狂おしい恋の果て

今だけでいい

それはほんの、気まぐれだったのかもしれないし、そうしたかったからそうしたのかもしれない。
もしも弥子がもっと早くに予定を教えていたとしても、きっと「高校最後なんだから」だとかなんとか言って、紺野は俺をクリスマスパーティーに引きずって行っただろう。生温い馴れ合いなのか、それとも紺野は本気で俺に社会性のようなものを身に付けさせようとしているのか。どちらでもいいが、教えてやりたい。『三つ子の魂百まで』と。

弥子の携帯に『今なにしてる』とだけメールを送った。聞いたところによると羽学もクリスマスパーティーがあるらしい。臨海公園近くにあるホテルの大ホールを貸しきるのと、理事長宅で執り行うのと、どっちがすごいのか俺には判断がつかない。
今頃あいつも、俺と同じようにパーティーに向かう支度でもしているのだろう。ドレスを着るんだろうか。似合いそうもないな。
苦笑しながら銀色のカフリンクスを付け終わっても、弥子からの返信はこなかった。
非常に腹立たしいことだが、あいつからの返事を待つ間、俺は一抹の不安を抱えていた。
だいたいこんなに、一時間も待たなければいけないのも理不尽だ。あいつ今、なにしてるんだ。
そうこうしているうちに、陽が落ちてくる。薄紫が迫る夏とは違う、何もかもが黒に覆われていく冬の夕暮れは俺の気持ちまで暗くしていった。
そろそろ会場に向かわなければならない。必要なものだけをポケットに入れて部屋を出ようとしたとき、未練がましく手に持ったままだった携帯が震えた。
『ショッピングモールでケーキ売ってるよー』
間の抜けた弥子の声が聞こえてきそうだった。思わず額に手のひらを当ててため息をつく。
何をしてるんだお前は。


結局気になってしまったので、紺野がクラスメイトやら生徒会の連中やらに捕まっている隙に早々にパーティーの会場を後にした。外は冷え込んで、見上げれば夜空には雲もなく星が煌いている。明日は放射冷却で寒さが厳しくなることだろう。
携帯を開きかけて、やめる。車を呼ぶ暇さえ惜しかったので最寄の駅からショッピングモール近くまで電車で移動することにした。
黒いコートの前を閉めても、襟元からタイが見える。ならばいっそ、と思ったのと急いでいたのとで、羽織っただけのコートと内側に沿わせただけのマフラーのせいか、変に注目されていたような気がした。
薄汚れた床と、くたびれたシート。座る気になれなかったのと、息遣いを感じるような町並みの夜景を見たいのとで、俺はずっとドアの前に立っていた。市街地から離れると電車からは何も見えなくなる。
何も見えないと思っていた目の前に広がっているのが海だと気がついたのは、電車が緩やかなカーブを通過したときだった。
視界の端にきらびやかな何かが映りこむ。ベイサイドブリッジだ。クリスマスの時期だけイルミネーションに彩られていて、車内は少しだけざわついた。誰もが綺麗だなんだと口をそろえている。調和を狙ったイルミネーションよりも、無造作にばら撒かれたような民家の灯の集合が、俺は好きだ。

ショッピングモールについたところで一体弥子がどこにいるのかわからないから歩き回らざるを得ず、催事場になった中央通路にたどり着いたころには軽く汗すら浮かんでいた。
「西本さん、クロスとポップはこの箱でいいですか」
「ああ、テキトーに入れとってや」
テーブルと台車がいくつか並んだ一画で片付けをしているらしい三人のうち、一人の声は弥子だった。
弥子、なのだが。
「おい」
呼びかけると、赤いワンピースが振り向いて目を丸くした。
「……なにしてんの」
それはこっちのセリフだった。
「お前こそ……なんだその格好」
半袖の先端と裾がファーで縁取りされ、同じく胸元には白くて丸いファーが縦に二つ並んでいる。ミニスカートに白いヒールのブーツのせいで脚が長く見えるし、向かい合うといつもより目の位置が高くなっていた。
「何って……サンタ?」
ああ、ナイトキャップじゃなくてこれはサンタクロースの帽子だったのか。合点はいったが変な格好には変わりない。ドレスならまだ想像がついていたものの、こんな格好は正直予想外だった。
笑っていいものか。コートのポケットに手をつっこんで立ち尽くしていると、ひそひそと話し込んでいた二人のうち、明るい髪の女性が近寄ってきた。
「弥子ちゃん、彼氏ー?」
「え――っと?」
口篭る弥子に顔をしかめながら、さりとて自分がもし同じようなことを言われたらスマートに返せる自信もない。それをどう曲解したのか、やたらと楽しそうな関西弁の女性はまくし立てる。
「なんや、悪いことしたなあ。もう8時になりそうやし、着替えて帰ってええで?」
「あ、でも……」
「ええからええから!」
追い立てられて、弥子はどこかに去っていった。ああ、着替えか。

「イヤだなあ、わたしだけこんな格好で」
手をつなぐわけでもない、並んで歩いているだけ。俺の手には白いボール紙で出来たケーキの箱がぶら下がり、弥子の手にはツイードと皮で出来たハンドバッグがぶら下がっている。
弥子は口を閉じていることが多い。白い息は言葉の一つ一つと共にだけこぼれ、文節の区切り目できれいに途切れる。
「そんなこと気にしているのか」
言っているのは多分、正装(厳密な意味での正装ではないが)の俺と普段どおりの服を着た彼女自身のことだろう。どちらかというと俺のほうが浮いていると思うのに。
「わー。勝ち組の余裕?」
勝ち組?怪訝な顔をしても、二人分の靴の踵が規則正しく鳴り響くだけだった。
「そうじゃないだろ」
「まあ、そうじゃないね」
「…………お前はいつだって、大事なことは何一つ言わない」
非難するように言ってみても、弥子はため息の塊をひとつ漏らしただけだった。
ああ、こんなことを言うのではなかったと後悔する。するけれど、多分ここで言っておかないといつか暴発しそうにも思う。
いつか。それはいつになったら到来するのか。
「聖司にとって大事なことが、わたしにとって大事なことだとは限らない」
そういうことを言うのが、俺には逃げにしか思えない。誰かが、それは思慮深さから来るものだと言ったとしても、絶対に認めない。
何もかものみこんでしまうのは、もう俺は許さない。
「大事なことは――」
弥子の家が見えてきた。名残惜しいように脚をとめたのは、二人同時だった。
「お前が言いたいこと、だろう。弥子」
住宅街の狭い道路、俺たちの横を小さな軽自動車が慎重に走り抜けた。
「言わなければ伝わらないのだとしたら、聖司……わたしたちにはもう、身体もピアノもいらなくなる」
弥子はそっと俺に寄り添った。
後ろに足を一歩、踏み出しそうになってこらえた。お前は俺を過信しすぎなんだ。
「わたしが抱きしめているのは聖司?それとも聖司の形をした、光の塊?」
「そういう……曖昧なのはイヤなんだ、俺は」
イヤなんだ。お前がいつまでもいつまでも、つかみどころのないままでいるのが。ケーキの箱の持ち手がぐにゃりと歪んだ。
「わたし……会えて嬉しかった」
弥子は俺の頭の下で、もごもごと喋り続ける。
「今日、会えたのも嬉しかった。東京から、橋になりたくてはばたき市に戻ってきて、すぐに聖司に会えて嬉しかった。聖司はもしかして、氾濫する濁流の前で立ち尽くしているのかもしれないって、そう推測し続けるのが辛かった。
ああ……曖昧って、そういうこと。わたしも曖昧が嫌だから、きっとここに戻ってきたのね」
彼女が俺の体から離れると、冷めた夜の空気をより強く感じた。隙間に、容赦ない。
「メリークリスマス、聖司」
白い月が、黒目の表面に浮かんでいた。
「プレゼントが欲しい」
白い吐息が叢雲に見える。目蓋の内側の月だけじゃなく、弥子の顔もうすぼんやりと隠れていった。
「何がいいんだ」
何だってくれてやる。今までだってそうだった。同情だとか憐憫だとか、はたまたそれは愛情だとか、そのいずれでもなかった。
俺はお前になんだってしてやることで、力の尽くしようもない現実に抗っている“フリ”だけをしていただけだった。
俺が何をしたところで、弥子の何かが変わることなんて、ただの一度もなかった。
虚しかった。
「明日、水族館に行きたい」
マフラーで鼻の頭も覆って、弥子は目を閉じながらそう言った。
「わかった。10時に迎えに行く」
「え?」
「寒いだろ。車で移動した方が……俺が、そのほうがいいんだ」
「……うん、わかった。待ってる」
はっとした。弥子も同じように思ったのか、わからない。
顔を伏せてから、ややあって笑顔を向ける。そのまま彼女は俺に背を向けた。
「送ってくれて、ありがと」
送ったつもりはなかったが、そう思っているならそれでいいかもしれない。いや、そもそもなんで今日、俺はここに――ふと、右手に持ったままの荷物に気がついた。
家に向かって駆け出す弥子を呼び止める。
「おい!――ケーキ、」
「あ!」
算数のコンパスのように片足を軸にターンして戻ってきた弥子に、ケーキを押し付けた。持ち手が歪んでいるのを見て、泣きそうな顔になっていた。
「なんか、かっこつかないね」
「今更何言ってるんだよ」
馬鹿なやつだな、お前は。
暗闇に消えていく弥子を見送ると、夜風が俺の頬を嬲った。靴を履いているつま先も、ポケットの中に入れた指先も冷たくて、感覚が消えていくようだった。それなのに寒さ冷たさだけを感じるのもおかしいとは思うけれど、それは変えようのない事実だった。冬が寒いのも、弥子が一人なのも、俺が子供なのも。
「水族館か、」
何か面白いものでもあるのか、それとも何か思い入れでもあるのか。
記憶を辿れば何か思い当たることもあるかもしれない。けれど何かあったからといって、それが本当に事実として存在した思い出なのか、それとも俺の勝手な推測なのか、判断がつかないような気がした。
あいつは元々ワガママなヤツだった。いつもいきなりアレをしてほしいコレも弾いて欲しいというばかりで。
こんな風に前もって予定を入れられることはなかった。
星が墜ちてくるような空の下、車を回して欲しいと家に電話をしながら俺は歩き出す。
何もかもがただ一瞬のためだけに存在しているようで、俺はただ静かに、覚悟することだけを強いられているような気分になった。

20101115



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