負け戦



百夜の底

「高島」

呼び止められて振り向いた先には、氷室先生の姿があった。
特段悪いことをした覚えもなければ、制服の着方やら髪型に問題があるわけではない(と自覚している)ので、一体何の用だろうとわたしは先生のほうへ歩いていった。
窓から見える校庭には、むき出しの枝を伸ばした桜の樹が植わっている。
「何でしょうか」
「すまないが、昼休み中に課題のプリントを集めて職員室まで持ってきてくれないか」
「わかりました」
唯々諾々と従ったのは、わたしが反抗する意思も理由も持たなければその経験もないからで――いや、反抗するということ自体を知らないからに他ならないだろう。
とにかく、おおせつかった役目を果たすために休み時間中に席の近いクラスメイトを通じてそれとなく情報を流してもらうようにした。
「え、六限で提出だと思ってた」
「マジかよ〜……五限の選択科目の時間にやろうと思ってたのに……」
そんな落胆の声に混じって、プリントをみせて欲しいという申し出もちらほらと聞こえる。わたしとか、他の、いわゆる成績がいい真面目な子に対して。
要領のいい子は、購買の何某と交換条件だとかなんだとか言っているけど、わたしはたかだか数学のプリント一枚にそれほどの価値も意味も見出せない。
本当はこういうことはいけないのに、と思いつつ、先ほどと同じく拒否する術をしらないわたしは隣の席の派手な女の子に自分のプリントを貸し渡した。
もうすぐ四限が始まる。彼女はその時間にやってしまうのだろう。
返ってくるときは、つけた覚えのない皺がよっているのかもしれないと思うと、嫌な気分になった。
でもそれを、わたしは言う術も知らない。

「ちょ〜助かったぁ!雅、マジあんがと!」
「ううん、いいよ」
ふわふわカールした髪の彼女は、やや長い爪をしている。卵のてっぺんのようになだらかにカーブした先には、「危なそう」という苦言さえ届かないようだった。
彼女は藍色のカーディガンのポケットからチョコレートの包みを一つ取り出して、わたしにくれた。
「え、別に……いいのに……」
「受け取って!そんかわりぃ、また困ったときはよろしくねぇ!」
その上押し付けるようにして二枚のプリントを机の上に置くと、彼女は他のクラスの似たような女の子たちときゃいきゃいはしゃぎながらどこかへと去っていった。
見送った後姿に、没個性的であることが彼女たちのステータスなのだろうかと疑問に思う。つまり、みんな似たような格好。
自分だって彼女たちとは真逆の方向に没個性的なくせに。
二枚のプリントの皺を伸ばしていると、別のクラスメイトが次々にわたしの席にやってくる。
「おつかれー」
「あ、高島さんさ、問6の答えわかった?ちょい見して?」
「つーか並べてんの?えらいね?」
そういう性格なのだ。男女別、出席番号順に並べた方が先生もやりやすいんじゃないかと思うし。ちょっとしたコツさえ掴めば、こんなものはものの2分ほどで終わってしまう作業だし。
あっという間にほとんどの人が提出し終わったようで、わたしの席の周りはまた静かになった。
誰にも邪魔をされずに、こういう単調作業をしている時間が一番好き。手元だけを動かしながら、頭の中では全然別のことを考えている。
それは五限の授業のことだったり、放課後に寄ろうと思っている書店のことだったり、今日の大迫先生のネクタイの柄のことだったりする。
つまり、どうでもいいこと。

「……ん?」
全部を並べ終えて最後に確認していると、男子の9番がないことに気がついた。
前後の氏名を確認したところ、それは斉藤君と、瀬良君の間……。
「うわ……」
桜井琥一だ。
どうしよう。まともにしゃべったこともなければしゃべろうという気にもならないクラスメイトは、いつも先生方や生徒会長に追い掛け回されていて、授業中に見かけることは割と珍しいほうで、つまりその、親しくない以前の問題。
気が弱いわたしは彼が、怖い、のだ。
別に彼がわたしをどうこう思っているわけではないだろうし、クラスメイトであるという接点以上の接点がないのだからお互いになんとも思っていないはずなんだろうけど、苦手なものは苦手なのだ。
幸いにして席換えを何度か繰り返した今日という冬のある日でも、未だに隣どころか近くの席にすらなったことはない。
だから良く知らない。けれど良くない話は嫌が応にも耳に入る。
上級生ともめた話、余太門高校の生徒と喧嘩しているという話、そのほか……。
だからわたしの中で彼は、典型的な不良のレッテルを貼られていた。
そういう人に「数学のプリントを出してください」と言うのは、ほとんど自殺しにいくようなものなのだ、わたしにとって。
かといって、それをしないという選択肢はない。彼のだけが提出されていなかったら、まるで回収担当のわたしが彼を仲間はずれにしていじめているようなものだから――無論、彼をいじめようものなら返り討ちにあって30倍くらいの仕返しを受けそうなものだけれど。
ああどうか、振り向いた先の彼の席に、桜井琥一がいませんように。そうだったら、氷室先生には「探したけど見つかりませんでした」って言い逃れが出来るのに。
「…………」
彼は寝ていた。机につっぷして。
他のところで寝てよと的外れな非難を心の中で繰り返しながら、プリントの束を無為に何度も揃えていた。
誰かに頼む……というのは無理だろう。そういうことができそうな人はいないし、わたしの仕事を押し付けるのも気が進まない。
だから、行くしかないのだ。
プリントの束を抱きかかえて、眩暈がしそうな足取りで彼の席の近くに歩み寄った。
大きな背中が上下に動いている。窓際の席は日当たりがよくて、気持ちいいのだろう。
いやそういうことじゃなくて、
「さ、桜井君……」
起きない。
「あの、桜井君!」
体に触れるのは憚られるようで、ほとんどスペースの残っていない机の端をコンコンと叩いた。これで起きなかったらわたし、どうしようもない……いや、それでいいのかもしれない。もっと優しく起こせばよかったと後悔したとき、彼の両腕がゆっくりと動いた。
顔を擦るようにしながら上半身を起こす動作が、何か大きな肉食獣の目覚めのようだった。
「……あ?」
超低音の、これが多分“ドスの効いた”という声なのだろう。寝起きというのも相まって、かすれたような声は聞きようによっては色香すら感じるかもしれないけれど、わたしには畏怖の念だけが抽出されて届いた。
もう帰りたい。そんなことを考えている。本当にわたしは泣き出しそうだったのだ。
「あっ、ぷ、プリント……」
「…………」
「数学の……」
我ながら情けない声しか出ていなかった。萎縮しきっているわたしを彼はじろりと横目で見ると、めんどくさそうに一言呟いた。
「ねえよ」
「…………え」
「ねえんだよ。忘れた」
うるせえ女だな、とでも言われたような気分だった。
なんでわたしがこんな目にあわないといけないんだろうという理不尽さ、それから、やっぱり怖いという気持ちがごちゃまぜになって、俯いてしまった。
「あの、ごめん……なさい」
本当、なんでわたしが謝っているんだろう。
それでも何故かそう言わないといけないような気がして、次の瞬間には職員室めがけて走り出していた。
まるで告白を断られた女子のような行動だなと思った。
そんな経験は、ないけれど。

氷室先生には、彼が忘れたと言っていた旨を伝えた。わたしは果たして、よほどの顔をしていたのだろうか。いつもより心配そうな言葉をかけられてしまい、こちらが恐縮しきりだった。

六限、桜井君はいなかった。大方どこぞでサボってでもいるんだろう。
わたしはほっとしていた。
桜井君が氷室先生に叱られている様子を見たくはなかったから。
つっぱねられたのはわたしのほうで、彼だってわたしとは違って叱られたりすることには慣れているだろう。
でもわたしは人が糾弾されているのを見るのだって、気が滅入るのだ。
だからプリントを見せるし、長い爪も居眠りも注意する気にはなれない。
それが間違っているとか、悪いことだとか言うことは、本当はとても難しいことで、わたしのなかにはその明確な基準がない。
ふらふらとしているわけではないけれど、毅然として立っているわけでもない。
わたしはたぶん、渓流に投げ出されて呆然としている小さな子供みたいなものなのだろう。
その日の放課後、そんな風にぼんやりしながら考えていた。
彼はわたしのことを知っているのだろうか。名前とか、クラスメイトであるという事実だとか。

その後も何度か、古文のワークとか英語のノートだとかを集める役目がわたしに回ってくることがあった。
きっと真面目で大人しくて自我というような自我を持たないわたしは、そういう役目にうってつけなのだろうと自惚れ混じりの自嘲をしたこともある。
ただ、桜井琥一のノートやらを回収したことは一度だって、なかった。
毎回勇気を振り絞って彼の席を振り返っても、姿がないのだ。
その度にわたしの勇気を返せといいたくもなっていたのが二月ぐらいまでで、期末試験が終わった頃にわたしはようやく一つの可能性に気がついた。
ああ、ひょっとして彼は、本当はとても優しい人なのかもしれないと、気を遣ってわざと姿を見せないようにしているのではないのかと、そう考えるのは傲慢だろうか。
少し気を配ってみれば、男子たちとはそれなり以上に打ち解けているようだし、ごくごく一部の女子は臆せずに彼に話しかけたりもしている。いや――そうではなくて、事実臆する必要はないのかもしれない、本質的に優しい人なのだろうから。
あの低い低い声を背中で聞きながら、昼と夜とが時を同じくして到来することのない道理を恨みそうになることもあった。
もう言葉を交わす機会なんてものが来るのかはわからないけれど、伝えることができるだろうか。
わたしは貴方が嫌いだったわけではないのです、と。
いいや伝えねばならない、伝えたいのだと、強く感じた理由は定かではない。
明けぬ朝と更けぬ夜の間で、何かが零れ出でたような気がした。

窓から見える校庭は、ほころび始めた桜の蕾で薄桃色に染まり始めている。

20101225

もうちょっと甘酸っぱい感じを想定していたはずなのにほろ苦いになってしまいました。琥一の優しさは非常にわかりづらいといいです。