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はて、どうしてこうなったのかと考えてみると、それは一昨日の下校時に一緒になった彼女の一言のせいだと思い当たる。

『そういえばもうすぐ期末試験だね』

そのとき彼は『言われなくてもわかっている』とは言ったものの、実際のところは確かに『そういえば』の域を出なかったし、ましてや準備などは考えすらしていなかった。彼に関して言えば、試験勉強どころか日々の予習復習すら億劫でやっていないのだけれど。
一方美奈子の方はというと、根が真面目なせいだろう、人並みどころかそれ以上には勉強の習慣がついているおかげで、首位とは言えずともそれなりの順位と成績をキープし続けている。
そういう背景もあって、やれ勉強しろやれ授業はサボるなと、ことあるごとに浴びせかけられる小言がうっとうしいことこの上ない。もしも美奈子が自分と同じくらいの成績だったなら、オマエは人のこと言えるのかと反撃できたはずなのに。
出来のいい弟に負けないようにと平均程度の成績を維持するばかりで、その上すっかり板についてしまった外面とでも言うべき彼の性格はそうそう簡単には修正できないし、むしろ彼自身そういう気はあまりなかった。
ただ一つだけ気にかかることといえば、そんな“不良”な自分に“優等生”な美奈子がどうしてこうも気を配ってくれるのかということ。
大方お人よしで感化されやすい彼女のことだから、いつも彼(と弟)を追い回している生徒会長や大迫の姿を見て、幼馴染なりになんとかせねばとでも思っているのだろう。ご苦労なことだと彼は鼻を鳴らす。
期末試験だねと言われた時にも特に何も考えずにめんどくせえだの留年上等だの、半ば売り言葉に買い言葉で応じていた。が、美奈子はそれすら逆手に取って、もしも彼が留年したら自分と、それから同い年の弟の後輩になってしまうことをにっこり笑いながら彼に宣告した。
なんとたくましいことか。
彼はいっそ感心してしまうところだった。
が、確かに彼女の言うとおりの結果になるのは非常に嫌ではあるし、点数の悪さを出席や授業態度でカバーできるとは思えないのでせいぜいいつもどおり、人並み程度の可もなけれど不可もない順位をキープするしかない。
ノートを貸せと詰め寄った彼に提案されたのが、ならば三人で一緒に勉強でもしないかということ。残りの一人は言わずもがな、琉夏のことなのはわかりきっている。
『あぁ?どこでだよ』
『放課後に、図書館!』
『冗談じゃねえぞ、オイ……』
誰も彼も考えることは同じで、試験前の図書館なんてものは勉強する生徒でいっぱいになる。日によっては席をとるのすら難しいほどに。そんな中に琥一が現れたら、悪い意味で注目の的だ。
『別の場所にしろ』
『ええ?なんで?静かだし集中できるじゃない?』
『俺が図書館にいるのが似合うと思うか?』
ああ、言われてみれば、という顔をした美奈子にほんの少しの苛立ちを覚えるが実際そうなのでしょうがない。
『じゃあどこならいいの?教室?』
それも誰かに見られたら嫌だ。
『ワガママだなあ……じゃあ喫茶店とか?』
それならまだ妥協できる。試験前なら寄り道する生徒もそこまで多くはないだろうし。

そういうわけで、三人揃って仲良く、かどうかはわからないが勉強会をするはずだった。
だが当日、喫茶店のテーブル席には二人分の飲み物しかない。
琉夏は逃亡していた。HRが終わった後に彼のいるべき場所を振り返ると、すでに鞄もなければ下駄箱に靴もなかった。
「もう」が口癖の美奈子は先ほどまで若干不機嫌ではあったものの、琥一だけでも捕まえることができたのでよしとしているように見える。
なんだって人のことでこうも満足そうな顔ができるのかほとほと不思議だが、琥一はきっかけが自分である以上は仕方がないので大人しく喫茶店まで連行されてノートやら教科書やらを広げざるを得なかった。
とりあえず今日は、琥一の向かいで英語の文法問題集に手をつけている美奈子から丁寧にまとめられた日本史と生物のノートを借りて書き写すことになっている。手っ取り早くコピーしようとしたら「コピーしたら、それで満足して何もしないでしょ。ちゃんと書いて覚える!」と説教された。見透かされたようでギクリとしたのがばれていないといい。
さすがは女子、と言うべきか。色とりどりのボールペンと蛍光ペンで鮮やかなキャンパスノートはいっそアートのようだった。
「へえ……」
それにキレイにわかりやすくまとめられている。感心してパラパラと捲っていると、困り顔の美奈子から抗議された。
「あ、あんまりじっくり見ないでよ?」
「なんでだよ?」
「……その、寝ちゃってて、線がガタガタになってるところとかあるかもしれないから……」
「オマエでも居眠りしたりすんのか」
それは新鮮な光景かもしれない。
「そんなこといいからハイ!勉強勉強!」
「へぇへぇ」
青いシャープペンシルは、彼のノートを無骨な字でいっぱいに埋めていった。

どちらかがお手洗いに立ったり、二杯目の飲み物を注文したりしながら勉強しているうちに外は暗くなってしまっていた。お互い予想外に集中してしまっていて、加えて席も窓際ではなかったがために外の様子に気がついたのは、琥一が背伸びをした拍子に壁の時計を見たときだった。
さすがにそろそろお開きにするべきだろうということで、午後8時になるかならないかという時刻に二人はようやく店を出ることとなる。
「はぁ、肩凝っちゃったね」
「ああ」
首を左右に倒してみたりぐるぐると肩をまわしたりしていると、お互い同じことをしているのが目に入って彼女は苦笑する。
「ノート、全部写せた?」
「まあ大体な」
「わからないところあったら、わたしが答えられる分だったら教えられるから、聞いてね」
背の高い琥一を見上げるようにして、美奈子はにっこり笑った。“留年したら”発言のときとちょっとだけ違う、彼女の優しさがにじみ出るような笑顔。
歩幅をあわせながら、琥一はふとちくりとしたものを感じる。
「……悪かったな」
「え?――あ!そういうこと言ってるんじゃなくて、その……」
「違ぇよ」
ふっと笑いながら、琥一は続けた。
「付き合わせて悪かった、って言ってんだ」
言いながら、でも今回のことを言い出したのは美奈子だから『付き合わせて』というのは違うのかもしれないとちょっと妙な気分になる。
ただ、彼は彼なりに、彼女の時間を奪ってしまったのではないかということに今更ながら思い当たって申し訳なく思っているのだった。
それは何も今日だけのことではない。
「そんなことないよ?言い出したのわたしだし、わたしだって勉強してたもん」
「そういうんじゃなくてだな……」
口篭りながら自分でも何が言いたいのかわからない。
今回に限らず美奈子には迷惑をかけていると思うし、もしそれが“幼馴染”ゆえに負担をかけているのだとしたらお互いも周りもどうこうすることはできないけれど、それでも自分のような人間に関わらざるを得なくなってしまった、その事実について謝罪したかった。自己満足だとしても。
すっかり闇に包まれた道を、特に言い出したわけでもないが揃って美奈子の家に向かって歩いている。
もしも彼女が幼馴染じゃなかったら、こうして面倒を見てもらうようなことはあっただろうか。彼にはわからない。
「わたしね、悪かった、って言われるより、ありがとう、って言われる方がうれしいな」
靴音に負けそうな声量で美奈子が呟く。
斜め上からだと顔は良く見えないが、恨みがましい響きはない。彼女なりに思うこともあるのかもしれない。
「琥一くんは、どう?」
「どう、って……」
考えてみた。例えば今、美奈子を自宅へ送り届けた後だとか、先ほど喫茶店で落とした消しゴムを拾ってやったときだとか、些細なことでも謝られるよりは謝辞を述べられた方が気分はいい。確かにそうだ。
むしろそういうときに「ごめん」なんていわれたら、萎縮されているようで気分が悪くなるかもしれない。
納得したような顔を浮かべていると、まとわりつくように聞いてくる美奈子に袖をひっぱられる。
「ね?ね?そうでしょ?」
普段ならちょこまかすんなとか、落ち着けとか、そういうことを言いながら呆れるけれど、今は気持ちが暖かくなるようだった。同じだ。「ありがとう」と言われると、嬉しくなる。なんだか満たされるような気持ちになる。
こみ上げてくる何かを飲み込むようにぐっとこらえて、彼は呆れたような笑顔を作った。
「そういうことにしといてやる」
「ええ……もう、素直じゃないんだから……」
「悪かったな」
「あ、ほら!」
「今のは違うだろ!」
「ん?あれ、本当だ」
美奈子は首を傾げて、笑った。
それすらが、ほのかに温かみのある空気を放っているような気がした。


「送ってくれて、ありがとう」
「気にすんな。じゃあよ」
彼女宅の玄関先で別れて、そういえば夕食になりそうなものが家に何もないことに気がついた彼はコンビニへと歩を向ける。
煌々と明かりの点る店内は帰宅途中の人々で溢れていた。
「ありがとうございましたー」
店員の声を背中で聞きながら、そういえばアルバイトではそれなりの接客ができるようになったのにと、彼はカップ麺を物色していた手を止めた。
他人ならどうとでもできるのに、美奈子に対しては照れくささが勝るのか、結局今日も何も言えなかった。
今度会ったら言えるだろうか。仏頂面で立ち止まっている自分が、まさかそんな思春期めいたことを考えているなんて、コンビニの客は露ほども思わないだろう。
彼は夕食にするものを選ぶと、菓子類の並ぶ棚の前で足を止めた。
彼女に何か甘いお菓子を。
渡すついでになら、ただ「ありがとう」と言うよりもサラッと言えるかもしれない。
(……なんだって俺が、こんなことしてんだかな)
しゃがみこんでチョコレートやらビスケットやらを物色する彼が内心少しだけ楽しんでいることは、彼自身まだ意識していない。

20101016

兄祭の会場にしれっと投稿してきたもの:名前変換つきバージョンです。