0.001秒の表情



朝、目が覚めて最初に思い浮かんだのは一番大好きな人の顔で、それがなんだかとても嬉しくて幸せなことのように感じてしまう。
今となってはもう中身も何も覚えていない、甘い甘い夢を見ていたせいなのかもしれない。
一つ寝返りを打って、うつぶせのまま目をこする。そんなことをしても何も思い出すことなんてないし、ただ頭がゆっくりと覚醒していくだけ。
ぼやけた枕の向こう側に、綺麗にラッピングされた小さな箱が見えた。
つやつやの包装を解いた後、あの人はどんな顔をする?
ちょっとだけ想像してみると、ほんのちょっとだけドキドキと、それからあったかい気持ちがあふれたような気がした。

今日は彼の誕生日。



なのに、どうやら今日のわたしってばツイてないらしい。
朝、昇降口前で待ち伏せても、いつまで待っても姿は見えなかった。
琥一くんも琉夏くんも遅刻の常習犯だから、ありえると言えばありえるのだけど、さすがに誕生日は……。
なんて考えてたのが馬鹿だった。
誕生日だろうが体育祭だろうがクリスマスだろうが、お構いなしに遅刻でもなんでもする、そういう人だもの。
小さな紙袋を抱えたまま、HRを終えて教室を移動する。
廊下の窓から見える曇天の空が更に気持ちを落ち込ませるようで恨めしい。
そもそもわたしと琥一くんのクラスは違うし、さらに今日はわたしのクラスがやたらと移動教室が多くて、休み時間に渡せそうにないから朝に待ち伏せしてたのに。
一時間目の生物のために理科室へ向かう道すがら、彼のクラスを覗いてみた。すれ違いざまに確認するように、そっと、すばやく。
背の高い彼の、よく目立つ大きな背中はなかった。
こういうとき、がっかりするべきなのか、ほっとするべきなのか、全然わからない。

一時間目:生物
二時間目:数学
三時間目:体育
四時間目:現国

二時間目と三時間目の間の、ちょっと長い休み時間は更衣室で着替えるために消費されてしまって、ならば昼休みに!と意気込んでいたわたしの目論見は、
「小波ー!」
大迫先生によって阻まれた。
「うえっ!?」
今すぐにでも駆け出したいのに、まるで襟首に釣り針でもひっかけられたように呼び止められて、転びそうになってしまった。
「大丈夫かぁ?」
「は、はい!」
ちょっとだけクラスが騒然として、大迫先生も笑ってる。
大迫先生のことは、すごく尊敬してるし大好きだけど、今日ばかりはちょっとだけ恨めしく思ってしまった。今すぐにでも飛び出して行きたいのに。
そんな顔をしているのがにじみ出ていたのかもしれない。先生は苦笑しながら、
「飯が終わってからでいいから、ちょっと職員室まで来てくれ。体育祭のプリント、今渡そうと思ったら忘れててなー」
あ、そうだった。
わたし、クラス委員なんてものになってたんだった。
「えと、あの、わたし……放課後じゃだめですか?」
「んー。先生午後からちょっと出張でなー」
スマン!
大迫先生に申し訳なさそうに言われて、これじゃわたしが観念するしかなかった。
「……わかりました」

ああ、せめて同じクラスだったらなあ。
なんて考えるだけでも虚しくなりそうで、広げたお弁当箱に向かってため息をついた。
同じクラスだったらとか、同じバイト先だったらとか、考えてもしょうがないことばっかり考えてしまう。会いたいときに会えないのが、心の底から残念でしょうがない。
琥一くん、今頃何してるのかな。
今日はいいお天気だし、屋上でお昼ごはん食べてるのかな。それとも食堂かな。学校に来てないなんてことは……。
「……ありうる」
みっともないけど、卵焼きを口の中に押し込めながら片手で鞄をまさぐって、携帯を取り出そうとする。
メールで確認、ていうか、それで約束取り付ければいいんだってことにやっと気がついてほっとしかけたのに、
「あれ……?」
カレンとミヨとお揃いの色違いのストラップには、指先がちっとも触れない。
「あれ?あれっ?」
ポーチにタオルに手帳に財布。鞄の中身を全部出しても携帯がない。
他の日ならまだしも、今日忘れるなんてツイてなさすぎる。
これじゃお祝いじゃなくて、呪いでもかかってるみたいだ。
しかもそうやって鞄の中身に気を取られていたおかげで、中庭を渡っていた琥一くんの姿に気付くのが遅れてしまった。
呼び止めようとしても、長身の影はすでに渡り廊下の屋根の下にもぐりこんでしまって、それにわたしがいるのは三階の教室だから大声で呼ぶのも憚られる。三階からでも気付いちゃうわたしの、決していいほうとは言えない視力のことはこの際考えないことにして……。
閑話休題。
これから走っていってももう追いつかないだろうし、それで間に合わなくって職員室に行くのが遅れたら更に時間がなくなっちゃうし、そうなったらプレゼントを渡すのもできなくなるし。
なんて考えてる暇があったら、追いかけるかご飯を片付けるか、どっちかしてればよかった。
お弁当を広げたまま窓ガラスにべったり張り付いて中庭を見下ろしているわたしの姿は、さぞ不気味だったに違いない。
結局職員室に行くのも遅れてしまって、それだけじゃなく五時間目の社会の先生からもお遣いを頼まれてしまった。
今日は見てないんだけど、朝のテレビの占いランキング、絶対最下位だったに違いない。


六時間目の英語の授業とHRが終わったわたしは、一も二も無く琥一くんのクラスへと走っていった。
ああどうか、帰ってませんように!

「琥一?あー、俺らの誘い断ってさっさと帰っちまったぜ?」
「えっ…………」
「なんかバイト、急に呼ばれたっつってたけど。今日は単車で来たって言ってたし、もう向かってると思うぜ」
琥一くんのクラスメイトの男の子たちは、息を切らしたわたしに何故か申し訳なさそうに説明してくれた。
バイトだなんて……。
がっくりと肩を落としてしまうわたしに、彼らは気を遣ってか優しく「じゃあな」と言葉をかけて、廊下へ出て行った。
どうしてこうなっちゃうんだろう。
今日一日、姿しか見れなかった。
携帯も忘れちゃったから、メールも電話もできなかった。
今から追いかけたって、バイクの速さに追いつけるわけなんてない。
「実はコレんとこ行ってたりしてな?」
「コレって?ああ、女?いるの?」
「しらねーけど」
追い討ちをかけるような声まで聞こえてきた。さっきとは違う男の子たちが、ヒソヒソ話のつもりなんだろうけどバッチリ聞こえちゃってしまっている。
彼女なんて――。
否定しようとして、自分が何も知らないことだけ思い知って、悲しくなった。
トボトボと帰る道すがら、わたしって琥一くんの一体何なんだろうって考える。
やっぱりただの幼馴染?それともただの友達で、幼馴染は"元"ってだけなのかな。
口うるさいって言われたことは何度もあるし、そんなわたしみたいに子供っぽい高校生なんかじゃなくて、もっと大人の綺麗な人が好きなのかもしれない。
琥一くんの隣には、もう誰かいるのかもしれないし。

不意に降り始めた通り雨と同時に涙が零れてきた。
プレゼントが濡れてしまわないように抱え込んで、わたしは帰路を急ぐのではなく、逆方向に走り出した。


好きって思うことだけで振り向いてくれるのなら、きっと今頃幸せになってるはずなのに。
人生なんてままならないものなのかもしれないって、妙に哲学めいたことすら頭の中に浮かんでは消える。
バスに揺られながらウトウトとしてしまって、今朝見た夢のことを思い出した。
中身なんて全然覚えてないのに、でも思い出すだけで幸せになれて、わたし、きっとこのプレゼントを受け取った琥一くんが喜んで笑ってくれたら、それだけでいいのに。


バスから降りたときには、通り雨は海のほうへと過ぎ去ったあとだった。
浅い水溜りを避けるように歩道を歩いて、わたしはスタリオン石油の近くのファーストフード店に入った。
なんというか、こういうことをしているだけである意味惨めなんだけど、窓際の席からは道路を挟んでガソリンスタンドがよく見えるから。
一旦家に帰って携帯だけでも持ってくればよかったって気付いたのは、オレンジのよく目立つ制服に身を包んだ琥一くんが仕事に精を出している姿を見てからのことだった。
アルバイト、本当だったんだって嬉しい気持ちと、やっぱりかっこいいなって感想と、考え無しにここまできちゃってどうしようっていう困惑が一気に去来して、声をかける勇気もなくて逃げるようにここに入ってしまったわけで。
単品でハンバーガーとアイスティーを頼んで、手もつけずにぼんやりと外を眺めた。
何時ごろ終わるんだろう。
トラックやバスの大きな影にときどき遮られながら、琥一くんはてきぱきと動き回っている。
ガソリンを入れて、窓ガラスを拭いて、清算して、道路に出る車を誘導して。
手馴れていて、やっぱり大人っぽくてかっこいいなって、俗な言い方だけど惚れ直しちゃう。
きっと『ありがとうございましたー』って言いながら、道路へと走り出した車を見送る琥一くんがお辞儀から顔を上げる瞬間、

「あ、」

目が、合ってしまった。

変な声まで漏れてしまって、隣の隣に座ってたお姉さんと、番号札5番にポテトを届けていた店員さんの耳目を集めてしまった。
でもそんなことどうでもよくて。
驚いて目を見開いている琥一くんが、一瞬、ほんの一瞬だけ嬉しそうな顔になって、でもすぐに仏頂面になって、ぷいと顔を逸らしてしまった、その一連の流れが目に焼きついて離れない。
ど、どうしよう。
どうしてわたしがこんなにドキドキしてるんだろう。
ちょっとだけ嬉しそうな顔してくれたってことは、琥一くんにとって少なくともわたし、迷惑じゃないってことだし、ひょっとしたら喜んでくれてるのかもしれないし、それってわたし、ただの友達とか幼馴染よりは特別に思ってもらえてるってことで。
あ、また目があった。
アイスティーのはいったプラスチックのコップを握り締めていた手をちょっとだけ振ってみると、琥一くんの唇が動くのが見えた。



「オマエこんなとこで何してんだ……」

呆れた顔の琥一くんがこっちに来てくれたのは夜の八時を回ったころだった。いつもより早いのは、きっと臨時だからだろう。
「待ってたの!」
「あぁ?」
「琥一くんが、お仕事終わるの待ってたの」
あの男の子たちが言ったことが本当なら、わたしのことなんかほっぽりだしてどこかに行っちゃうに違いない。けど、こうして来てくれるのは、やっぱり自惚れかもしれないけど、わたしのこと、ちょっとくらいは気にしてくれてるからだろうし。
待ってる間そんなことばっかり考えてたせいで、若干興奮気味のわたしに琥一くんは心底呆れているみたいだった。
「だからなんでまた、こんなとこで俺なんか待ってんだよ」
「なんでって…………誕生日だから、今日、プレゼント渡して、お祝いしたかったんだもん」
ヘッドライトが片方壊れた車が目の前を走っていって、琥一くんはそっちが気になるようにじっと目でそれを追っていた。
そんなのよりもわたしのこと見てよ。
なんて言う度胸はなくて、多分お互い照れくさくて黙り込んでしまった変な沈黙に耐え切れずにプレゼントの入った袋を差し出した。
「……おめでとう」

どんな顔、してるのかな。
顔を上げるのがちょっとだけ怖くて、ちょっとだけ楽しみ。
プレゼントが気に入ったかどうかは聞けるけど、わたしがここに来て嬉しかった?なんてことは聞けそうにないや。
今はまだ、今年の誕生日は、まだ。

20110522

大遅刻して申し訳ない!琥一くん18歳おめでとうございました!
title from OL