虹のワルツ:番外



俺の女を紹介します

夏碕は寝起きが悪い。
今も俺の横で手足を曲げて丸まって、起きろと言っても「あと少し」とごねている。
最初のころは「あと五分」を何度も繰り返していて、「お前結局起きねえからなあ」とからかったところ、一時期「あと一時間」に変わっていたことがある。その「あと一時間」をきっちり実行しているあたり、無理矢理起こそうとすると怒って毛布を頭から被るあたり、本当に寝起きが悪い。そして強情。
二回目の春が来た頃から、俺はもう黙って寝顔を見るに留めることにした。出掛ける予定がある日は夏碕も知らないうちに携帯のアラームを一時間早めにセットしておく。
「ほら、起きろ」
今日もとりあえず一度、肩をゆすって起こしにかかる。
「んん………あとちょっと……」
案の定の返事をしながら、コイツは俺の体に擦り寄ってきた。完全に起きてはいないが、それでも意識はあるらしい。夏碕曰く、睡魔と格闘しているだけで熟睡はしていない、とのこと。
「しょうがねえ奴だな、お前は」
長い髪の中に手を入れて梳くと、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。猫かお前は。
俺の胸に額も鼻も唇もくっつけて、たまにコイツはこういう甘え方をする。嫌いじゃない。
その間に俺は(毎朝の習慣でもある)シャワーでも浴びてくればいいのだろう。実際、そうしたこともある。が、濡れた髪で戻ってくると叱られた。突然いなくなって寂しいとかなんとか言われて。泣きそうな顔で抱きつかれて、悪い気がしなかった俺は薄情だろうか。寝ぼけてても、普段よりずっと素直になった夏碕は、ガキっぽい。もちろん、いい意味で。
顔も体も立派な大人になってんのにな。
「オラ、一時間経つぞ」
ぐしゃぐしゃと頭をかき回してやると、夏碕はかすれた声で何事か呟く。
「なんだよ」
背中に腕を回して撫でてやると、気持ちよさそうに笑った。
「すき」
あんまりにも幸せそうな甘い声だったから、俺は言葉に詰まる。不意打ちだ。卑怯だ。
「もうちょっと、ぎゅってして」
ほだされている自覚はある。

夏碕は料理も上手い。
俺がシャワーを浴びている間にブランチをこしらえてしまうのが休日の常だ。
前に二人で雑貨屋に行ったとき、ビビッドカラーの料理道具を買い揃えてやるとそれは嬉しそうにしていた。一見ままごとのおもちゃに見えそうな包丁は実は切れ味も良くて気に入っていると夏碕は笑っていた。
丈の短いカフェエプロンは、何故か俺とお揃いの、しかも夏碕のお袋さんがプレゼントしてくれたものだ。俺のは長くて黒、夏碕のは短くて空色。ベランダに出ると、雲ひとつない秋晴れが広がっている。今日はいいツーリング日和だ。
窓際のテーブルには洒落たカフェプレートが準備されつつある。俺はコーヒーメーカー(これは夏碕の親父さんがくれた)から二人分のコーヒーを注ぐ。俺はブラックで、夏碕はカフェオレにしてしまう。
出掛けた先でまた食べるから、ここで食べる量は基本的に少ない。今朝はライ麦パンのサンドイッチとハム入りのスクランブルエッグとオニオンスープをそれぞれ少しずつ。
「いただきます」
「召し上がれ」
テーブルの上には白い花が、花瓶に生けられている。大方ルカか美奈子が持ってきたんだろう。ちょっといびつなガラスの花瓶も、アイツらが北海道に行ってきた土産だ。吹きガラス体験がどうのこうの言っていたのを聞いて、夏碕が興味深そうにしていた。
俺が指先で花に触ると、夏碕が浜菊という名前だと教えてくれた。やはりルカから貰ったものらしい。お前って白い花が似合いそうだからなと言うと、しばしの間の後に笑われた。兄弟そろって同じ事を言っている、と。
浜菊は開け放った窓からの風に揺れた。
「涼しくなってきたな」
「うん」

夏碕は色々な服を着こなす。
今日みたいに俺とツーリングに出るときは、気に入っているブーツを履く。ヒールがなくて、膝の下10センチくらいの長さのエンジニアブーツを褒めてやると、「これはツーリング用に買ったの」と嬉しそうにしていた。ようやくなじんだブーツは、俺の愛車と同じ黒だ。
高校時代に乗っていたSRはルカにくれてやった。俺が乗っているのは、親父の知り合いから譲ってもらったスクランブラー。俺じゃまだちょっと手が出せないそれが手に入るとなって、慌てて大型免許を取りに行ったのが去年の今頃だった。
イギリス製の黒い865ccは、マフラーのデザインが特徴的なクラシックタイプのバイクだ。夏碕は最初に見たときに「シートが長くて座りやすそう」と喜んでいた。確かに、SRに比べればゆとりのある大きさだが、見るところはそこなのかと、つっこむべきかどうか迷う。
乗りなれてしばらく経ったころから、チェーンやサスを変え、少しずつカスタムしている。特にリアのサスペンションは、なるべく良いものにしたい。俺が乗るだけなら、サスなんてどれでもいいと思っていただろうと考えると、口の中が甘酸っぱくなるような気になる。
夏碕のヘルメットは、シールド(風防)付きのジェットだ。色は白で、真ん中に黒いラインが入っている、よくあるタイプのやつだ。
『ゴーグルが付いてる、あれ、半分だけの。かわいいのに』
と、夏碕は前に訪れたバイク用品店でまさにそういうメットを持ってごねた。後頭部の保護が不十分なため、排気量125cc以下のバイクでのみ着用が認められている。らしい。後で調べた。不十分ならなくしゃいいのによ、と思うが。
『バカお前、それはあぶねえからこっちだ』
夏碕からハーフ型を奪って、代わりにジェット型が並んでいる棚の前に連れて行った。試着しながら『わあ、意外に重いんだ……』と、頭をフラフラさせていた夏碕は、もうそれ以上ごねたりしなかった。
夏碕はシールドを、UVカット付の空色にした。最近は女向けのそういう商品まで出てるのかと妙な感心を覚えていた俺をよそに、夏碕は手袋もついでに買っていた。事故なんか起こさないようにしてるつもりだが、それでも万が一のときに手袋はあるとないとじゃ大いに違うと思う。
夏碕は髪を両耳にかけ、すっとヘルメットを被るのも上手くなった。最初のころは、やれ耳が巻き込まれた、やれ化粧が落ちると七転八倒していたものだった。
「私ねえ、いつも思うんだけど、」
夏碕は手袋をした指先でマフラーを指し、
「ウインナーに見える」
と、笑いながら言った。
この二列になったマフラーがスクランブラーの最大の魅力じゃねえかと言おうとして、でも似ているかもしれないと思うと笑いがこみ上げてきた。トライアンフの、デザイナーが聞いたら顔を真っ赤にして怒るんじゃないだろうか。
「バカなこと言ってねえで、行くぞ、乗れ」
「自分だって笑ってたくせに……」
夏碕はシートに跨ると、俺の体に手をまわして「いいよ」と合図した。
俺以外のライダーも絶対やってると思うが、信号待ちなんかをしてるとき、コンビニやらなんやらの店のガラスに映った「バイクに乗ってる俺」を眺めたりする。別にナルシストのつもりはないが、ふとしたときに髪をなおすとかそういう感じだ。
で、よくタンデムしてるカップルは女のほうが男に抱きつきすぎてへっぴり腰になってることがある。アレは最高にダセぇ。
夏碕には悪いが、そういうことがないかどうか、最初のころはそれを確認するがためにショーウィンドウを見たこともあった。が、何故かガラス越しに視線が合って、夏碕も夏碕で気を遣っているのかしらないが、気にしていたんだろう。
もちろん、そのときは目的地に着いた後に笑った。
シートの後ろに手で掴めるようなパイプがあれば(SRにはあったな)、片手でそれを、もう片手で俺の体を掴むのがいいと思う。発進と停止、どちらの動きにも対応できるだろうし。
俺は随分前から知り合いに頼んでつけてもらおうと考えているのに実行に移さないのは、多分両腕を回されるのも悪くないと思っているからだろう。

夏碕は免許をとろうか迷っている。
ちょっと離れた郊外の、コスモス畑になってしまった野原でコーヒーを飲みながらそんな話をした。
「自分で運転できたら楽しそう。私にも出来るかな?」
「なんともいえねえな」
「そりゃ、そうだけど……」
スクランブラーにもたれて、揺れるコスモスを眺めながら夏碕は拗ねた。
「いいじゃねえか。俺がどこにでも連れてってやる」
正直に言えばまあ、心配だ。どう見たってバイクを乗り回すタイプじゃない。極端に言えば運転手付の黒塗りの車の後部座席に座っているのが似合うタイプだ。
「私も琥一くんみたいに、かっこよく乗り回したいんだもん」
「…………」
「え、黙っちゃうの?」
俺は夏碕の髪をぐしゃぐしゃに撫でた。文句を言われたが、そんなもんは適当に整えてメットかぶってりゃそのうち直る。
「もー……」
「お前、美奈子の口癖うつってるぞ」
「いいもん、姉妹だから」
へーへー。

夏碕と何回出掛けただろう。
この前の夏は、暑いのに単車で出掛けて汗だくになって、近くのスーパー銭湯なんかに立ち寄った。
その前の春は、森林公園で桜を見て、夏碕はしばらく桜餅作りに夢中になって、俺は試食係をやるはめになった。
去年の冬は、唐突に「肉まん食べ歩きツアー」をやると言って、商店街の中を練り歩いた。
変な思い出ばっかりだ。
「温泉に行きたいなあ」
夏碕がこぼす。同じ事を考えていたのかもしれない。
「どっか近くにあればいいけどな」
「遠くてもいいよ、一緒に行こう?」
そういや、二人で旅行には行ってないな。いつも日帰りのツーリングかドライブか、ルカたちと四人で泊りがけか。
「……そうだな」
夏碕の頭に手を置くが、肩に誘導される。俺に肩を抱かれた夏碕は満足そうに微笑んで、体重を預けながら深呼吸をした。
「お料理が美味しい旅館がいいな」
「温泉に行くんじゃねえのか?」
「どうせなら、美味しいものも食べたい」
コスモスがざわつくほど風が吹いて、夏碕の髪をばらばらに撫でていった。
「なら、肉が美味えとこだな」
「そんなところあるかなあ?」
疑わしい、と訴える目が俺を捕える。俺はにっと笑うと、
「あるかなあ、じゃねえよ。見つけるんだよ」
「ひゃい」
夏碕が変な声を出したのは、俺がコイツの顎を掴んでいるからだ。口をすぼめたような変な顔に笑っているとそろそろ機嫌を損ねそうなので、緩めてやった。
また、風が吹きぬけていく。俺たちの好きな季節が今年も来る。少し人肌恋しくなるような季節が。
夏碕は俺の上着を軽く握った。それがまるで合図だったみたいに、俺は身をかがめて夏碕に口付けた。

20100822

べたぼれ