狂おしい恋の果て

荊に似ている


「――理一?」

久しぶりに父親と話した。何年ぶりとまではいかないけれど、ひょっとしてこの通信される電波は一度大気圏を突破、静止衛星軌道を何週かして再び彗星よりも早く地上に舞い戻る、なんてことをしているんじゃなかろうかと勘ぐってみたくなるくらいにメロメロな音がした。
『成績が悪いわけではないのだから、ちょっとがんばってみたらどうかなと思って』
メールだと、言葉はすべて0と1に置き換えられる。電話はどうなんだろう。
もしも0と1ならば、地球の周りを何週もしたら、ごくごく一部の0が1になったりするんじゃないだろうか。
「医学科にいけるほどじゃないよ」
保健学科とか看護科ならなんとかなるかもしれないけど。
言葉を区切ると、あっ、と思い当たることがあった。
二年前まで一流大学医学部付属病院にいたはずの父親が、はばたき市立総合病院に移ってしまったわけ。
と、書くとまるで病院をたらいまわしにされる患者さんみたいだ。
国立なんだからコネも何も効かないだろうに……違う、お互いに気まずくならないように、かな。
きっとこの事実は本人たち以上に周りは気にしているし、母よりもわたしが、わたしよりも父が気にしているだろう。
今更何をしたって昔いた医師の娘であれば、無理だとは思うけど。
『無理強いはしないが、まあ、考えておきなさい』
「うん」
もう高校三年生なのか、と父親が最初に言った言葉を思い出した。
たった18年も生きていないのに、もう自分の人生を決めなきゃいけないなんて、ちょっと無理があるんじゃないかな。
特にシステムに文句があるわけじゃないけど、わたしはぼんやり、ステレオタイプなエスカレーターからドロップアウトしたくなる。



『それでは授業を始めます。今日はイギリスの旧い民謡を読んでみましょう』
『えー?過去問やるんじゃないの?』
『たまには受験勉強の息抜きです』
ざらざらしたわら半紙に、ところどころかすれたインク。この匂いが好きだった。
学校の授業で配られるプリントは、いつも皺がよっていたり印刷と紙の向きがずれていたり、上手くいったかと思えば前の席から順繰りに回ってくる過程で端が折れたり、一度だって完璧だったことがなかった。
模試の問題用紙のように、完璧につるつるの白い表紙が、匂いが、わたしは大好きだった。

Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme,
Remember me to one who lives there,
For she once was a true love of mine.







『これはスカボロー・フェアという、16世紀のイギリスのバラードです。サイモン・アンド・ガーファンクルという人たちが編曲して歌っていますが、あのメロディーは19世紀ごろに編曲されたもの。この歌詞が出来た当時は、もっと別のメロディーだったかもしれません。歌詞も変わっています、これはなるべく昔のものに近いのを載せています。
はい、それではみなさん。辞書を引きながら訳をしてみてください』

あなたはスカボローの市へ行く予定なのですか?
パセリとセージとローズマリーとタイム。
スカボローの市に住んでいる人にわたしを忘れないようにと伝えてください。
彼女はかつて、わたしの本当の愛でした。


『西野さん、ちょっと固いですね。歌ですから、もう少しわかりやすくしてもいいですよ』
『センセー、これ、ここってどういうことなのー?』
『縫い目のないシャツですね、それは――』

スカボローの市へ行くのなら、
(苦しさもその受忍も記憶の果て)
そこに住むかつての恋人に、わたしのことを伝えて


母の部屋にあったCDの9曲目、冬枯れの景色よく似合うギターの音色。
一人ぼっちの家から見える窓、電柱の上で轟々とうごめくつむじ風の、孤独を煽る冷たさ。
砂漠の大地のような色のジャケットを着た青年の目の前でストッキングを履く、しなやかな筋肉の長い脚。



『ねね、西野さん、合唱コンの伴奏やってよ』
来る11月の文化祭と同時に行われる合唱コンクール、ああそういえばそんなこともあるんだったっけか。
中学校っていうのはけっこうヒマなところなんだな、と思ったかどうかは覚えていない。
「なんでわたし?」
『ピアノ習ってたんでしょ?先生も上手いって言ってた』
「でもほら、他に弾ける人いるよ。あの――」
『あ、***ちゃん?でもさ、ぶっちゃけ西野さんのほうが上手いじゃん?ね?』
「んー……じゃあ、わかった。練習する」
『よろしくねー』
音楽の教科書の最後あたりのページに、課題曲が載っていたはずだった。
リコーダーの運指表の、ひとつ前のページに。裏表紙は雅楽をする羽織袴の男の人たちの写真で、その裏は『君が代』が載っていた。表紙はドナウ川の写真、色気もへったくれもない字体で『音楽 中学2年生』と、黄色で書かれている。
ピアノの前で両手を握り締めたり開いたりすると、左手だけがちくりと痛んだ。
『西野さんは、上手いんだけど……もっとこう、感情豊かに弾いてみたらどうかしら』
『確かにねー。なんか淡々としてるっていうか』
『やるなら優勝したいしね』
『合唱コンだからピアノがメインってわけじゃないんだけどさ……』
何故か嬉しそうな顔の***ちゃん、とやらが本番でピアノを弾いた。
行き場がなくなってソプラノのパートに回されてぼんやり歌いながら、きっとわたしは受容するのは得意でも、アウトプットが不得手なんだろうということにようやく気づく。
聖司に「へたくそ」って言われていた理由はそこにあったんだ。
それから、わたしはピアノを弾かなくなって、全く別の関係ない理由で転校した。
なんだか全部、最初からそうなるべきだったように今は思う。
同じ頃に、聖司も逃げていた。ちょっとだけ、魂のつながりみたいなものを感じた。
嬉しくもなかったけど。



「なあに、それ?」
『メダイユっていうんだ。かあさまからもらった。ひとつ、やる。ねがいごとが叶うんだ』
「ほんとう?……わたしがもらっても、いいの?」
『うん。だっておまえは、特別だから』
「トクベツ?」
『そうだ。ほら、首につけてやる』
「…………ありがとう」

最初のキスが特別だったからだとしたら、二度目のキスも特別だからだと信じよう。


聖司が鍵盤をひとつ叩くたびに、世界が一つずつ崩壊する。
最後には、切り立った断崖の上のわたしたちだけでいい。
目隠しをしていたって何でも弾けるに違いない聖司の目を塞いで、足元が崩れ落ちるそのときまで一緒にいたい。
ちょうどこんな風に、足元がガクリと落ちるように、エスカレーターの手すりを越えてドロップアウトするように。


橋になりたい、家に帰りたい、アメリカを見つけたい。


「起きたのか」

橋を渡る赤いアルファロメオが転落したのにあわせて、わたしの体は大きく震える。
随分近いところから聖司の声が聞こえた。
「…………どこ」
喉が渇いた気がする。うなじにはりついた髪が、わたしは汗をかいているってことを証明していた。
肌寒いのに。ここは聖司の部屋。わたしの部屋とは違う、快適な部屋。
「――どうした」
はっとして横を振り向くと、聖司がいた。
わたし、今のわたしは17歳。今日は聖司のピアノを聴きに来て、エオリアに会って、おばさまに夕食を誘われて。
憎いくらいに足元はしっかりとはっきりとしている。忌々しかった。
「じくじくするの」
聖司の胸に手を当てて、目を閉じた。世界が崩壊する音なんてしなかった。
冷たい肌触りのシャツ越しに、熱い体温を感じる。
「どこが」
そういえばこれは、まるで何かを期待しているような格好に見えるのかもしれないと今更思い当たる。
「肺かもしれないし、心臓かもしれないし、もしかしたら肋骨かもしれない」
うっすらと目を明けたら、あまりにも真剣な顔をしていた聖司に一瞬噛み付かれるのかと思った。
それでいいのだけど、それは今のわたしにはあまりにも恐ろしかった。
崩壊する世界を望んでおきながら、わたしの最後の砦が崩壊するのを感じる勇気はなかった。
「おまえは本当にずるいやつだな」
「……わたしも時々そう思う」
ただ、そう言ってくれる人がいるということを、今は幸福だと思っていたい。

20101025



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