狂おしい恋の果て

かくて世は歓喜の音に満ちぬ

夜半――ギィ、と音がする。
弥子がマットに手をついて、腕立て伏せでもするように上体を起こしていた。
トイレにでも行くのかと、無遠慮に俺の体を跨ぎ越す様をうっすらと開けた目蓋の隙間から俺は垣間見る。
髪の一筋一筋に青白い光が乱反射しているのが眩しくて、目を閉じてしまった。
寝付けないような気がした。それは弥子も同じようだった。一度寝台に入った弥子は、朝方まで目を覚まさない。月が眩しすぎるからだろうか、そんなことを考えながら一つ、呼吸をした。
顎のあたりに、かゆいようなくすぐったいような感覚がある。ちくちくと、細くて柔らかい無数の何かが当たっている。髪の毛先だろうかと不快感に目を開けると、目の前に弥子がいた。
腰のあたりに跨り、両手を俺の脇の下あたりについて、じっとこちらを見ている。
と、思ったら弥子の顔が近づいてきた。
下唇だけを噛むようにはさまれ、舌で撫でられる。時折小さな歯がかすめるように当たって、どうしたものかと困惑しながら俺は弥子の髪を両手ですくい上げた。まだちくちくとした刺激が首元にまで残っている。
不快。

「痛い」
ひっくり返すようにして弥子の体の上に覆いかぶさると、どうやら髪を両腕の下敷きにしてしまったらしく、文句を言われた。
「あぁ……悪い」
そっと頭の下に手を入れ、髪を扇のように広げてやる、俺の頭に弥子は手を伸ばす。梳くようにゆったりと動く指先が心地よかった。
弥子のパジャマのボタンを上から順に外している間も、彼女の手は止まらなかった。シェルのボタンも月の光を浴びて白く輝いていた。綺麗だった。
あまりに綺麗で、俺たちがこれからすることに対して二人とも特別な決心だとか、そういうことをしたようには思えない。
すべてを外し終わって、それからそっと捲るようにあわせを開く。俺は驚くほど冷静だったし、手も震えてなんていなかった。
他の部分と同じくらい白い肌と、呼吸をするたびにうっすらと浮かび上がる肋骨が妙に美しかった。なめらかな皮膚に青い影が落ちて、大理石の彫像のようにも見えた。けれど手を伸ばせば震え、暖かく、しっとりとした感触は無機物にはない。
弥子は俺の頭を引き、自然、抱き合うような格好になってしまう。
「恥ずかしいのか」
嫌がっているのではないと思ったから、そう聞かざるをえなかった。
実感が沸かないのが不思議だが、こういうことを致すのは初めてだ。一枚の布越しに柔らかな肉の感触を察して、さらに求めるように弥子の体を強く抱く。そうするように仕向けられたような気もした。
「心地いいの」

呼吸を乱し、ため息になりそこなったような嬌声を上げ、時折身を捩じらせるのにあわせて髪が揺れた。
さらにそれにあわせて月光が白く彩った。
弥子が動く、それにあわせて俺が動いているような気がした。思い通りに行き過ぎて、怖いくらいだったから。
月が見ている。

「痛いんだろう」
「うん、とても痛い」
「……悪いけど、やめたくはない」
「いい。十分よ」
「最初から一つだったらよかったかな」
「それは……嫌」
「どうして?」
「痛がっているわたしを感じて、わたし以上に聖司が苦しんでくれる、それがとても、嬉しいの」

月が、見ている。
馬鹿みたいに果てたのは俺だけで、弥子は白く照らされたまま呼吸を整えるだけだった。
痛みも苦しみも分かち合ったところで、結局弥子はまだ手の届かないところにいるようで、恐ろしかった。
彼女が、手をとって俺を引き寄せてくれなければ。


だるい、と雰囲気も何もないことを言って横たわったままの弥子の脇で、俺はパジャマの上着だけを軽く羽織った。取りさらった本人はガーゼの褥を体に巻きつけて、反対側を向いている。
肌寒い夜にそういうことをする気遣いのなさのような気ままさ。
女の気まぐれなのか。女は行為が終わった後のほうが、いっそう女になるのだろうか。
弥子はもそもそと這いずって、俺の膝の上に頭を乗せた。
むき出しの肩と二の腕がゆるく動き、俺の体を撫でていった。くすぐったくてそれを止めさせようと腕を掴もうとしたら、中途半端に逃げられて肘を掴む形となってしまう。
「お前、」
「うん?」
「けっこう肩ががっしりしてるよな」
弥子は何も言わず、口元だけで笑った。目蓋は閉じられて、アルカイックスマイルの出来損ないのようだった。
そもそもなんだってこいつは……。
いや、どうでもいいんだ。
壮大な目的が達成されたとも思わない。一つになれた喜びとかそういう陳腐なことを言いたいわけでもない。
ただ弥子の窪んだ鳩尾のあたりに落ちる青い影が、どこかの海を最小化した水溜りのように美しかった。
一つまた、何かを知ることが出来た、それがただ、嬉しかった。

20110409