狂おしい恋の果て

苦しめるだけ苦しめる

――原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身により頼みたてまつる 我等のために祈り給え。

聖母像の浮き彫りの周りに刻まれた、フランス語の文字を日本語に翻訳すると、そういう意味になるらしかった。
母国語になったからと言って、それを理解できたわけでもなかったけれど。
ついでに17になった今でも、それが真に何を意味しているのか俺にはよくわからない。調べればわかることだろうが、文語を口語にして言葉通りの意味を知ったところで何かが変わるとも思えなかった。
『なあに?これ』
メダイユ――その聖母像がデザインされた、ぱっと見はただのペンダントトップのことを、そう呼ぶらしい。銀色と金色のメダイユは、それぞれ同じ色のチェーンに通されて本当にペンダントになっていた。
『ひとつ、やる。ねがいごとが叶うんだ』
『ほんとう?……わたしがもらっても、いいの?』
同い年の少女が首を傾げたときの様子を思い出すたびに、俺の記憶の中では『バルカローレ』が流れる。
彼女が好いていたのかもしれないし、俺がそのころ練習していたのかもしれない。
よく、覚えていない。
けれど少なくとも彼女が俺の目をじっと見て、メダイユについての質問をしたとき、あの部屋にはピアノもなければ音響機器もなかった。
まったくもって不思議だ。人の記憶は予想もしない妙なものと組み合わされてしまうんだろう、きっと。
したがって俺はこの年になっても、バルカローレを聴くと自然にメダイユとあの少女を思い出す。
彼女の、弥子の中では、あのメダイユはどんなものと組み合わさっているんだろうか。
あいつは動物が好きだった。いつも俺の飼っている毛の長い猫を抱いていた。猫はエオリアという名で、去年死んでしまった。
エオリアが産んだ、ガーファンクルという猫の名付け親は弥子だった。
『どういう意味だ?』
生まれたばかりのガーファンクルと兄弟たちに触れる勇気もなかった俺が尋ねると、弥子は『しらない』と言う。
なんだそれはと、そう思ったものの、これが中々口に出してみると語呂がいいので俺も気に入った。
弥子はメダイユの記憶と一緒に、ガーファンクルを覚えているだろうか。
腕の中でじっとしているガーファンクルの喉を撫でてやると、彼はゆっくりとしっぽを振って、ひとつ鳴き声をあげた。
こいつの兄弟たちは近所の家に貰われていって、ガーファンクルは傍若無人な一人っ子になってしまった。
俺も一人っ子だし、弥子も一人っ子だったはずだ。
『せいじくん、シルバーが似合うから』
あのとき弥子はそう言って、金色のメダイユを選んだ。ある意味、消去法だから選んだと言っていいのかわからないけれど。
『たいせつにしろ』
『うん』
あのときも春だった。
バルカローレを聴きながら、俺は今、金色の月を見上げている。

あのメダイユが誰から貰ったものなのかは忘れた。
けれどあの頃、確か6歳かそこらの頃から首に下げ続けているのだから、何も口を出さなかった両親あたりがくれたんだろうと俺は思っている。親指の爪ほどの大きさのメダイユは、チェーンに通していたにしても誤飲だとか、そういう可能性があるだろうから。
メダイユは、一般的には高価なものではない。
成長して何度かフランスに行くと、雑貨屋で売られているメダイユにかなりの頻度で遭遇する。こんなに大量に何に使うんだと顔をしかめたくなるが、まるで業務用のゼムクリップでも売っているかのようにパック入りで安価で売られている。
最初に見たのが13になった頃のことだった。叩き売りされているメダイユを見て、思い出が踏みにじられたような気がした。こんなものはありふれている、たいしたことないものだと言われているようで。今思えば馬鹿馬鹿しいにも程があるけど。
憤然たる思いを抱いていると、雑貨屋の店主に話しかけられた。もちろん俺はフランス語なんてわからなかったから、隣にいたフランス語のわかる家の者に通訳してもらうと、俺の気はバカみたいに晴れた。
『それは非常に状態のよい、1900年ごろのアンティークのメダイユだそうですよ』
店主の言うそれ、というのは勿論俺が首から下げているメダイユだ。
ということはつまり、弥子に渡した、対になっていたあの金色のメダイユもきっと、ここにあるものとは比べ物にならないくらい価値があることを意味しているのだ。
俺はこみ上げてくる喜びを隠しきれずに破顔したくらい、それがとても嬉しかったのを覚えている。
きっと俺は、それが自分たちの共通の思い出の象徴であり、それだけで貴いものなんだということを客観的に保証されたのが嬉しかったんだろう。今はそう分析できるし、それだけ弥子との唯一の接点を大事にしているということを今となって思い知ったのだった。
弥子が近くにいたときは、そんなことはこれっぽっちも気にしていなかったのに。

弥子は、俺たちが10歳のときにどこかへ行ってしまった。
母親に聞いても教えてくれなかったし、父親は知っているようには思えなかった。
弥子は家の者にもかわいがられていたから、俺は多分誰彼かまわず手当たり次第に、何故弥子が去ったのか、そしてどこへ行ってしまったのかを聞いたに違いない。
が、これもよく覚えていない。きっと、誰も教えてくれなかったから覚えていないんだろう。
もしも真実を知ることがそのときできていたのなら、俺はおぼろげなバルカローレの記憶なんか得ることはなかっただろうから。

俺が感じていた寂しさは、子供じみていて独善的で、くだらなかった。
もう音楽教室に行ってもあいつはいない。
もう俺の家に遊びに来ることもない。
エオリアはきっと寂しがる。
ガーファンクルが成長するのを楽しみにしていたのに。
恨みがましく思ったりもした。けれどどうしようもなかった。
くだらなかったけど、俺は全力で寂しかったし、生まれて初めて虚無感なるものすら感じていた。

たまに、こう思う。
“最初と最後を覚えていないのは幸福だろうか?”
気心の知れた相手として、記憶の中の弥子は音楽教室で隣の席に座ってきたり、家の送迎の車に一緒に乗り込んだり、俺の手を握ったり、とにかくなれなれしい。
初対面のよそよそしさも、別れのときの名残惜しさも俺の記憶にはない。
それがために俺が今、穏やかなのか、或いはそれがために穏やかでしかいられないのかは、わからない。
弥子が音楽教室から帰るときはキュッパキャップスを咥えていた。カラフルなボーダーの包み紙を器用にねじりとって、イチゴだとかキャラメルだとか、においから推測するに多分そういう味のを好んで食べていた。
俺は一度だって食べたことはないけれど、時々誰かが食べているのを見ると弥子を思い出す。
昔からこういう性格で、俺と弥子がどうしてああも仲がよかったのか今ひとつピンとこない。いや、そもそも仲がよかったのかどうなのか。それすら、朝霧の中を進む舟のような頼りなさだ。
ただ、静かな思い出が横たわるだけ。それだけだった。

かけっぱなしのCDの、最後の曲だったバルカローレが終わる。
見計らったかのようにガーファンクルが腕の中から滑り降りた。
目を閉じて眠りにつくまでの間、俺は弥子の、へたくそなジムノペディを思い出していた。


繁華街のビルの一つに、久しぶりに足を運んだ。ビルというか、複合商業施設、というのがこの建物をあらわす専門用語らしいが非常にどうでもいい。呼び名が変わろうと本質は変わらないのだから。
このビルの7階に楽器店がある。ネイ、という店は、しばらく来ないうちに様変わりしていた。
以前はフロアを二つに区切っていたのが7階と8階に広がっている。7階がギターやらドラムやらの、簡単に言えばロック・バンドの連中が使いそうな楽器を、8階がピアノやヴァイオリンなんかを扱っている。
俺の用事があるのはもちろん8階だ。もう一度エスカレーターを昇るのは面倒だが、店舗の面積が増えて、取り扱っている品物が増えているのではないかと思うとそれはそれでまあ、嬉しい。
いつも同じ曲を弾いてばかりだった日々に飽きて、何か他の譜面を探そうと思っていたところだったから尚更、期待できる。
8階の店舗は壁一面がガラスケースで、中央にはピアノが並んでいる。ベヒシュタインのグランドピアノを囲むように、スタインウェイ、ヤマハ、ローランド、へえ、ベーゼンドルファーまであるのかと感心してしまった。アップライトだけど。
もちろん自分の部屋にはグランドピアノがあるから追加で買うわけはないけれど、それでもベーゼンドルファーなんてコンクールでしかお目にかからないからちょっとだけ興奮してしまった。
試奏するわけでもなく、というかさすがに高価なピアノは展示のみなので触れることすら叶わず、俺はぼんやりとそれを眺めていた。
誰かが“エリーゼのために”を弾いている。振り返ると、小学生くらいの女の子が母親と一緒に電子ピアノに向かっていた。

『せいじくんは、いいな』
『なんで?』
『おへやに、大きなピアノがあるからいいな』
弥子はうらやましそうだった。そのときはそう思ったし、それは実際、当たっていた。
けれど弥子がうらやましがっていたのは光沢を放つ大きなスタインウェイなんかじゃなかった。

「お客様、何かお探しですか」

そんなはずはないだろうという確信を持った響きを伴って、女性店員の声が鼓膜を打つ。
大体、店員というのは何が目的で客に声をかけるんだろうか、見てるだけだってのがわかっているならそのままにしておけばいいのにと、俺は少し辟易しながら振り返った。
「見ているだけだ、放って――」
最初に目に入ったのが黒いシャツの襟だった。次がアンティークゴールドのメダイユだった。最後が、成長した弥子の顔だった。
笑っていた。
「ピアノ、また弾くんだね」
ファラド、ファミミレ、シララソファミレドシラ――
“エリーゼのために”のヘ長調のエピソードを、弥子は時々階名にして歌っていた。
数メートル離れたピアノで見知らぬ少女が奏でている音をすべて耳で拾うと、記憶の中の弥子の、調子外れの声が頭蓋を打ちのめす。
目の前の弥子は、あの頃より低い声になっていた。
「聖司?わたしのこと、忘れちゃった?」
「忘れて、ない」
ただ単に、俺はまず何を言えばいいのか見当がつかなかっただけだった。

20101006

※バルカローレ……ショパン: 舟歌, 嬰ヘ長調, Op. 60

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