狂おしい恋の果て

呑みこまれて攫われる

たゆたう、ゆらめく、ゆれる。
ひらがなの美しさと、響きの軽やかさがそのまま、目の前に広がっているようだった。
壁一面が厚いガラスで覆われたパノラマ水槽に弥子は夢中になっている。大きな海亀が似つかわしくない速さで泳ぎ去るのを興奮気味に目で追ったり、隅のほうで小さな魚が群れているのを見て声を上げたり、まるで遠足に来た小学生みたいだった。
水槽の向こう側からか、それとも上方からか、差し込む光がゆらゆらと漂いながら弥子の頬にゆるやかな模様を作っていた。
水の中に放り込まれた網のような模様は一瞬もその形を留めることなく、まばたきする間に様変わりを続ける。
よくよく見れば模様が映し出されているのは弥子の頬だけでなく体中そうだった上に、当然ながら彼女の隣にいる俺の体も網にとらわれていた。
自覚もないまま、弥子の横顔をじっと見つめていたのだろう。居心地の悪さだけは、こんなにも早く気づくのに。

他の水槽に比べれば大きい方だが、それでもこの水槽の中はごちゃごちゃしているし、大洋と比べるのも馬鹿げているほど狭い。
「こんなところにまとめて放り込まれて、コイツら平気なのか」
水槽から少し離れて口に出したのはただの独り言だった。興奮している弥子に聞こえているはずもないと思っていた。
「でも、こういうところじゃないと、普通の人はいろんなもの見れないよ」
弥子はガラスに両手を、ついでに額も当てている。その後姿がそんなことを言った。
「もしも、この中の魚が大洋に出たら」
ガラスに触れている指先が動き、キュ、と小さな音を立てた。
「ちゃんとやっていけるかな」
弥子の隠喩は曖昧だった。大洋を世界に喩えているそれは、わかる。
水槽の中の魚が俺なのか、弥子なのか、それとももっと別の何かなのか。そもそも隠喩であるという前提が果たして正解なのか。
「……生き残れるのは、ほんの一握りだろうな」
考えるのも面倒で、それが隠喩ではないという体で答えてみた。
「ほとんどは、もっと大きな力強いものに食べられたりして」
弥子の両手がぎゅうと閉じられた。
「消えていってしまうんだろうね」
それはどこだって同じだ。自然界の摂理だかそういうものでくくられる場所も、俺が生きるだろう世界も。
「忘れられて、悲しいなんて言うのもおこがましいのかもしれないね」
水槽の中で、一際目を引くエイがぐるりと体を回転させた。その動きに合わせて、網の一部が欠落する。
「弥子」
振り向かない背中に、なるべく感情を込めないようにして続けた。
「来年、パリへ留学する」
返事どころか反応すらしない弥子の後ろ髪をじっと見ていた。
水槽の端の方で、観客が微かにどよめいた。ダイバーの格好をした飼育員が餌をやっているようだった。
波打っているようにも見えない水の中を、まるでうねりに身を任せるようにして移動している。軽やかに、その一部であるように。
彼、だろうか、飼育員は弥子の前に近づくと指先で少し上をトントンと指した。
【ガラスにお手を触れないようにしてください】
張り紙に気がついた弥子は、会釈するような動きをしながらそっと水槽から離れた。
白いため息の残滓が、かすかに残って、消える。

「帰りは、一人で帰れるから」
それからろくすっぽ口を開かなかった弥子は、カフェテリアのカウンターテーブルでようやく言葉をつむいだ。
ここにいるほとんどの客は、歩きつかれたのだろうか、ぼんやりとした顔で通路越しのラッコのプールを眺めている。
「寒いし、危ないだろ」
「いいの」
頑なに俺の申し出を断る横顔は、テーブルの上で握り締めた両手を見つめていた。
何度も見た視線は、考え込んでいるのでも悩んでいるのでもない。彼女は思いつめているのだ。今まで、どうして気がつかなかったのだろう。
「辛かった?」
およそ前後の文脈を無視した発言だった。
「――は?」
「逃げ出したとき、辛かった?」
思いつめたような灰色の瞳がこちらを向いていれば、いっそそのほうが楽だったのかもしれない。未だに敏感なところをえぐられる痛みをこらえながら、それでもやっとのことで「その後のほうが辛かった」とだけ、呟いた。
「わたしはね、ありきたりな言い方で言えば、聖司を支えてあげ……支えたかったのよ」
まばたきの数が増える。それは決して泣かない弥子が涙をこらえようとしている仕草なのだとあの頃の俺は思っていたし、今はそう確信している。
ガラス越し、向かいのプールに目を遣ると、ザブン、と音がするような動きで二匹のラッコが水中へ潜っていった。
【ラッコの赤ちゃんのお披露目は来年1月10日からです。お楽しみに!】
バカみたいに能天気な張り紙を、睨みつけた。産まれて間もなく見世物にされるのは、弥子の言葉を借りれば哀れだと思うことすらおこがましいのだろうか。
「ほんとはもっと早く、こっちに戻ってきたかった。ずっとそう思ってたのに、でももしそうだったとしても、多分わたし、いらなかったね」
「……なんで」
ストールをかけてやる以外の優しさなんてものは、持ち合わせていない。
スイスイという言葉がよく似合う。ラッコは意のままにプールの中を文字通り縦横無尽に泳ぎまわる。
ここにどのくらいの年月いるのか、俺が知ったことではないが、壁にぶつからないように泳ぐための感覚を身に着けているのだろう。おこがましくても、それは哀れだと思った。
「安穏なところにいちゃダメだっていうのは、聖司もわかってるでしょ?それがわたしでもわたしじゃなくても、誰かのおかげとか誰かのせいでこの先どうするか決めるのは、それは違うもの。聖司一人でどうにかしなきゃいけないことだもの。わたしには、そんなことだってわからなかった」
まくしたてる口調は穏やかで、ゆっくりとしていて、なのに文脈だけが動揺している。
カフェテリアの空気と弥子の表面上の態度は酷似していた。俺だけが一人、浮いたように緊張と不安感をやり過ごそうとしているような気になっていた。
折れそうな細い指が、肩にかけられたストールの端をぎゅうと掴んでいる。
「別に……俺は、別に自分一人でなんだって出来るなんて思っていない」
少なくとも今は。少なくとも今の俺はお前一人、満足にすくい上げることすらできやしない。
こめかみの辺りがガンガン傷むようだった。血管の動きだとしたら、何故こんなに心拍数が上がっているのだろう。
「そうかもしれないけど、そうだとしても、聖司はわたしには、そんな素振りは絶対に見せないもの」
嫌な話だ。どうにか切り上げようと思えばできるかもしれないけれど、多分それはしてはならないことだと思った。
「お前は俺が、なんだって出来る人間だって、そう思ってるのか」
まばたきを繰り返していた目蓋を、そっと伏せる気配がした。
「そうよ。甘やかすのなんて、すごく上手じゃない」
本当に嫌な話だ。皮肉一つ聞き流すのに嫌味ったらしいため息を大きく吐き出さなければならないなんて。
「望んでいたんだと思ってた。お前が」
ほら、やっぱり何も出来やしないんだ。わがままの一つ一つを、上手く聞き入れることすら出来ていなかった。
「このままじゃ、駄目なのよ。……これじゃ“いつか”なんてずっと来ない」
立ち上がる弥子は、そのままどこかに走り出しそうだった。
「それでも俺は、」

ふわりと残った甘い香りの主は、すでに駆け出していった後だった。
もう当分会えないんだろう。
振り返った体を戻してみれば、ラッコが力を抜いて水面に浮上しているのが見えた。
追いかけようと思えば追いかけられたし、連絡しようと思えばきっとできるだろう。
けれどそれをすることも多分ない。
俺は悪くない。そう思うことが、あいつを一人の対等な人間とみなすために必要なのだろう。わがままを諾々と受け入れることが、わがままなあいつの望んだことじゃなかった。それにようやく気づいただけだ。
だから結局、俺が悪かったんだ。それに気づけなくて。
次の再会までの時間は、これは罰だ。奥歯をかみ締めて堪えるしかない。あの頃のように。
それでも俺は、また弥子に会う。
いつか、迎えに行くと言ったのだから。

20101130



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