狂おしい恋の果て

天使にはもうもどれない


聖母様、わたしはクリスチャンでもないけれど、感謝します。
小さなわたしにとって、あなたは希望でした。ううん、違うかな。聖司がくれたから、希望たりえたのです。
わたしは頭が悪いから、人智を超えたもののことはよくわかりません。わたしの支えは肉体を持った聖司と、彼がくれた実体をもったメダイユでした。
わたしの愚かさや儚さが罪であったとしても、弱さゆえに得られたものがあったことをわたしは決して恨みはしません。
わたしはわたしであることを享受し、物を考え感じ、愛を知ることができる人の子でいられることを感謝します。


その建物の入り口付近には、両手を広げた女神像があった。
メダイユの表側に、同じ格好をした聖母像が彫られている。
祈るという行為や、或いは何かを願うということの浅ましさを厭うこと無く、わたしはごく自然にその女神像ではなく胸元の聖母像に告白した。思念を形あるものにするという行為は、それを受け取る者が存在しなくても貴いような気がした。
一度も外したことのないメダイユは、「わたしとわたしでないもの」のカテゴリーからもはや逸脱しそうになっているような気がして、それゆえ聖母は超自然的なものではなくすんなりとわたしの中に落ち着いた。


「……さむっ」
9月なのに、と文句を言いながらも小雨交じりの街の気温が低いのはしょうがないと自分に言い聞かせる。
大体こっちは日本よりも高緯度なんだから、上着をもってくればよかったと後悔もした。
足りないものはこっちで買おうとは思ったものの、この時間じゃどこの店も閉まっている。そのくせわたしは飛行機の中で眠ってしまっていたせいで眠気を微塵も感じない。困った。
何かないかと思って、タクシーの中で荷物をあさると聖司のストールが出てきた。水族館に行った日に、返すのを忘れて持って帰ってしまったものだった。もうこれでいいや。
こっちじゃチップを上乗せするのが常識なのかどうなのか、わからないけれど、とりあえず言われた額に少しだけプラスして紙幣を渡すと、タクシーのおじさんは懐っこい笑みを浮かべた。どういう意味での笑顔かわからないけど悪い意味ではないだろう。お金は多めに持ってきたし、惜しむ気持ちもさらさらなかった。
くしゃみを繰り返しながら乗り込んだエレベーターの中は暖かかった。いいところに住んでるんだな、さすがに。
高校時代に住んでいたところと違って、壁にらくがきなんてないし、ワインレッドとベージュを混ぜ合わせたような色の床のタイルも品がいい。おまけに塵一つおちていない。
なんだか場違いなところに来てしまった気がするし、普段着そのままって感じの服もどこかで着替えてしまいたくなった。
被るように羽織ったストールを胸元でかきあわせて、インターホンをひとつ鳴らした。
旧い映画のような、「ブーッ」って音が鳴らないかと秘かに期待していたけれど、期待を裏切る間延びした「ピンポン」の音だけが雨の中に聞こえた。
しばらく待っても、聖司は出てこなかった。出掛けているのか、それとも聞こえていないのか。
遠いところからわざわざ来たのに、という憤慨は沸きあがらず、ただただ見知らぬ土地に一人取り残された寂しさだけがあった。
くしゃみがとまらない。夜も更けていって、気温がどんどん下がってくる。
これは風邪をひいてしまうかもしれない。
かと言って暇を潰せるような場所も知らないし、連絡手段もないからここから動くわけにはいかなかった。
ストールの下で二の腕をさすりながら、ドアの横にしゃがみこんだ。
そのうち帰ってくるかもしれないし、部屋の中にいるとしても聖司は明日の朝には学校に行くために部屋から出てくるだろう。
それまでわたしが、どうか不審者って通報されませんように。
壁一枚隔てた向こう側に聖司がいるのかもしれないと思うと、パリの小雨が暖かくなったように思えた。
ここからはもう、あの女神像は見えない。


何か聞こえたような気がして、指先に戸惑いが生まれた。
けれどこの防音室に何かの音が紛れ込む余地はない。来客の予定もないし、気のせいだろう。
忙殺、という言葉のとおりに忙しかった。現状を望んだのは自分だし、余裕もないほどに自分を追い込んだのも他ならぬ自分だった。
少しでも練度を上げようと思って毎日毎日ピアノの前にいる。見知らぬ土地で、飽きるという言葉も知らないように手を動かして、ようやく帰るべき場所に帰ることができたと実感できた。
指先から、ハンマーが叩く弦までの僅かな距離と間すらもどかしい。もっと直感的に表現できるようになりたい。
何度も何度も繰り返し鍵盤を叩いても物にならない悔しさしかない。尤も、すぐに到達できるようではつまらない。
日に日に増していく手ごたえは感じているものの、どうしようもなく疲れるときもある。そういうときは、舟歌を弾くことにしている。
簡単な曲ではない。ただ、穏やかで温かい旋律と和音が遠い昔のことを思い出させ、それは苦しいけれどやはり、俺が大事にしたいと思っている一つの記憶であり、感情だった。
こっちに来てからというもの、時折そんなセンチメンタルな抒情ばかりを気にしている。らしくないのだと言い聞かせ、首を振りながら窓の外へ視線を移した。
「――雨か」
そういえば、弥子がいるときはいつも雨が降っていたような気がする。それに雨の庭やら雨だれやらをせがんでいた、あいつは実は雨女じゃないんだろうか。いや、そうに違いない。
「迷惑なやつ」
トリルがへたくそで、甘いものが好きで、猫も好きで、綺麗な灰色の目をしていた。
今も俺の首にかかっている銀色のメダイユは、あいつの目の色に似ている。俺よりも、あいつに銀が似合う気がする。
今度、今度会ったときは、取り替えろって、そう言おう。
それがいつになるだろうか。俺が音楽院を出て、認められるようになるまであとどれくらい時間がかかるだろうか。
全部が無駄ではないように祈りながら、それでも忘れられることの恐怖には抗えなかった。俺に新しい時間が訪れて、新しい世界が開けるように、弥子に対しても平等に新しい日々が訪れる。
その中に存在する新しい人、物、景色。それらが弥子の姿をからめとって、俺に見つからない場所へさらっていくのかもしれない。
俺は、焦っていた。

もうすぐ夜の10時になりそうな頃、玄関先で物音がした。
一瞬、体がこわばる。夏に引っ越してからまだ一ヶ月少ししか経っていない上に、俺にとっては初めての一人暮らしでストレスがたまっていたというのもある。それに、ここは日本ほど治安がいいわけでもない。
「鍵、かけたよな……」
呟いた言葉に応えてくれる者もいない。当たり前だ。
湯を沸かすために用意していた薬缶を火から下ろし、おそるおそる玄関のほうへ向かった。ドアの前に行って確認しても間違いなく鍵はかかっているし、おそるおそる覗き穴から外を窺っても何もない。向かいのマンションの柵が見えただけだった。気のせいかと思って踵を返すと、足を擦るような音が聞こえた。
何か、いる。
もう一度覗き穴から確認しても何も見えない。
警察を呼ぶべきだろうか。いや、もし気のせいだったとしたら恥をかくのは俺だ。大体こっちじゃ……
というかなんで俺がこんなに気を揉まなければいけないんだ。馬鹿馬鹿しい。
そう思って放っておこうとは思ったが、気がかりの正体が判然としないまま夜を明かすのも気分が悪い。
「なんなんだよ……」
そろそろとドアを開けていってもやはり何も見えない。イライラしていたのもあって、10センチほど開けたあたりから思い切りドアを開くと、何かに当たった音がした。
「でっ」
ついでに変な悲鳴も聞こえた。慌ててドアの裏側を覗き込むと、紫色の布の塊がドアの脇に鎮座している。
色と柄に見覚えがあった。あれは俺のストールで、去年の冬に弥子が持って帰ってしまったもので、
「痛い……」
それがなんでここにあるのかとか、そういうことじゃなく、なんで目の前に、頭をぶつけて涙目の弥子が座っているのかというのが問題だった。
「…………は?」
「痛いって言ったの」
いやそうじゃなくて。
弥子がブーツの底を床にこすりつけるようによろよろと立ち上がると、さっきの謎の異音と同じ音がした。
「なんでお前、ここに……」
もう当分会えないと、会わないと思っていた覚悟が粉砕されて愕然とした。一方で拍子抜けもしていた。
「なんで、って言われても」
寒いのだろうか。ストールを被りなおして胸元でかき合わせ、少し体を震わせている。
口篭るように「会いに来ただけだもん」と呟いた弥子の、“だけ”というのが何故か気に入らなかった。
一度イライラすると一事が万事苛立ちの対象になってしまう、のだろう。さっきまで外に不審者がいたと思いこんでいた、その原因が弥子だということを思い出した。何がしたいんだこいつは。
「何しにきたんだよ。しかもそんな薄着で。大体来るんなら連絡くらいし、……そういやお前なんでここに俺がいるって知ってるんだ」
大方、母あたりが教えたんだろう。
弥子は、うっと何かが詰まったような顔をした。
八つ当たりのようなことを言っているのはわかっている。けれどこんな風に一方的に約束を反故にされて、プライドも何もあったもんじゃない俺の気持ちのやり場もなかった。
「だって、」
「だっても何もあるか」
「あの……」
苛立ちは弥子よりも俺自身に向かっていた。もっと自分は禁欲的になれる人間だと思っていたのに、それが否定されたようで悔しかったからだ。今この場に弥子がいることが、悔しいけれど俺には嬉しかった。嬉しそうな顔をしない弥子が悔しくもあって、そんな感情が全部まとめて自分への苛立ちになった。
思っていたよりもずっと、俺は大人気なく、弥子に依存していた。
「それで?」
「え?」
「どうするんだよ、お前」
「どう、するって……」
ずるいことを言っているとわかっていても、どうしたいのか弥子に言わせたかった。
今日どうするのか、これからどうするのか。
今だけじゃない、もっと先の未来に、お前の姿があってほしい。お前の未来の中に、俺の姿があってほしい。
「だって、あの」
弥子はくしゃみをした。二つ続けて、何かを言いかけてもう一つ。
風邪ひいてるんじゃないだろうか。
「わたし……」
また、くしゃみをした。顔が赤い気がするし、その一方で唇は血色が悪く、わなないている。
「ああもう、とりあえず入れ」
ぐいとひっぱって弥子を部屋の中に入れて、ドアを閉めた。
風邪薬なんて、向こうから持ってきた荷物の中にあっただろうか。なければ明日、買いに行かなければならないなと、頭を悩ませている俺に、弥子はしがみついた。
言わないといけないことをひとつ、思い出したような気がした。
抱きつくといった方がいいのかもしれないけれど、多分あいつにとっても俺にとっても、それはしがみつく以外の何者でもなかった。
「とりあえずは、いやだ」
「…………」
「……ずっとここにいたいって、そう言ったら、怒る?」
「怒るわけ、ないだろ」
弥子は泣いていた。すすり泣くような控えめな声は、段々大きくなっていった。弥子が俺の前で泣きじゃくる、というより泣くのは初めてだった。わあわあ耳元でやかましいことこの上ない。
昔は、たまに泣くくらいすればいいのにとは思っていたものの、やっぱりどこの誰が、女の涙を喜ぶだろうか。めんどうくさいことになりそうだなと思いながら、俺は弥子の頭を抱えるようにして、やはり泣いていた。





『なあに、それ?』
『メダイユっていうんだ。かあさまからもらった。ひとつ、やる。ねがいごとが叶うんだ』
『ほんとう?……わたしがもらっても、いいの?』
『うん。だっておまえは、特別だから』
『トクベツ?』
『おれはおまえのことが、すきだから』
『わたしも、せいじくんがすき』
『……なあ、ガマンできるか?』
『うん?』
『おとなになるまで』
『何を?』
『おとなになったら、おれが、むかえにいくよ』
『……わたしを?』
『そうだよ。おとなになったら、ずっといっしょにいられるから』
『ほんとう?もうひとりじゃなくて、いっしょで、いいの?』
『やくそくする』



誰かの苦悩や辛さを排除することが救済だと言えるのならば、俺は多分まだ救われていないのだろう。
同じように弥子もまた救われず、俺たちは多分一生、救われぬままにいるしかないだろう。
それでも構わない。
弥子が俺ではない誰かに救われるくらいなら、救われないままの弥子を、救われぬ我が身の傍において置きたい。
弥子は自分が誰かに救われることで、そのことが俺を救済から遠ざけるのだと知っている。
救われなくて、いい。
それが救いにつながらなくとも、俺は祈り続ける。いつまでも、願い続ける。


エゴイストでしかいられない俺を愛してくれ。

- end -

20101214



title from love is a moment