教会の陰でかくれてキスをしよう



登校する生徒たちのほとんどが教室に入り、昇降口から姿を消すころ、校舎の中に予鈴が響く。
他に聞こえる音は、教室の中での談笑が漏れてきているだけ。
廊下には人の姿はまばらで、少ないいくつかの影も二言三言言葉を交わして教室の中に吸い込まれていった。

足音が聞こえる。
廊下の端の方から、全速力と言っていいくらいの速さで誰かが駆けてくる。
下駄箱から上履きを取る音が聞こえる。
少し焦ってはいるものの、上履きが床に置かれた音は誰かの駆け足に比べればたいそう静かなものだった。
駆け足が昇降口に近づき、上履きを履いた足が歩き出した。
「おっと!」
「わっ!?」
二つの音の持ち主は、まるで磁石のS極とN極が引き寄せられるように衝突した。
駆け足だった桜井琥一の丁度、ネクタイのゆるい結び目に、遅刻寸前だった小波美奈子が額をぶつけている。どさっと、土嚢が地面に落ちるようなもたつく音がした。同時に美奈子の鞄も床に落ちて、同じような音がまた響く。
「―――っ、いたい……」
やわらかい結び目にぶつけた額よりも、強かにぶつけた鼻のほうがよっぽど痛い。美奈子が顔を抑えて眉をしかめていると、琥一は慌てて彼女をのぞきこんだ。
「悪ぃ。おい、平気――」
そんなわけはないだろうと思い直して彼は言葉を区切る。少し赤くなった額しか彼からは見えないが、抑えている鼻はもっと痛いのだろう。綺麗なカーブを描いているべき彼女の眉がゆがんでいる。
自分はというと、ぶつかったところが最初こそ痛かったものの、今は大した痛みも感じていない。
「コラァ!琥一!どこいった!」
「やべっ……」
そうこうしているうちに、彼が全力疾走していた原因の担任教師が追いついてきた。
一刻も早くここから離脱する必要がある。が、美奈子を置いていくのは薄情極まりないし、真面目な彼女は大迫に自分の行き先を告げてしまう可能性もある。しかし言うまでもないが前者のほうが、彼には重大だ。
やむをえない。判断するまでに大した時間はかからなかった。
「……来い!」
琥一は床に落ちた美奈子の鞄を拾い、彼女の手を引いて駆け出した。
中庭にもグラウンドにも人気はないが、彼らが隠れるように校舎の壁を伝っていくのは、教室の窓から見られないようにするため。
目的地はそう遠くない。レンガの壁に囲まれて、校舎からは決して目の届かない場所。

「おい、大丈夫か?」
教会にたどり着いても、美奈子は鼻を抑えたままだった。
荷物を教会の扉前の階段部に置いて、彼女を座らせながら自分もその下、地面にしゃがみこんだ。自然、琥一よりも高いところにいる美奈子はうめくように返事をする。
「……だいじょばない」
「は?」
なんだそれはと言いたいが、察するに「大丈夫ではない」のだろう。乱れた髪を片手で整える余裕はあるらしいが。
「あー……悪かった」
琥一とて、美奈子に対しては一定以上の好意を抱いているわけだから、彼女が涙目になっているのを見ているというのは至極居心地が悪い。のみならず、とてつもない罪悪感に苛まれる。衝突が故意ではなかったにしても。
「しかもこんなところに連れてきて……」
予想の範囲内だったが、説教までされるとちょっと気分が別の方向に悪くなる。
「しょうがねえだろ、あの場合は――」
が、じとりと睨まれて、琥一は三度目の「悪い」を口にした。さすがに三度目はただのポーズに聞こえるのが彼自身、よくわかる。
「鼻血とか出てねえか?」
そっと頬に手を当てると、美奈子が体を震わせた。
「多分……」
「見せてみろ」
「平気」
「わかんねえだろ」
琥一は今度は両手で顔を挟もうとしたが、美奈子が腰を浮かせて一段上に逃げていく。
「大丈夫ってば」
どうやら不機嫌らしい。琥一と違って美奈子は遅刻もサボリもしたことがなかったのに、今それら二つが一気にわが身に降りかかっているのだ。しかも他人のせいで、無理矢理に。大体、琥一がサボることについてもいい感情をもっていなかったというのに。
「ハァ……ほら、見せろ」
琥一は琥一で、あの場はああするしかなかったと考えているから美奈子がここまで頑なな態度をとっているのが若干気に入らない。しゃがみこんでいた彼は階段の一段目に膝立ちになって美奈子を、傍から見ると追い詰めているような姿勢になった。
「やだ」
本心から嫌がっているのではなく、ただ意地を張って拗ねているだけだというのがわかるから余計気に入らない。
琥一は美奈子の脚に跨り、彼女の両手をそれぞれ掴んで拘束した。
「や!」
「あーあ……赤くなってんな」
「……誰のせいだか」
ぷいと顔を逸らしているが、あまり痛がってはいないところを見ると骨が折れたりはしていないだろう。鼻血も出ていないから案外、彼女は華奢に見えて丈夫なのかもしれない。
ようやく一安心できて些か気が晴れた琥一は、なるべく穏やかな声音を作った。
「だから、悪かった」
「…………」
「反省してる」
「……本当に?」
美奈子が顔を戻して琥一のほうを見つめると、彼はふっと微笑んで両手の拘束を解いた。
「ああ。許してくれるか?」
左手を地面について体を支えながら、彼は美奈子の頬に右手を添えた。長い睫が伏せられる動きすら、彼にとっては何よりも美しいものに思える。
少し赤みがかってきた頬は滑らかだし、ふっくらとした唇の色は艶かしい。
触れたのはまずかったかもしれない。そう思っていると、桃色の唇が動いた。
「……そこをどいて、ちゃんと教室に戻ったら、ゆるす」
美奈子は徐々に近づきつつあった琥一の顎に指先をあてて、つい、と押し出そうとした。
「それは聞けねえ」
琥一の嗜虐心にかすかな火がついた。彼はそういう感じを覚えた。
手篭めにしてやりたいとか、そういう邪な欲もあれば、ずっとこのままを望む、彼女を神聖視している自分もいる。両者が拮抗して、結局いつもはモラリストな部分が勝って、望まないストッパーがかかる。客観的に冷静に見れば、それは確実に正しいのだろうけど。
一度あふれ出したらきっと止まらないだろうと思っていたし、むしろ何も気にすることなくすべてを曝け出せる時を待とうとも思っていた。だが今は、拮抗する二大勢力がいいバランスを保っているのを彼は確信している。
よって彼は、手を差し伸べたのだ。
「……え」
絶句する寸前に美奈子がため息のようにか細い声を漏らした。
細い指先が出せる力なんてものはたかがしれているので、彼は易々と顔をさらに近づけた。息遣いも、ヘアワックスのにおいもふわりと鼻先をかすめるのが気恥ずかしくて美奈子は咄嗟に顔を逸らす。
琥一はそんな恥じらいを目の当たりにして苦笑した。
「つれねえな」
「だって、ほら……もうすぐ一限が……」
せわしなく瞬きをして、どうにか逃れようとする美奈子の腰に、琥一は腕を回した。
授業に出ないのがダメなのか、それとも、いつも足踏みしていた先へ行ってしまうのがダメなのか。
「サボれよ」
「だめって、」
「5分遅刻しようが50分遅刻しようが、遅刻にゃ変わりねえだろ」
「そういう問題じゃな――、っ!」
唇が頬に触れて、彼女が体をこわばらせる。それが琥一の罪悪感を、これまでの比ではないくらいに刺激する。
美奈子の唇は固く結ばれて吐息すら漏れ出でない。逆に琥一の吐き出す息はさっきから美奈子の肌を緩やかに刺激していた。
嫌がっているのではないだろう。そう信じたい。けれど、嫌がられていたとしてもそれはそれで、抑止弁の役割になるのだから悪くはないのかもしれない。
罪悪感が脳裏をよぎるたびに、もっと強く求めたい衝動が打ちのめされる。まだその時ではないのだと思えば、拒否されても不思議とあまり傷つかない。あまり、であって、傷つくことには変わりはないのだけれど。
そういう不安は、彼とて持っている。
だから彼女がどう思っているのか知りたい。
「イヤか?」
「だ、め」
震えているのかかすれているのか判別しがたい声で美奈子が喘いだ。琥一のブレザーをきゅうと掴んで、ぴくりとも動かない。
だめ、というのと、イヤ、というのは全く違う。彼は安心していた。罪悪感は消えないけれど。
「そうか」
けれど彼女が何を思っているのかよりも、今はもっと別のことが知りたい。
例えば肌の感触や、ため息の温度や、唇の味を。
「俺のせいにすればいい。遅刻もサボりも―――」
彼の内面が罪悪感で満たされれば、この場はせいぜい、抱きしめて唇を重ねるだけで留まりうるだろう。
それを実行しないうちは、彼はそう信じている。
彼は美奈子の耳元で、続きを囁きかけた。すると、一旦ぴくりと震えた体から力が抜けていく。
唆されたように、彼女は琥一の肩に手をかけた。

人里に下りた山鳩の鳴き声だけが、教会の敷地に揺れている。

20101004

50000hit記念アンケートにて堂々の一位を勝ち取った「あらぶる桜井琥一」+「シチュエーション:普通」でございますが、あらぶらせた結果がこれだよ!/(^o^)\
えへへ、投票してくださったみなさんありがとうございました、こんなんですいません。
都合の悪いときはこういいます。「ウチはど健全サイトです」 続きは各自、脳内補完するように。以上、いってよし!