distress



「あー!これ、いい感じじゃん?似合いそう」
「っていうか絶対似合う!」
「ね、着てみない?」


ばちん、と音が出そうなくらい勢いをつけて目を開けると、真っ白い壁が目の前にあった。うっすらと浮かび上がるような草花の模様は、夢の中で見たあのTシャツとよく似ていて――
夢だとわかった瞬間はいつも、どうして私に理性というものがあるのかと自問させ、そしてどうして我に返ってしまったのかと酷く後悔させる。偏頭痛のようにじくじくと痛む何かを抱えたまま、目をきつく瞑って必死に抵抗しているふりをしてみても、朝日は抗えないだけの照度をもってして私の網膜を刺す。
もぞもぞと寝返りを打って、部屋のドアの方へ顔を向ける。部屋の中に白い朝日が差し込んで、雲間の天使の階段のようだった。


「青……うーん……」
机の上に広げられた無地のノートには、同じようなトルソーもどきばかりが並んでいる。真っ白い、四肢のないボディに着せられたのは細部だけが微妙に違う、細い肩紐に胸下の細かなギャザー、膝上丈のワンピース。
決めあぐねているのは色だった。
夢の中だとサファイアのような青で、その色で塗りつぶしてしまえばいいのにさっきから色鉛筆の青を握り締めたまま私の指先が逡巡している。
きっと青は、しっくりきそうな気がする。ためらうのは夢を現実にしようとしている自分のことをやっぱり馬鹿なんじゃないかって、そう思うから。
夢の中で私に手を差し出してくれた彼が、“こちら側”でも手を差し出してくれるなんて限らないのに、なのに私は、青いワンピースを着ればきっと、なんてことを考えている。
これが馬鹿馬鹿しい以外の何と言えるだろうか。
「あれ?麻紀、何してんの?」
隣の席のレーコが興味津々の顔でノートを覗き込んできたので、なんとなく片手でページを隠してしまった。
「……んー、文化祭の」
「ああ、手芸部のね!あ、隠さなくてもいいじゃん」
「だめ」
レーコが私の見た夢のことなんて知ってるはずもないのに、酷く恥ずかしくてノートを閉じそうになる。
「ケチ」
頬杖をついたレーコは、クラス展示のアンケート用紙の余白にらくがきをし始めた。
私も生徒会のレーコもクラス展示にはあまり関われないから正直なんでもいいやって感じで希望の展示に丸をつけている。
他のクラスメイトは教室の真ん中でけっこう盛り上がっているみたいで、その中心にいる人物はメンバーの中でも一番やる気に満ちているようだった。
彼が、明るくて人の中心にいることはいつものことだ。そしてそれを遠くから眺めている私も。
どうやら話がまとまったらしく、彼らは雑談をしながら担当グループ分けを開始した。
もしも私が手芸部じゃなかったら、今頃あの輪の中に入っていられたのだろうか。
そよいだ風が揺らす、窓の外の枯れ木を一瞥した後、色のないノートに散らばった消しゴムのカスをはらっていると、視界に影が落ちた。

「ピンク!」

「…………へ?」
私が見上げたのと同時によく通る声が聞こえて、目が合うと笑いかけられる。
「いや、女の子なら絶対ピンクっしょ?カーワイイワンピにぴったり!」
「え、と……」
どうしよう。
こうやって新名君と面と向かうのは初めてかもしれない、とか、夢の中でこんな感じだったな、とか、そういうことばかりぐるぐると頭の中に浮かんで、言葉が出なかった。
レーコもぽかんとしているだけで助け舟を出してくれない。
「麻紀ちゃん手芸部っしょ?ピンクのワンピ、文化祭で着てんの俺超見たい」
ニコニコ笑ったままの新名君に、私は一体なんと返事をしたのかよく覚えていない。
今日は秋なのに暑い気がすると思っていたような気もするし、したり顔のレーコに「ファッションショーが楽しみだわねえ」だの、言われたような気もする。
どちらにせよ、その日私は商店街の手芸店で薄桃色の布を買ってしまった。
夢に反して、どこまで夢に肉迫できるのか。そんなことを考えながら。

Tシャツに刷る図案を考えたりしている横で、文化祭前の教室は浮き足立っていた。
生徒会から予算を貰ってきて、それを会計担当の子が振り分けて、買出し班が複数人連れ立って出掛けて、大半のメンバーはアクリル板を使ってディスプレイケースを作って。
その真ん中にいるのが新名君で。
大体明るく笑いながら、時折真剣な顔をして、ああ、クラス展示に一生懸命なんだなってひしひしと伝わってくる。
誰も見ていないかもしれない彼のそんな顔を盗み見ることができたのは嬉しく、けれどその中に入る資格のないことが辛い。
あの時のこと、話しかけられた時のことをどうして覚えていないのかと、また偏頭痛のような鈍い痛みを抱えたまま、それでも私は恋をしていることの楽しさを十分に、味わっていた。

「出来た……」
文化祭の三日前。
胸下にギャザーをたっぷりよせて、裾にはレースの縁取りをして、お揃いのコサージュも作った。
部内で一番に仕上がった私は、部長からクラス展示を手伝ってもいいとの許可を得たので、いそいそと教室へ足を向けていた。
ひょっとしたらこれがためにブーストアップしていたのかもしれないと思う。
当日、見に来てくれるのかな。ああいう風に言ってくれてたんだから、きっと来てくれるような気がする。
そうだ、彼は私を名前で呼んでくれたんだ。地味で冴えない私の名前を知っていてくれた。ただそれだけ、それだけで、足取りだって弾むんだ。
褒めてくれるかな。綺麗とかかわいいとか、そんな言葉じゃなくてもいいから、私ががんばったこと、少しでも認めてほしい。
私がいつも新名君を見ているその十分の一もなくていいから、ほんのちょっとだけ、心の端を私にください。
あちこちで準備を進めている校舎中が浮き足立っているけれど、私だって三日後が楽しみでしょうがない。
自覚できるほど昂揚した気分で教室に入ろうとすると、聞き覚えのない高い声がその中で弾けた。

「うわあ……本格的だね!」
誰だろう。クラスの子じゃない。女の子の声。
「企画立案全部オレ。ほめて」
楽しそうな新名君の声が、ざわめきに混じって聞こえる。
「うん、すごいよ、新名くん」
「じゃあハグでその感動を表現……」
「調子に乗らない」
「はい、ゴメンなさい」
引き戸の取っ手を掴んだ手のひらに汗が滲んでいる。
とても親しそうに話している彼女の後姿を見ていられなかった。新名君は彼女の顔を見ていて、私のことになんか、これっぽっちも気がついていないようだった。
きっとこれ以上ここにいたら、見たくもないものや聞きたくないものを受け入れる羽目になる。
それがわかっているのに、私の足はこれっぽっちも動かなかった。心臓だけが馬鹿みたいにどくどく跳ねて、段々頭が痛くなってくる。
クラスメイトと軽口を叩き合う彼はやっぱり眩しくて、纏っているようにも思える光のヴェールが段々ぼやけていった。
私、何をしているんだろう。
「なあ、新名。ところで、その人だれ?」
「オレのカノジョ。だから――」
本当に、何がしたかったんだろう。



『只今より、手芸部員によるファッションショーを始めます』
裾のレースが一箇所だけ曲がってるのを指先でつまんでなおしていると、ちょんちょんと肩を叩かれた。
「――青、じゃん?」
生徒会の腕章をつけたレーコが、部隊袖で怪訝な顔をしている。ステージイベントのタイムスケジュール管理のためにここにいるのだろう。
レーコの言葉がなんだかいびつに聞こえたのは、彼女も私も連日の準備と今日という本番の忙しさのためなのだと、そう思いたかった。
「うん、青なの」
そのときの私は一体どんな顔をしていたんだろう。レーコの顔は暗がりでよく見えなかったから、きっと私の顔も見えなかったに違いない。
そのレーコの手は私のほうに伸びてきて、けれど私はそれを気づかないフリをしてすり抜けた。
「行ってくるね」
履きなれない高い踵のブーツで転ばないように、それだけに気を配っていようと思っていたのに。
決して豪華とは言えないステージだった。もう少しどうにかならなかったのだろうか。
スポットライトがもっと明るかったら、私はもうこれ以上見たくもないものを見なくて済んだのに。

20110228

文化祭イベントを二年目に見たような記憶があるんですがわたしの記憶力ほど頼りにならないものはないのでこれも捏造です。