狂おしい恋の果て

お終いにしないで


「わたしは多分、海が好きなんだと思う。生命が這い出してきた、るつぼの中を好むのはわたしの事情が関係していると思う?」

ざばざばと乱暴に波打ち際を歩き回る弥子の足が、波のうねりを生み出している。7月最初の日曜日、空はどんよりと曇って沖合いのほうは波も高そうだ。今日は少し涼しい。まだ海開きもしていないのに、波打ち際にはまばらに人影が見える。
弥子みたいに素足で飛びこんで膝の下で波と戯れたり或いは、履物が濡れてしまわぬように気をつけながら歩いているだけだったり。そういう人間は弥子だけではなかった。
海の中に入るだけという行為が、楽しいとは思えない。のに、弥子は随分活き活きとしている。
跳ね回る彼女を見て、ふっと思い出すことがあった。

『CDみたい』
音楽教室に通っていた頃のことだった。
道が空いていて、予想していたよりも早く教室についてしまった俺が弾いていた“子犬のワルツ”にケチをつけてきたヤツがいた。実際それはケチだったのかわからないが、そのときの俺は少なくともそう感じていた。
むっとして振り返ると、まばたきもせずに綺麗なアーモンド形の目で俺をじっと見つめている弥子がいた。そのときは名前も知らなかったし、そういえばアレは弥子だったんじゃないかと今思い当たったぐらいだが。
『CDみたい、って、どういうことだ』
その頃から褒められ慣れていた俺にとって、彼女の一言はちょっとだけ腹だたしかった。確か発表会か何かのために練習していた曲だったはずで、教室の中じゃ俺が一番上手く弾けていたのになんでこんな生意気な口を聞いてくるんだ。そう思いながら少女に尋ねる。
『きみ、きれいにひけるから、もっとここ―――こうしたらいい』
ここ、といいながら彼女は出だしのA音をトリル(非常にもたついていてへたくそだった)にして、その後の八分音符のアルペジオを何度も何度もたっぷり聴かせてくれた。正直、迷惑だった。
『うるさいな、そうかいてないし、そんなひきかたしていいのか?』
『どうひいてもいいとおもうよ』
『じゃあ、おれがどうひいたっていいだろ。おせっかい』
というような生意気なやりとりをしていると教師が入ってきて、少女はちょっと残念そうな顔で自分の席に戻っていった。
俺はというと、その小さな背中を見送る自分にちょっともやもやした感覚を禁じえないまま、その日もいつもどおりの演奏をして、教師から当たり障りのない評価と少なくとも毒にはならないアドバイスを受けて、何故か釈然としないまま帰宅した。
『…………へんなやつ』
夕飯の後に自室でピアノの蓋を開けて、彼女の言葉とへたくそなトリルを思い出して笑いがこみ上げてきた。トリルっていうのはこうやるんだと今度教えてやろうと思った。
今思えば、弥子は俺が教則本の付属CDどおりに弾いていたのがおかしかったのかもしれない。俺は俺なりの解釈をして弾いていたつもりだったけど、技量不足の彼女のほうが俺よりも読解力があるらしかった。弥子の言うとおりに弾いた、次の週のレッスンで教師がちょっとびっくりしていたから。
きっと今こいつに尋ねてみれば、『あれは子犬っていうよりスズメのワルツか、じゃなきゃポップコーン調理中って感じ』なんて言い出すんだろう。ショパンも呆れそうなものだ。
笑いがこみ上げてきたのをかみ殺した。
ああ、こんな風に弥子らしい比喩ができるくらい、俺は多分あいつの“ピアノ論”を聞いて、一目置いていたんだろうな。
へたくそなピアノも、灰色の瞳もようやく思い出した。あれは間違いなく弥子だった。

「していないと思う」
数年ぶりの再会を果たした日に、弥子から色々と聞き出そうとはしたものの叶わなかった。
何故弥子が去り、またここに戻ってきたのかを知ったのは、臨海公園に呼び出された今日、ほんの一時間前だった。


『何か言いたそうな顔してる』
俺が購入した、日本の出版社がまとめた前奏曲集の楽譜と、『舟歌』が収録されたパデレフスキ版の楽譜の入った薄っぺらいビニール袋を差し出して、弥子はぽつりと口を開いた。オレンジ色の袋から、青い表紙が透けて妙なことになっている。
売り場にはほとんど人がいなくなっている。もうすぐ閉店時間のようだし、こいつも仕事が終わるんならついでに送っていこうかと思って申し出てみることにした。
俺は何か言いたいんじゃない。まず、色々と聞き出したいだけだ。
『ごめん。残ってやらないといけないことがあるから』
『ここで、働いてるのか』
言った後で、わかりづらかったかな、と眉をしかめた。働いてるという状態自体は事実として、見ればわかるものだいうのに。
弥子は俺と同い年なのに、高校にも行かずに働いているのかと聞きたかっただけで。
『週に4日ね。高校生は時給が低いから』
あ、こんな文句言ってるのは内緒ね。と立てた人差し指を唇に当てた弥子に、どこか間のずれたような違和感を感じた。
お前の労働条件に対する愚痴はどうでもいい。
高校って、どこの学校なんだ。
なんで楽器店でアルバイトなんかしてるんだ。見透かしているようなことばっかり言って、何のつもりだ。
ピアノはまだやっているのか。
エオリアとガーファンクルを忘れていないか。
『ピアノ、また弾くんだね』って、“また”ってどういうことだ。見てたんじゃないだろうな。
どうして姿を消した、なんで今戻ってきた。

『ゼロキューゼロ、“雨だれ”が完成したら、』
俺のものいいたげな視線にちょっと眉尻を下げて、弥子はレシートの裏に8桁の数字を書いてよこした。
ゼロキューゼロ、というのはなんのことかと怪訝な顔をすると『私の携帯電話』の番号なのだと言われた。なら最初から11桁で書けよと言いたくなる。こんな説明をするのと聞くのと、弥子が090の三つの数字を書くのと、俺の労力的には後者が歓迎されたし、だ。
“雨だれ”が完成したらというのは要するに、俺が弥子好みの“雨だれ”を弾けるようになったらということを言っているのか。そう理解しても納得なんてできやしない。なんだって俺が弥子に都合を合わせないといけないのか。
その日の晩に弥子の携帯に電話して、そのあたりのことを努めて冷静に問い質すと、彼女はしばし沈黙してこう言った。
『どうでもいい話だと思ってたけど、聖司には直接会って話したいって思ったってことは、やっぱりわたしにとっては重要なのかなあ』
うすらぼんやりした受け答え――答えになっていないが――を聞いて、ああこれは、今聞きだすのは無理だなとなんとなく悟った。
『じゃあ、ひとつだけ教えろ。お前、どこの学校なんだ?』
『え?羽ヶ崎学園』


「聖司、入っておいでよ」
弥子のむき出しの両足は、鮮やかなグリーンのワンピースから伸びている。脱ぎ捨てたサンダルを砂浜に放り投げて、俺に任せたくせにどの口がそういうことを言うのやら。
「入らない」
潮でベタベタするし大体素足にサンダルの弥子と違って俺は靴下に革靴に、捲り上げる余地すらないスラックスなんだ。
縁に黒いレースがあしらわれた、チェックのワンピースの裾をたくし上げてもみっともなくはならない。どういうわけだろうか。

羽ヶ崎学園の制服も、そういえばワンピースじゃなかったか。
はばたき駅近くでよくみかける、淡いグレーに白いケープの制服を思い出す。
『はば学……は、奨学生制度がなかったもの。あっても編入試験に受かってたとは思わないけど。なんとか羽学の奨学生には受かったけど、もしダメだったらわたし多分どこかの公立に入ってた。こんな時期に編入だから、けっこう面白がられてるけど平和だよ。
ネイのバイト、は……楽器屋さんなら聖司、絶対に来るって思ったから。あんなにすぐとは思わなかったけど。
練習、しないといけないね』

遠雷。
沖の方から、腹に響くような低い音が届く。まだ降りだしていない雨の予感を弥子も感じ取ったのか、しばし水平線を見遣って、俺が呼ぶ前に海から上がってきた。波打ち際のぬかるみに足を取られながら、波に洗われていない砂浜のサンダルまで到達して拾い上げる。
「わあ、砂まみれだ」
足の事だろう。
「海に入ればそうなるだろ」
ここまで歩いてくるだけでくるぶしより下がほとんど砂に覆われてしまっている。ちらりと、足の爪がペールグリーンに彩られているのが見えた。ワンピースと揃えたのだろうか。
弥子はもう、俺の記憶の中の少女から脱皮しようとしている。
ヒールの部分にステンドグラスのような透かし模様が入っているサンダルを手に持ったまま、弥子は呆れた顔をしていただろう俺を見上げた。そして空を仰ぐ。
「どうしよう」
さっき二人で入った、煉瓦道のオープンカフェで己の境遇を淡々と話したときよりもずっと情けない顔をしている。
弥子はずっと俺に視線を合わせようとしなかった。というか、あわせなかった。俺も強いて彼女を見ようとはせずに、二人して手元のグラスの縁やら、煉瓦道の白く細い柵を眺めていた。
人気はないし、カフェのBGMはフォーク・ギターに合わせて男が歌っている静かなものだった。歌詞が英語で(というか海外のアーティストだろう)、それは俺にとっては余計な情報が頭に入らない歓迎すべきものだったが、弥子はときおり聴き入って言葉を途切れさせていた。
あんな話を聞けばその理由もわかるが、弥子は昔からぼんやりしてるやつだった。鈍くさいわけじゃないし、今も昔も太っていたわけではない。むしろ痩せている方だろう、どう見たって。
そういうことでなく、浮世離れしているというかなんというべきか、晴れの日でもあいつのまわりには霧がかかっているような感じだ。
弥子の境遇とやらを聞いて、別に同情も何もしなかった。同情なんてものは、それだけで相手を打ちのめす、侮辱だ。弥子がなんでもない顔をしているなら、俺だってなんでもない顔をするしかない。
するしかない……これは同情なんかじゃない、俺に弥子をどうこうする気もなければそれをあいつは望んでもいないだろう。ゆっくりと穏やかに錯乱し続けているくせに、そういうところだけは妙に冴えている。
けれど、それなら何故、弥子はこの街に戻ってきて態々俺に身の上話をしたのだろう。踏み込めるとでも、思っているのならそれは買いかぶりだというものだ。
「そういう情けない顔は、雨に降られた後にしろ」
弥子がしているように空を仰ぐと、迫ってくる雨雲の彩度が低くなっていた。地上に戻した視線の先は、煉瓦道から砂浜へ降りる階段だった。


「“雨の庭”、難しかった」
申し訳程度に張り出した階段の下で、通り雨をやり過ごしていると弥子がぽつりと呟いた。
「指が動かなかっただけだろう」
下手の横好きってヤツなのか、それともそうせざるを得なかったのかしらないが、音楽教室にいたのが不思議なくらいに弥子はピアノが下手だった。こいつが得意な曲なんていうのは、あるんだろうか。あるとしたらそれは、なんなんだろう。
雨に降られて湿ってきた背中を感じてちょっと眉を寄せると、雨が地面に吸い込まれる様をじっと凝視していた弥子が顔を上げた。
「濡れてる?」
「別に」
「もっとこっちにおいでよ」
「無茶言うな」
弥子はサンダルを履かない素足の踵を壁際にぴたりとくっつけるように後ずさった。人一人程度しか入れないような空間に、いくらがんばっても二人入るわけがない。それに密着しすぎるのもどうかと思うが、それを口に出せるほど俺は悪い意味で成熟していない。
フェミニストを気取ってみたりして言い訳しても、弥子にはすぐにばれそうな気がした。
「クリオネ?」
どうでもいいけど、こいつは会話の脈絡という言葉を知っているんだろうか。と、呆れていると、弥子の人差し指が俺のポロシャツ越しに、胸元に当てられた。クリオネ、と言っていたから左胸の刺繍に触れたのだろう。
なのに何故、こいつは俺のメダイユを見ているんだろうか。
弥子の顔の脇に両手を突く。冷たい石垣の表面もじっとりと濡れていた。これじゃあこいつの背中も濡れているだろうにとぼんやり考えながら、鎖骨の真ん中にある金のメダイユを見つめる。
記憶の中じゃ、きらびやかな色だったのに、本当はくすんだアンティークゴールドだった。
あやふやなのは、子供だったせいだろうか。
「クリオネが生き物を食べるところ、見たことある?」
ある。非常にグロテスクだった。そう答える代わりに、俺は弥子の灰色の目をじっと見つめた。綺麗な色だ。羽学のグレーの制服に似合いそうな気がする。夏服は違う色だった気もするけど。
はば学の制服を着た弥子を想像して、それはあまりにもきちんとしすぎていて変かもしれないと思った。悔しかった。
「怖いよ」
それはクリオネなのか、俺のことなのか。どちらにせよ怖いと言っておきながら表情にそんな素振りが全くない。
視線をそらした弥子にいらだったのか、自分でもわからないままに口付けた。
俺は、何がしたいんだろうか。

20101009

※雨の庭……ドビュッシー:『版画』より

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