おんがくのじかん



まだほとんどの生徒が残っている放課後の校舎を、音楽室へ向かう。途中ですれ違う生徒には目もくれずに。
また4月が来た、知らない顔が増えていく。そのくらいのことが考えられる程度には、周りが見えてきたようにも思う。去年はそういうことは、比較的どうでもいいことだった。
……あいつのおかげ、というかあいつの所為だと思う。妙なところで妙なタイミングでばったり出くわしたり、妙なことを喋ったり。それから色んなところに連れ回されたり。碌なことないのに、でもまあいいかと思ってもいる。実は結構楽しんでいるんじゃないかって紺野に言われて、言葉に詰まってしまったのは先週のことだ。

『今日の放課後、音楽室に行ってもいいですか?』
昼休みにメールが入っていた。あいつ、小波からだ。ごく稀に、あいつは音楽室を覗きに来る。そういえば出会ったのもあいつが覗いてたのがきっかけだったか。
最初のころは気が散ると言って追い出していた。が、あいつはドアに隠れてこっそりと聴いていた。それに気がついたのが大分経ってからだったっていうのが、なんだか悔しい。
『別にかまわない』
冬になる前ぐらいから、俺はあいつに何かしらを言うのをやめた。どうせ言ったところで無駄だってことがわかったからだ。それから調子に乗って「二つのアラベスクが聴きたいです!」だの「ベルガマスク組曲っていいですよね」だの、図々しい注文ばかりつけてくる。もちろん一つとて応えてはいない。大体楽譜も持ってきていないのだから、まともに弾けるわけがない。
しかし今日みたいに前もって確認されるのは初めてだ。何かあるのだろうかと訝しく思っていると、更にメールが届く。どうでもいいけどコイツ、メール打つの早いな。
『助かります!』
何が助かるんだ?

「……音楽室に“行っても”いいですかって聞いたから、俺は構わないって言ったんだ」
ブレザーを脱いで白いカーディガン姿になった小波は、俺の前で手を合わせている。
「そこをなんとか!」
「うるさい。なんで俺がお前の練習に付き合わなきゃいけないんだ」
『音楽の授業で歌のテストがあるんです!私、楽器なら音を正しく出せるけど、歌うのが超ニガテなんです!』
楽器が正しい音を出すのは当たり前だ。それにお前の手柄でもない。
ピアノの蓋を開けながら無碍にあしらうと、小波はほとんど泣きそうな顔で更に追いすがった。
「設楽先輩〜〜〜!」
が、俺は無視する。
「先輩だけが頼りなんですよ〜〜〜!!」
「なんでだよ。それ以前に、俺は声楽なんて碌にやったことないから何もできやしないぞ?」
「そんなたいそうなことは求めてませんよ」
なんか腹が立つな。
「あ、いやその、伴奏してもらえたら嬉しいだけです……」
我ながら、すごく贅沢だと思うんですけど。小波は首を俯き気味に傾げながら言った。
「本当だな」
「う……ですよね……やっぱり……」
ページを開いて持っていた音楽のテキストらしきものを、小波はぐっと握り締めた。なんだよ。しょぼくれて。これじゃまるで俺が悪者じゃないか。
「……見せてみろ」
「へ?」
スツールに腰掛けて手を差し出すと、小波はぽかんと口を開けた。みっともない。
「それだよ」
「あっ、あ、はい!」
我に返った小波が慌ててテキストを俺に向けて差し出す。皺が寄ったページには、赤やピンクでたくさんの書き込みが施されている。
「お前……なんで階名書きだしてるんだ?」
歌うのなら、メロディーをドレミで書く必要なんてないだろう。怪訝な顔をして見上げると、小波は「かいめい?」と聞き返してきた。そんなことも知らないのかと言ってから説明してやると、
「えっと、あの……声で正しい音が出せないので……家で鍵盤ハーモニカで確かめてるんです……」
お恥ずかしい限りです。と小波が言うのにあわせて俺は笑ってしまった。鍵盤ハーモニカでメロディーの確認、きっとコイツの鍵盤ハーモニカにも、鍵盤に一々ドレミがふってあるんだろう、油性ペンか何かで。
「笑ってるし……」
「わ、笑うだろ……お前……いい年して鍵盤ハーモニカって」
「た、楽しいですよ!鍵盤ハーモニカ!」
ムキになっている小波の顔が更に笑いを誘う。譜面置きに手をかけて笑ったままの俺は息苦しさにしばし悶えていた。
「わかったよ」
「へ?鍵盤ハーモニカのよさが?」
なんでそうなるんだよ。
「練習だ。少しくらいなら付き合ってやる。5時半までだ」
「5時半って……!あと25分しか――」
「何だ」
「いえっ、十分です!ありがとうございます!」

小波の歌う曲は、滝廉太郎の『花』だった。
「これ、曲名“春”って思っちゃいませんか?歌いだしが“春のうららの 隅田川”じゃないですか」
「思わない」
「……私だけなのかなあ」
だろうな。
テキストの譜面は伴奏が載っていなかった。いつか聴いたピアノ伴奏を思い出しながら弾いてみる。わかりやすい曲だから特に苦労せずに一通り弾き終わると、小波が目を見開いて驚いていた。
「すごい!なんで楽譜がないのに弾けるんですか!」
「こんなのコードがわかれば簡単だ」
「コード?」
ああもう面倒くさい。
「お前……」
「ああっ!はい!練習します!歌います!」
わかればいいんだよ。さすがにちょっとは聡くなってきたみたいだなと含み笑いしながら、一回目の練習を始めた。
小波はところどころで音を外すので、その度に笑いをかみ殺すのに苦労した。なるほど、確かに歌が苦手というだけはある。
「……ふー」
疲れたのかなんなのか知らないが、小波は小さくため息をついている。俺は小波から鉛筆を借りて、譜面に丸を一つずつ付けていった。
「なんですか?それ」
「お前が音を外したところ」
「うわ、そんなにあるんですか……」
がっかりというか、愕然と言うか。顔をしかめた小波はそんな印象を与えた。
「そんなにあるんですか、ってことは、お前どこを外してたかもわかってなかったんだな」
「そうかも……」
「かもじゃないだろ」
「う……そうです……」
譜面を覗き込んでいた小波が姿勢を戻した。まるでアドバイスを待っている生徒みたいだ。
「とりあえず外していたところを練習するくらいなら、お前一人でもできるだろ」
「はい!……って、もう練習終わりですか?」
時刻はまだ5時15分だ。
「今のままじゃ、何回合わせたって一緒だろ。俺も伴奏の練習するからお前ちょっとその辺で歌ってろ」
「えー……」
「えー、ってなんだ」
「だって……先輩と一緒に練習したほうが楽しいのに」
「は?」
心底残念そうな顔の小波に、俺は心底不可思議な顔をして返した。
「一人で歌うのって寂しいじゃないですか」
「それは……まあ……」
わからないでもない。この曲は二部もしくは三部合唱用だし、ピアノみたいに単体で完結できる楽器と違って唱歌はそれだけでは味気ないものかもしれない。歌ったりしないからわからないが。
「でしょう?」
「いや、お前練習しに来たんじゃないのか」
なんだか俺のほうが他人の練習に真面目に取り組んでいる気がする。
「だから一緒に練習しましょう?きっと、楽しいです。っていうか、さっきのもすごく楽しかったです」
にっこり笑った小波は、一体何がしたいのかわからない。ただ、昔通っていた音楽教室で『音を楽しむと書いて音楽』とかなんとか、初老の講師が言っていたのを思い出した。上手い下手を抜きにしてただ楽しむなんてのは小さい子供だけの話だと、俺は割りと早い時期から人に言われるまでもなくそう思っていた。
まあでも、鍵盤にドレミを書くやつが相手なら、幼稚園児レベルの“音楽”でもいいのかもしれない。
「……なら、俺がメロディーも弾くから、それを外さないように、今度は歌ってみろ」
手首を軽く振ると、小波はぱあっと顔を輝かせた。
「はい!」
こんなに楽しそうに歌ってるやつがいるなら、多少音が外れてても滝廉太郎だって喜んでいるだろうな、なんてことを考える。
今度は右手でメロディー、左手でコードを弾きながら小波の歌に合わせた。案の定、最初から上手く歌えるはずがなく、何度も何度も途中で止まっては訂正を繰り返した。
「はーるのー、うらーらーのー」
「違う、こうだ」
「……うらーらーの?」
結局、小波は6時半までかかって一通り歌えるようにはなった。外しまくっていたのから考えれば大いなる躍進だが、それに付き合った俺もかなりすごいと思う。
「よかった!これで人並みに歌えるようになりました!」
本当に嬉しそうに笑う小波は、テキストを鞄に仕舞いながらハミングしている。
「俺に感謝しろよ」
「してます!ほんっとうに、ありがとうございました!」
「こんなに時間かかったしな」
恨みがましく言うと、小波は一瞬で笑顔から困った顔になる。いつも思うけど、こいつの百面相は見ててすごくおもしろい。
「あう……この埋め合わせは……ええと……あ!今度の日曜、お花見行きませんか?」
「はあ?」
「この曲、お花見に行きたくなるじゃないですか」
「ならない」
「……これも私だけかな」
だろうな。
「まあでも、花見自体は行ってもいい」
「本当ですか!?」
「ああもううるさい。ちょっとは静かに喋れよ」
「すみません……でも、楽しかったですね、今日」
夕陽が差し込んでくる窓に持たれて、小波が微笑んだ。楽しかった、のだろうか。俺が黙っていると、小波は繰り返して何度も返事を催促してくる。
「……まあ……たまにはな」
正直、時間が経つのを忘れていた。俺の言葉を聞いた小波は満足そうに笑う。
「お花見も楽しくなるといいですね」

20100828

なんだかんだで先輩は甘やかしてくれそうな気がします。紳士だもの!