負け戦



地雷原

早弁コンビなる、おそらく女子にしては不名誉なあだ名が私につけられたのは入学して一ヶ月も経たない頃だった。

コンビ、と言っているのだから、相方がもちろん存在する。
受験組だろう、見慣れなかった顔の彼の名は不二山嵐という。まだ名前も知らない頃に、放課後に校門のあたりで何かやってるのを見たときは、どこか気まずくて避けるように足早に立ち去ってしまった。
柔道部のないはば学に柔道部を作ろうとしているらしい。きっと私だけでなく誰もが『何故柔道部のある高校に行かなかったのだろう』と疑問を抱いているだろう。けれどそれを聞きだすというのは不躾な気がするし、それ以前に彼にはきっと事情があるのだろう。それも、誰もが想像のついていることに違いない。

不二山はよく早弁をする。授業中だろうが休み時間だろうがお構いなしだ。
対して私は、まさか授業中に早弁なんてものはしない。さすがにそれはどうだろうとは思うし、不二山のように見逃してもらえるようなもっともらしい理由もないからだ。
不二山はせこいと思う。部活の顧問の大迫先生なら見逃してくれると考えているんだろう、早弁をするのは決まって現国の授業中か、休み時間だけだから。

その日、初霜が降りていた。
「おはよ」
「おう。風邪だったんか?」
教室の後ろの、窓際席が私たちの居場所になってしまった。何人かが呆れたように『お前ら早弁すんのはいいけど教室が弁当くさくなるから隅っこでやれよ』と言ったのをきっかけに、ここに追い込まれてしまったのがいきさつ。まぁでも、教室の中では一番の特等席だから不満はない。
あくびをしている不二山に声をかけると、彼はものめずらしそうな目で私のマスクを凝視した。
「お前好き嫌いばっかしてるから風邪なんかひくんだよ」
昨日まで風邪で休んでいたのを知っているらしい。クラスメイトなのだから当たり前か。
が、しかし、彼の推測する病魔の原因は的外れだろう。
「だったら不二山だって風邪ひいてるはずじゃん」
「俺は運動してるから平気なんだよ」
「そうそう。だから好き嫌いはカンケーないってコト」
鞄を机の横にかけながらちょっと鼻をすすると、不二山が眉を寄せて考え込んでいる素振りを見せた。
「まだ調子悪いんか?」
「別に?昨日寝てたら大体治ったし」
「ふーん」
不二山はまたあくびをした。興味があるのかないのかさっぱりわからない横顔に私は目を細める。不愉快で。
ずり落ちかかったマスクを引き上げると、大迫先生が教室に入ってきてHRがはじまった。今日は昨日よりもずっと寒い気がする。

好き嫌いが多いし偏食である自覚はある。朝食は少ししか食べないから、いつも休み時間に、コンビニで買ってきたサンドイッチを食べるのが常だった。
「不二山、卵あげる」
卵サンドのあのボソボソした感じが嫌いだ。いつもは大好きなハムサンドを買うのに、今日はミックスサンドのパックしか残っていなかった。家を出るのがちょっと遅かったせいだろう。今更ごねてもしようのないことだけど。
おかげで三つ入っているうちの、ハムとツナだけしか食べられないわけで、これじゃ昼休みまで持つか非常に怪しい。
虚弱体質のくせに食べる量だけは人並み以上って、ちょっと我ながらどうかと思うけど。
卵サンドが嫌いという理由だけでなく顔をしかめた私は、なんだって美味しそうに食べる不二山にサンドイッチを押し付けた。
「なんでこれが嫌いなんだ?」
ハンバーグをほおばっていた不二山は、口ではそう言いながらも受け取ったサンドイッチを三口で食べてしまう。
「だってもそもそしてるもん」
「……わかんねー」
変なヤツだと言われたんだろう、今。
けれど私にとっては不二山のほうこそ、不可解な人間だった。
「じゃあほら、トマトやる。風邪ひいてるならビタミンとれ」
不二山はミニトマトのへたをつまんで、私にぐいぐいと押し付けてくる。
「いらないトマト嫌い。ていうか野菜嫌い」
「食え」
「嫌だ」
律儀なのか義理堅いのかなんなのか、私が『これ嫌いだからあげる』と何かを差し出すと、不二山は返礼(のつもりだろう)に何かをくれる。それもたいがい野菜。
野菜嫌いの私からすれば、そんなことするくらいなら一週間分まとめてプリンでも買ってくれるほうがありがたかった。
ああだこうだ言っているうちにチャイムがなって、毎回野菜の押し付け合いはなぁなぁで終わってしまう。時折クラスメイトがどうでもいい茶々を入れても、不二山は全く気にしていない顔をする。
結局今日の不二山は私の顎ごと掴んで口を開かせて、大粒のミニトマトを放り込んだ。
色々な念を込めて彼を睨んでも、まさしく“どこ吹く風”って顔で、なんとも思ってないようだった。
ミニトマトの何が嫌いって、噛んだときに中身がぐちゃって出てくる、あの感触が気持ち悪くて大嫌いなんだ。まだ普通のトマトのほうがマシ。あれはただすっぱいだけの食べ物だし、ドレッシングとかマヨネーズとかかければ味なんていくらでもごまかせるし。
でもコイツは駄目。噛み潰したくない。
いっそ飲み込んでしまおうか。いつまでも頬と歯茎の間を転がっているミニトマトのせいで、なんとなく体育祭の大玉転がしを思い出した。
別にそのとき何かがあったわけではない。どころか私はずっと木陰でぼんやりしていただけだ。何にも参加しちゃいない。

不二山は弁当箱を袋に入れて、さらにスポーツバッグの中に放り込んでいる。
その向こうは曇った空。冷たい空気の中で、彼の鋭い視線が本当に鋭利な刃物のように感じた。
なんであんなに強い目をしていられるのだろう。

多分私とアイツはいい友達なんだろう。
それ以上でもそれ以下でもないし、そこから動くことも絶対にない。
もしも不二山が私のことをなんとも思っていなかったら、あいつはミニトマトを私の口に押し込むことはなかった。
もしも不二山が私のことを、ある種特別な存在と認識しているなら、これまたあいつがミニトマトを押し込むことはないに違いない。
不二山嵐はそういう男だと、私は踏んでいる。
今が一番やっかいな時期だななんて考えて、過去と現在はあっても未来がわたしたちの間に存在する約束なんてないのだと、しばらくしてようやく、思い当たってはっとした。

不二山が、相変わらず口をもごもごさせている私を見て呆れた。
「お前、いい加減諦めて食っちまえよ」

私たちは多分未来へ進めないし、当然過去にも戻ることはできない。
早弁コンビを解消しない限り、私が不二山に嫌いな何かを押し付けるのをやめない限り、そして不二山がその律儀さ真面目さを放棄しない限り、一歩も動けない。

「酷い男」
貧弱な細い喉を、赤い球がぬるりと下った。押し分けて進むのが痛くて、眦から涙が溢れた。
「なんで」
目を擦って、顔を上げたら、晴れ間からの光に照らされて舞い上がる塵埃がキラキラ、見えるだろう。
「嫌いなもの、くれちゃってさ」
「お前だってそうだろ」
「アンタは喜んで食べてたでしょ」
嫌な思いをすることよりも、痛みを受け入れればよいのだろうか。
わからない。
ここから一歩も動けない、どこにどちらに何があるのかもわからない。
私は無傷のまま、ここを抜け出すことなんてできるのだろうか。いや、そもそも抜け出すこと自体可能なのだろうか。
そして不二山は、いつだって何よりも強いものに見える彼が果たして傷つくことなどあるのだろうか。
ないのだろうと思う。なんとなく、私だけがボロボロになって、あいつはいつもどおりの何食わぬ顔、のような気がする。

「ずるい」

指先で引き上げたマスクの中の愚痴に、かすかに不二山がこちらを向いた気がした。

20110112

嵐さんには捕まったが最後だと思います。不二山……おそろしい子!