雪は踊っている



雪は踊っている。
誰もいない自習室はキンと冷え切っていて、電源を入れてまもなく温風に当たろうと私は窓際へ歩んだ。
まだ、人工的な風は冷たい。机も椅子も、窓の桟も。指先でなぞったガラス窓が、わずかに曇った後に湿り気を帯びた。
スケッチブックを広げるでもなく、何をするでもなく椅子に腰掛ける。何か目的があってこの教室に来たわけではない。
昨日はセンター試験だったらしい。
美大に進路が決まっている私を含め、一部の生徒はそれを受けていない上に今日が実質的な最終登校日なのだ。
受験ムード一色だった今までもそうだったけれど、自己採点でピリピリしている教室が息苦しくてここへ逃げ出してきただけだ。他の、受験から開放されている面子がどうしているのかは、知らない。
勝手に暖房をつけているのは、誰かに叱られることだろうか。呼気で指先を温めながら、また窓の外を見た。雪のかけらが、天に昇っているような錯視をした。

部屋がゆっくりと暖まる間も、学校の敷地内は白く塗りつぶされていった。
ああ、ここからはすべてが見通せる。歩いている生徒も、凍えた木の枝も、眠る花壇も。
あの中庭のベンチでお昼ご飯を食べようと、ほとんど毎日思っていたのに一回もできていない。美術準備室の掃除も、やろうやろうと皆で言っていたのにできていない。夏休みに忍び込んで肝試し、って言ってたのも、結局見つかって未達成。
私はそれらのくだらない後悔を置き去りにして、一ヶ月半の後に卒業してしまう。
この、冷たい椅子が自らの体温で温まる感覚も、誰もいない自習室を独り占めしている優越感も、今日でおしまい。
だからと言って感傷に浸っているわけでもなかった。
ただ漠然と、だだっぴろい真っ白なカンバスの中に放り込まれたような虚無感に包まれ、私は雪の舞う様を眺めていた。

緩やかな廊下の寒気を伴って設楽がこの教室に入ってきたとき、彼は何を言うでもなかった。
別に親しくはない。どういう因果か三年間同じクラスではあったけれど、それだけ。
それに、音大に行く設楽と、美大に行く私が同じクラスというのも、割とありそうな話ではあった。
向こうも向こうで、きっと三年間同じクラスの女だと、それくらいの認識しかしていないのだろう。なんせ"あの設楽"だ。興味関心もない人間の名前だって覚えているのか怪しい。
私の知る限りでは、その興味関心の対象になっているのは紺野君ぐらいだ。
そう、私だってその程度にしか、設楽のことを知らない。

「ねえ」

口を開いたのは私だった。
どうしてそんなことをしたのか、口に出した瞬間に苦いものがこみ上げてくるような後悔を覚えた。
「何」
わずらわしいというわけでもないが、かといって好意的でもない声音だった。それでも無視されなかった分マシだろう。一年の頃なんか酷かったんだし。私に対してではなく、彼をとりまくすべてに対して彼は無機的な反応だった。
珍しいと言っていいのかわからないけれど、多分設楽も明日から学校に来なくて良くなるもんだから、平素よりは機嫌がいいに違いない。
「そこに座ってよ」
三つ前の席を指差すと、設楽はすんなりと従ってくれた。
よくよく考えなくても自習室に立ちっぱなしでいる人間なんていないだろうし、設楽だって今そこに座ろうとしていただけなのかもしれない。
ただ、彼が私のほうを向いて座ってくれたのは意外だった。
「で?」
「そのまま」
鞄を隣の机に放り出した設楽が窓の縁に肘をかけてかなり気取ったポーズをとっていたから、その場の思いつきで設楽をモデルにしてやろうと思っただけだ。
私がスケッチブックをパラパラと捲り始めると、設楽はあからさまに不機嫌そうな空気を出す。
桐生、おい」
「私の名前知ってんの?」
顔を上げると、案の定眉をひそめた顔の設楽と目が合った。
「バカにするな。人の名前くらい覚えてる。ましてや三年間同じクラスなのに知らないわけないだろ」
一気に言い切った設楽の言葉に、私はある種の感動を覚えていた。
「ははぁ〜。ありがたきしあわせ」
机の上に額を寄せてふざけてみせても、設楽は何も言ってくれなかった。
けれどそのおかげで、私も設楽も距離感をつかめたような、そんな感覚が一瞬だけ走った。
乾燥のせいか暖気のせいか、設楽は襟元に指をつっこんで、鎖骨の上の辺りをかいていた。長い指よりも、ちょっと上向きに上げた顎の骨が、形が綺麗だと思った。
「いや、そうじゃない……。お前は俺を描こうなんて、そう思ってるんじゃないだろうな」
馬鹿げた質問だと思った。
今度は私が逆襲する番で、ちょっと口角を上げてみせた後に、プラスチックのケースの中から鉛筆を取り出した。
こっちだってバカにしないでほしい。仮に設楽が部屋中をうろうろ動き回っても、スケッチの5枚程度はできる。どうとでもするがいいと、半ば挑戦的な態度をしていたものの、設楽はそこまで私を見くびっていないらしく、それとも単に億劫だったのか、そこから動くことはなかった。

時折風が窓を揺らせば、二人は同じタイミングで外を見遣った。
それが何度も続くと、まるで飽いたかのように反応することもなくなった。
私は余白で鉛筆の先を調節し、柔らかい芯を無為に浪費する。
設楽は暖気のせいかあくびをかみ殺すような息遣いをし、それは私の注意を引くのに十分だった。

「私にはねえ、夢があるのよ」
キング牧師ですかとつっこみを入れたくなったのは口にした私のほうだった。設楽は、何も言わない。
「もう十年もすれば、引く手数多な絵描きになる。私は紙も、布も、壁も、カンバスを選ばない、何だって私の色に染めるのよ」
28歳の私。大人になっていると信じたい未来。
「そして設楽は世界中を飛び回るピアニストになってるのよ。CDとか出しちゃってさ。ときどき日本に、なんたらコンクール最優秀賞の、って肩書きをひっさげて帰ってくるのよ」
燕尾服の設楽なんて、想像できないけどきっと、似合うんだろう。
「そんでね、どっかのテレビ局だか新聞社だかが特集を組むのよ。あ、設楽だけのじゃないよ。私と設楽。"二人ははばたき学園の同級生ですよね"とか、インタビューされちゃってさ」
そこで顔を上げると、設楽は窓の外を見つめたままだった。口がへの字に曲がっているのは、きっと呆れているんだろう。
ちょっとだけ悔しかった。ちょっとくらい仲良くしてくれたってソンはさせないのに。
「――そいで設楽が言うわけです。"ええ、何の因果か三年間同じクラスで" いや、そのころ覚えてるのかな。……まあ、いいや。で、私は答えるのよ。"実は初恋の人でした"って」
なるべく表情を崩さないまま、嘘だけを貼り付けた顔のまま、私だって窓の外を見つめた。
設楽が振り返ったような気がしても、確認するのが怖かった。
「"でも今ではいい思い出です。ほうら、私にはかわいい七つの子"」
どの口がそんなことを言い出すのか、段々自分で腹が立ってきていた。

外は吹雪いている。
また、風が窓を揺らした。いっそう強く激しく、校舎全体が揺れているように。

「"そんなに子沢山なのに最前線で活躍している桐生さんには頭が下がります" とでも答えればいいわけか?」
それは私が私の人生で、唯一触れることの出来た、設楽の精一杯の強がりと公明と慈悲だった。
卒業。ああ、卒業してしまうのだ。
目蓋の裏で桜の花弁が天に舞い上がっていく。
誰も止められない、ただただ眺めているだけの私たち。
まだ猶予があるはずなのに、私の涙腺は設楽に破壊されそうだった。
「――うん。ありがとう」
そっと目を閉じたのと同時に、何かが震える音がした。

『迎えが来たから』
それだけ言い残して、設楽は教室を出て行った。さよならも言わず。
大きな黒い車が、すべらかにロータリーを一周しているのが見えた。
鈍色のマフラーを巻いた設楽の後姿も見えた。
彼は振り返らず、私はその背中に胸のうちだけで懺悔をする。何もせぬままに過ぎ去っていく日々を悔いることはなけれど、その日々それ自体に許しを乞うた。
開いたままのスケッチブックは、これまでの日々と同じに真っ白なまま、何も描かれていない。
私は描くことができなかったのではなく、自発的に描かなかったのだと欺罔すればするほど、指先が凍えていった。

窓に額をつけて、目蓋を閉じれば感覚は鋭敏になる。
暖房の音が聞こえる。
湿り気のある呼気を感じる。

雪は踊っている。

20110301

The snow is dancing ( from "Children's Corner") / Claude Achille Debussy