さよならストレンジャー



あのとき、危ないことをしていないと生きている気がしないと言ったのは、その場しのぎの悪い冗談だったかもしれないし、本心からそう思っていたのかもしれない。俺は誰かみたいに、自分のことがよくわかるわけじゃない。ねじれた位置にもう一人、俺の内心みたいな存在がいて、そいつはねじれたところから俺のことを見てる。俺のほうからはよく見えない。ねじれているから。多分俺の内心も俺のことは見えていない。
あのとき、あの日の昼休み、屋上の縁を歩いた。風が強い日だった。もしかしたらこのまま落ちていくかもしれないし、それならそれでいいのかもしれないなんて思っていた。絶対に落ちるわけじゃない、落ちたからって絶対に死ぬわけじゃない。死のう死のうと思ってるときほど死ねないもので、何も考えていないときに、それが何かわからないうちに食い殺されるのが、死ぬってことなんだろう。俺は時々そう思う。

あの日よりもずっと穏やかで、だけど冷たい風が吹きぬけていった。屋上に干されたシーツが、情けなくパタパタと煽られている。その中の一枚が時々俺の背中を掠める。掠めるというよりも、冷めたように叩いていると言ったほうが適切な気がした。
二月の午後はまだ寒い。病院のパジャマの上に大きなガウンを羽織っただけの格好じゃ、三月でもそう思うかもしれない。

今日は、晴れている。
風が強くて、俺は背中から押されているような気持ちになる。押されて進む先がどこなのかはわからない。進まなければいけないのか、流されるままであればいいのか、それすらもわからない。進まなければならないのだとしたら、何かに追い立てられてそうなるべきではないと思う。
地面と平行に向けていた視線を空へ移すと、髪の隙間から鰯雲がざわざわと流れているのが見えた。
あの日は、晴天だった。


『どうしてこんなことするの』
泣きそうな顔、してた。ひょっとして怒ってたのかな。どうして怒るんだろう。
俺とあの子はただの幼馴染で、しかも何年も離れてたんだ。どうというわけもない相手のはずなのに、なんであんなふうに感情をむき出しにするんだろうか。みっともない。
そんなものをさらけ出してしまったら、何だって筒抜けになっちゃうだろ。
コウもコウだ。
力いっぱい殴ってさ、自分の手も痛くなったんじゃないのか。
なんで、なんて考えてる俺と、ねじれたところの俺が一瞬交叉した。俺を怒ったのは俺を大事にしてるからっていうのは、それくらいはわかるけど、大事にされてるって思いたくないから、そういうふうにひねたことを考えるんだって言われた。もちろん頭の中で変な存在と会話するほどイカレてるわけじゃないから、それは言われたっていうか、そのまま俺が思ったことなんだけど。

俺はゆっくり流れていく雲の影に飲み込まれた。
遠くに鳥が飛んでいる。


俺だけが特別じゃない。あの子は誰にでも優しくて、コウは皆に慕われている。
俺だけが大事にされているわけじゃない。ひょっとしたら俺に向けられる厚意なんて、ほんのお情けみたいなものかもしれないじゃないか。
そしてほんのお情けかもしれない厚意は、もしもお情けだったらいつか消えてしまう。だったらそんなのは最初からいらない。
なんだってそうなんだ。いつかなくなっちゃうものを、いつまでも欲しがったり大事にしたりするのは、本当はとても怖くて、勇気のいることだ。俺にはそんなこと、できやしない。最初から何もなければいい。俺だって、最初からいなければ、いなくなって悲しむ人のことを考えなくて済んだんだろうに。そんな人、いるかな?
あの子とコウと、二人とも、俺が死んだら悲しいかな、泣くのかな。
頭がイカレた弟だか幼馴染だかがいなくなって、せいせいするんじゃないかな。
そう考えて、胸がむかむかしてきた。
絶対にありえないことを、こうやって考えて、何が一番苦しいのかって。それは、アイツらを裏切ってることに他ならないからだ。

松葉杖を柵に立てかけて、ちょっと歩こうとしてみた。
杖をついていた逆の足に体重をかけると、体ががくりと崩れた。痛いとか、感じなかった。だからなおさら不思議だった。
どうして痛くないのに歩けないのかな。
倒れこんでしまった体を、そのまま屋上に横たえた。コンクリートが冷たい。
冷たいって、それはわかるのに。
どうして俺の体は、頭は、痛いことだけ除けちゃうんだろうか。
仰向けになって手のひらを、腕を、見つめた。ぐるぐるの包帯は、大げさすぎるように思える。
同じように額にも巻かれた包帯の、かすかな段差を触ってみた。
この下に何があるのか俺はわからない。痛みを覚えるということがないから。
だからいつもこういう風に、ある意味客観的にならないと程度を確かめることができない。俺って本当は生きてるんだろうか。俺っていう、独立した人間はちゃんとここに存在しているんだろうか。俺にはわからない。

誰か、俺が生きているのを証明して。







しばらく、ごうごうと耳鳴りのように響く風の音を聴いていた。
時々それに混じって、大きな怪鳥がはばたくような、シーツの揺らぐ音がしていた。

「琉夏くん、何してるの?」

目を開けると、真っ白な光の中にいた。
段々と目が慣れてきて、美奈子が俺の頭の近くに座り込んでいるのがわかった。

「風邪ひいちゃうよ?」
美奈子は白いひざ掛けを、俺の上にかけようとしてくれる。
されるがまま、俺は口を開いた。空が、色を取り戻してきている。
「夢、見てた」
「うん?」
ふん、と力を入れて頭を上げると、美奈子はそれを手伝ってくれた。のみならず、その小さな膝、というか太腿の上に俺の頭を乗せてくれた。
見上げた美奈子がどんな顔をしているかもわからない。
綺麗な色の髪が、逆光の中で黒くなってふわふわ揺れていた。
「夢の続き、見てもいいかな」
「ここで?」
美奈子の指先が、額の包帯に触れないように気をつけながら、俺の頭を髪を梳いていった。
「お前がいてくれたら、きっと何も心配することなんかなくて、それは本当に、痛みなんか感じない世界なんだ」
鰯雲はどこかへと消えてしまっていた。
快晴の空に感謝している。俺が変なことを言って、美奈子を困らせたり怒らせたりしても、あの、悲しくなる顔を見なくて済むから。
「痛いの?」
嘘だ。見えないだけで、美奈子は結局酷い顔をして俺をじっと見つめてるに違いない。
そして俺はそんな顔を見たくないから、曇り空でも嵐の夜でも、美奈子の顔から顔をそらすしか出来ないんだ。
「痛くないよ。平気だ。病室に戻ろう。オマエが風邪をひいちゃ、ダメだから」
美奈子の人差し指は、俺の唇に触った。
馬鹿みたいな文言を並べ立てた俺の唇を咎めるように。

「今日は、とても天気がいいから。雨が降る心配もしなくていいから」

ここにいてくれるの?
俺はここにいてもいいの?

「琉夏くん、私の名前を呼んで」
穏やかな声だった。きっと穏やかな顔、してる。
もうあのときみたいに泣きそうな顔も声もしてない。
「美奈子」
オマエの名前を呼べるって、本当はすごく幸せで、尊いことだったんだ。
「うん」
「美奈子」
「うん、」

オマエが俺のことを嫌いでも、俺は多分オマエを好きになってたけど、俺のことを好きなオマエは、一番好きだよ。

20100930