっとすると彼にだってわからないのだろう。
在学中は陸上部で活躍し、成績も悪くはなかったというのは後から聞いた話だが、それももうどうでもよかった。もう、全てが終わったのだから。
須藤と井上だけは、犯人が成人済であることを殊の外喜んでいた。実名報道でお先真っ暗などという物騒な言葉が聞こえた記憶があるが、敢えてそれは頭の片隅に追いやる。

「腕の傷は、後でちゃんと病院に行ってね?」
ガーゼを当てて包帯で巻かれた琥一の腕にそっと触れながら、夏碕は鼻をすすった。さっきまで泣いていたのだ。
病院に行く気はさらさらないが、行かないといえばまた泣き出しそうだと思って琥一は曖昧に頷く。
「もう……わかってる?」
腫れぼったい目で覗き込まれて、琥一は笑った。
今こうして笑いあえることが嬉しい、そして愛しい。
彼は夏碕の肩に額を乗せるようにして、細い体をそっと抱きしめた。抱きしめるというより、それは甘えるように体を摺り寄せていると言った方が適当なのかもしれない。
「夏碕、」
「はい……」
「――無事で、よかった」
琥一の震えた声に、夏碕は再び零れそうな涙をこらえようとした。もう心配をかけられない。
けれど、彼だって怖かったのだと、そう思うとどうしても止められなかった。
あの男が、ナイフが怖かったのではない。二人とも失うことが怖かった。大切な存在を、幸せな未来を。
そっと背中に手を伸ばしながら、彼女もまた琥一の首筋に頬を寄せた。
「だって……守ってくれたから……」
ぽろぽろと涙が零れるのを隠すこともせず、夏碕は子供のように震える大きな背中を、精一杯に包み込もうとした。細い腕をどんなに伸ばしても足りない。広い海のような愛を受け止めることが、出来ていたらいいのに。せめて、そう思って彼女は琥一の頭を撫でた。
体の全てから、想いが溢れますように。
夏碕の練習着の、肩口が湿っていた。しばらくそうやって抱き合ったまま、気付かないフリをしていた。
私の、私だけのヒーローなのだから。
ちゃんと帰ってきてくれるヒーローでいてくれる、それが何より嬉しかった。

けれど二人がそんな甘い幸福感に浸ることができるのは、ほんのひと時に過ぎないらしい。
(…………?)
なにやら保健室の外から妙な気配がする。あんなことがあった直後だ、過敏になるのも無理はなかった。
先に気付いた琥一がそろそろとドアの前に移動して、勢いよくドアを開けると、
「きゃあっ!!」
複数人の甲高い悲鳴が廊下にこだました。ただでさえやかましいのに、長い廊下に反響して尾を引く悲鳴に琥一が顔をしかめた先には、新体操部全員が集まっていた。
まさか中からドアが開けられると思っていなかったのか、どよめいた集団は気まずそうに姿勢を正した。
「ど、どうしたの!?」
彼女たちに練習をさせているはずの須藤と井上もいる。平然とした顔の二人にどういうことなのかと夏碕が問うと、
「この子らがね、琥一くんに言いたいことがあるって」
ニヤリと笑って二人は顔を見合わせた。
夏碕は不安そうに、琥一は強張った顔をして、居並ぶ後輩たちの顔を眺めた。向こうも向こうで緊張しているらしい。ただ、今までのような敵意や、恐れている様子は感じられなかった。それだけが、微かな違和感。
互いに黙り込んでしまった数秒が経過すると、その中の一人が口を開く。
「あのっ、桜井先輩!」
なんだよ、とは言えず、気圧されたように琥一は後ずさった。一体何なんだ。夏碕に助けを求めても、彼女だって想像もつかないのだからどうしようもない。夏碕が琥一の横に立つと、後輩たちが「せーの、」と声を合わせる。

「夏碕先輩を守ってくれて、ありがとうございましたっ……!」

少女たちは綺麗に腰を折った。一糸乱れぬ動きに驚嘆すべきか、それともこの行動自体に驚くべきか。
琥一は呆気にとられているし、夏碕もそうだった。何が何だかわからない二人を、井上と須藤がにこやかに見守っている。
彼女たちは泣き出しそうな顔をして、それぞれに口を開く。
「さっきイノ先輩から全部聞きました」
「めちゃくちゃ心配してたんです、腕の怪我とかも」
「のぞかれてるって聞いたとき、あたしたちも怖い思いしたのに……」
「わたしたちの大好きな夏碕先輩を、助けてくれて、ありがとうございましたぁ……」
上手く言葉にできないのだろう。口々にそんなセリフをつぎはぎしながら彼女たちは精一杯の感謝を伝えようとしていた。
言いながら数人が、ついにぼろぼろと泣き出すのにつられたように、夏碕も泣いていた。
嬉しかったのだ。琥一の優しさを、皆がわかってくれたことが。自分だけわかっていればそれでいいと言い聞かせていたはずなのに、やっぱり自分だって皆に心から祝福されたかったし、認めて欲しかったのだ。心から笑って、光の下を二人で歩きたかったのだ。
(なんだ、そうだったんだ……)
「みんな、ありがとう……」
自分が言うことではないかもしれないが、それでもありがとうと伝えたかった。
涙をぬぐいながら夏碕がそう言う横で、琥一がなんとも言えない顔をしている。彼もまた、認められ祝福されているような気がして、それがくすぐったいくらいに嬉しくてしょうがなかった。
「琥一くん、何か言ったら?」
揶揄するような須藤の目が、少しだけ潤んでいた。何せ彼女は涙もろい。
「何かって…………」
困った顔をする琥一に、夏碕は身を寄せて笑う。
「ヒーローは照れてるのよ」
そう言われた“ヒーロー”は、耳まで赤くしてぷいと顔を逸らしてしまう。
可憐な少女たちはしばし唖然としていたが、幸せな二人が手を取り合う様を見て次々に微笑みを浮かべた。
保健室の中から、笑い声が広がっていった。

***

それから三日後。

今日もまた、“西海岸”に夕陽が落ちる。鱗のように水面が煌く凪の海からは、潮の香りを乗せた微かな風が吹いていた。
アメリカの西海岸から聞こえてきそうな軽快なギターサウンドが、ここ羽ヶ崎西の外れの海岸にも響いている。
「けむっ……何してんだよ、コウ」
それまで自室にいた琉夏が、しかめた顔の前で手のひらを降りつつテラスに下りてくる。立ち上った煙が自室の窓から入ってきたのだろう。West Beachの外では、琥一が何かを燃やしており、ウッドデッキに腰掛けた彼の足元を覗き込むと、琉夏は意外そうな声を上げた。
「――写真?」
「ああ。……例のアレだ」
忌み嫌っていた黒い封筒とその中身を燃やしているにも関わらず、彼の表情は穏やかだった。
「警察に預けたりしなくていいの?」
「それがよ……」
『多分傷害とかその辺で立件になると思うから、琥一くんが持ってる手紙は捨てちゃってもいいと思うよ。気持ち悪いしね!』
一件落着した後に、須藤からそんなことを言われたのだった。どうやら彼女の兄は現役の弁護士らしく、妙な入れ知恵をされてきたらしい。
そのことを話すと、琉夏は「やっぱ女の子ってたくましいな」と笑った。琥一も、笑う。
先日夏碕の母親に見せてもらった、新聞記事の小さな切抜きを思い出していた。井上と須藤はもっと大きく取り上げて欲しかったようだが、一応は思惑通りにカタがついたと言えるだろう。
しばし橙色の空を眺め、物思いにふける琥一を残して琉夏は室内へと戻っていった。

足元で赤くゆらめいている炎に、また一枚、写真を投じる。
写真を燃やす根本的な理由は、こんなものを他人の目に触れさせたくないだけの、彼の単なるエゴだ。
琥一が望んでいるのは夏碕の平穏であって、犯人への重罰ではない。写真と手紙を差し出すことはいわゆる社会正義につながるのかもしれないが、やはり自分が取りうる行動としては処分することしか思いつかなかった。(そもそも犯人がデータを持っているだろうから、わざわざ自分から第三者に差し出す気にはなれない)

厚手の紙に印刷されているせいか、この写真は普通の紙よりも燃えにくいらしい。収まりかけた炎に、琥一は今度は“手紙”を一枚ずつくべた。少しずつ勢いを取り戻す炎を見つめながら、塞がりつつある腕の傷に手を伸ばす。
私のヒーローと、夏碕は言ったが。
(……そんな大層なモンじゃねぇ)
自分は、悪役を完膚なきまでに叩き潰すヒーローにはなれない。
命と引き換えに守りたいものを守っても、残された者が自分を大切に想っていてくれるほど、その悲しみは計り知れないに違いない。守りたいはずの者にそんな思いをさせてしまうことが、果たして本当に最善だろうか?
いいや、そうではない。少なくとも自分にとっては、それは絶対に違うのだ。
ならば命ではなく、生涯をかけよう。
守りたいと思うものは、テレビの中のヒーローに比べればちっぽけだろうが、彼にとっては世界なんかよりも尊い。
“みんな”とか、“平和”なんて漠然とした言葉を守るのがヒーローなのだとしたら、自分はそうありたいなどと決して思えそうにない。
思えないし、例え誰に“臆病者”と言われても、もう気にならないという確信がある。
なぜならば、自分は守ったのだ、この手で。何より大切な存在を。
琥一は夕陽に目を細めた。
自分の手の届く範囲の、大切な人間だけを守る。それは大切な存在と過ごす日々を捨てきれない自分のためでもある。
そんなエゴイストは、正義の味方なんて名乗れそうにない。
けれど、それで十分だった。臆病者でいられることが、この上なく幸福だったから。

「ほら」
中から戻ってきた琉夏が差し出したのは、よく冷えたコーラの瓶。すでに王冠が外されたそれと同じものを、琉夏も片手に持っていた。
「ああ、サンキュ」
「いえいえ。お疲れ様です、お兄ちゃん」
茶化す琉夏の言葉に、琥一はもう悪態をつかない。今回の件では琉夏に随分と助けられた。弟のヒーローだった自分も、もういない。ただの、どこにでもいる兄弟だ。そう思うと、自然と笑顔になれる。
琉夏はそんな兄の姿が新鮮ではあるものの、どこかふわふわしたような満足感を覚えた。二人して笑いながら、コーラで乾杯をする。
二人の耳から下がる同じピアスには、海と空とが細く映りこんでいる。
水平線の向こうが薄い紫色に変わるころ、二人の足元で最後の一枚がようやく灰になった。

20110411