悲しみの所在



WORLD'S END SUPERNOVA

「色々、考えたい」

トリッシュ・ウナは、頭に乗せた帽子の広すぎるつばを片手で引きおろしながら、誰にも聞こえない程度の声量で呟いた。どこから調達したのだろうか、どこの店にももはや売っていないようなクラシカルなワンピースがよく似合っている。濃いグレーに白いパイピングのワンピースは、彼女なりの別れの惜しみ方なのだろうか。すでに死んでしまった、彼らへの。

「そうするといい。もう誰もアンタを追いかけやしない。………命を狙われることも無い」

水平線の彼方からトリッシュのミュールに視線を移し、ジョルノ・ジョバァーナはトリッシュと対照的にはっきりとした口調で告げた。ただ、最後だけは彼なりに思うところもあってかためらいがちなため息のように消え入りそうな台詞だった。
古い金具が軋むような泣き声の海鳥が何羽も頭上を羽ばたいていった。風もない曇天の空にゆったりと身を任せて流れるように、静かに。
トリッシュは目深に帽子を被ったまま、空を見上げた。軋んでいるのはなんだろう。トリッシュの脳裏にかすかに、思考と呼べるものが飛来したとすれば、それはほんのささやかな一瞬に過ぎなかった。ジョルノのこれからだとか、自分のこれからにすらあまり考えも回らなかった。父親から逃れていたときは全く気にしていないというほどだったのに、いざ全てが終わってしまうと――
終わったのだ。終わってしまったのだ。あの彼女は何ひとつ知らずに終わりを受け入れなければならなかった。何一つ理解する間も無く、受け入れなければならなかった。
とりとめも無いことに意識を奪われながら、トリッシュは思ったことを口にしてみた。

「考えたいなんていうのはウソね。本当は何も考えられない。時間が解決、なんていうけれど、私の場合は特別なんじゃないかって勘違いしちゃうくらい」

全てが終わってしまった今、それは一体何の終わりなのかと誰かに問い詰めたくもなる今、トリッシュは今までの心労がどっと押し寄せたかのように、まるであの時は今という未来の気力とエネルギーを前借していたのだろうかと思いたくなるくらいに、何も考えられなかった。何かの所為だとか、理由を作る間もないくらいに。

「とにかくアンタはしばらく……ブチャラティの言っていた家でゆっくりするのが一番なんだから…」

彼の名前を出すと、トリッシュの指がかすかに震えた。逡巡しながらも死者の名前を口に出来た自分より、腫れ物に触るような態度を見せたトリッシュのほうがまともなのだろうか。まともであるほうがいいのだろうか。忘れる方がいいのだろうか。忘れられるのだろうか。忘れてしまったあとのことが、自分は怖くはないだろうか。
視界に入らずとも、寄せる波の音だけが鼓膜にいつまでもいつまでも、規則正しいリズムで纏わりついた。













































色々、全部終わったら、アレがやりたいコレもやりたいって思ってたはず。そんな記憶があるのに。
なぁ、誰か覚えてねーか?覚えてねーよなぁ。俺の考えてたことなんて、はは。
終わったのか?なぁ、誰もいなくなっちまったけど、終わったのか?














































世界は知らぬ顔で“いつも”を奏でる。
誰かが悲しくとも、怒りを覚えていようとも、新たな命が祝福を受けようとも、一つの命が終わりのときを迎えようとも。
世界は何も気に留めることはない。
誰かが終わりを望んでも、逆に幸福の持続を願っても、世界は何一つ変わらない、変えない。
きっと私が死んでしまっても極々小さな空間だけが淡いグレーの悲しみに覆われるだけ。空は青く、風は穏やかに、太陽は柔らかな日差しを海辺の街に注ぎ続ける。信じたくない。そんなはずはない。もういつからそうしているのか解らない。私はずっと壁紙の模様を見つめていた。こうやって悲しみの中で見つめ続けていれば、壁の模様が動き出すはず、とか、どこからかきっと何か、想像もつかないけれど何かがやってくるはず、とか、そんなことを考えていた気がする。
そう、あの人たちが死んだなんてことはウソだって、誰かがゲラゲラ笑いながらやってくるはずなのに、どうして誰も来ないの。
時折、思い出したように瞬きを繰り返す私の体は、心は、いったい何を望んでいたのだろうか。

ミスタがやってきたとき、私は多分、そんなことを考えていたんだと思う。そんな気がする。
今こうして考えていることにすら何の自信も持てない。だから、私はそのとき何を考えていたのかなんてはっきりとは覚えていなかった。
ミスタはクロワッサンと、カフェオレと、それから、何を持ってきていたっけ。

「なぁ、昨日持ってきたのはうまかったか?」

ベッドの上で座り込んでいる私に、ミスタが話しかけた。それは本当に自然な感じがしたけれど、多分そんなフリをしていただけだと思う。そのときも、その前も、ミスタは私の目を見つめなかった。見ようとしていなかった。なんとなく、精神科医の話を思い出した。狂気に呑まれる。
全く別のことを考えていた私に、ミスタが再度「おい」と呼びかけた。何を聞かれていたのだっけ、と、私は頭の中で今し方のミスタの声を再生する。

『なぁ、昨日持ってきたのはうまかったか?』
「うん」

昨日、何を食べたっけ。右耳を抱えた膝に擦り付けるようにして、本当はそんなことしても無駄だけれどそうすれば思い出せるような気がして、考えた。
いつもなら、普通の人なら、思い出したいことだけを切り取って、思い出す。
だけど今の私には出来ない。なぜ出来ないのか、私にもわからない。とにかく印象的なことを一つ思い出して、それをとっかかりにして、やらなきゃなんない。昨日食べたものも思い出せないなんて、私はもう限界かもしれない。そう思うと頭の中の分別を知った私が『そんな風にかわいそうな自分を演じているのが好きなの?』と尋ねてくる。この私の言うことが正しくて、私はきっと立ち直らなきゃいけないのだと思う。だからミスタも、私を元気付けようとしてこうして嫌な顔をせずに私の家を訪れてくれる。けれど思うのと、実現させるのは全く違う。そう、私はもっと悲しいフリをしていたい。違う、これはフリなんかじゃない、悲しいんだ、本当に悲しいんだ。悲しいんだ、だから誰か助けてよ。母親を見失った赤ん坊のように泣き喚く頭が、遠い。悲しみ続けるのも辛い、そこから目を背けるのも辛い。どうして私、こんな目に遭わなければならないの。

「昨日、リゾットを食べた」
「おー」
「豆が入っていた」
「そーだな。鶏肉もほぐれてて、うまかっただろ?」

多分ミスタは、そのとき、私の意識を“そっち”に向けようと必死だったのだろう。
でも私の脳は全く、ミスタの思い通りに動かないばかりか、私ですら予想していなかったけれど、歌を歌っていた。
声に乗せないメロディを歌というのかどうかはわからないけれど、私の中でずっと音階が上下していた。
あの人たちが歌っている、なんてビジョンが浮かんだ。そんな場面、見たこともないのに。
唇の皮がむけている。もう何日、化粧をしたまま。もう何日、家から出ないまま。

彼らが死んでから、もう何日?

「今すぐにとは言わねーけど……ケジメってのも大事だと思うぜ、俺はよォ」

ミスタがいつの間にか、私の隣に座っていた。ベッドがミスタの重みにつられて、くぼんでいる。その方向へ、私もつられて傾いていく。
こうして、物理的にどこかへ引きずられることが精神的な救いになるのだとしたら、泥水の中へでも落ちてしまいたいと思った。でもそれすら、今の私には堪えられない。

この悲しみを手放すことも堪えられない悲しみ。

「おめー見てっとよ、こっちまで引きずり込まれそうなんだよ」

ミスタと私の間の距離は大体20センチくらいだ。ひょっとして、ミスタはこれ以上私に近づいたら逆に私の負の感情に引っ張られるとでも思っているんだろうか。滑稽だ。バカみたいだ。ミスタはバカだ。私はそんなことしない。できないんじゃなく、仮に出来たとしても私はそんなことは絶対にしない。この甘い悲しみは誰にも渡さない、譲らない、誰が侵入することも許さない。これは私と死者の聖域、穢されないし壊れない、絶対的悲愴聖域。
それに、ミスタは私のように弱い人じゃないのを知っている。そして、やさしい人だということも知っている。だからこうして毎日様子を見に来てくれる。けれどミスタは、ミスタが来ていないうちに私が死んでしまわないのか、とか、思わないんだろうか。それともミスタも、私がミスタの強さと優しさを信頼しているように、ミスタは私の踏ん切りの悪さとしぶとさを信じているんだろうか。
でもミスタ、この悲しみだけは捨てたくない。私を連れて行かないで。

「そんなに嫌なら、こなきゃ、いい」
「……迷惑かよ」

そんな風に思っていないし、それはミスタに伝わっていると思っている。

「そうやってずっと、悲しんで生きていくのか?」
「………」
「お前、それでいいのか?」
「……いいよ。他の誰が忘れても、私だけはずっと覚えてる」
「引きずり込まれてる」
「そうだね」
「死んでるよ、今のお前はさ」

ミスタが私に黒い銃口を向けた。
ミスタは私を撃たないという自信も、楽になれるのならいっそのことと思う覚悟も、私には無かった。
ただ、安全装置を解除する骨ばった指を、見ていた。
脅しなのだろうか、それとも本気だろうか。

ミスタ、貴方は悲しみを捨てるのも、ずっとそのまま生きていくのも、

「こわいの?」

でも、ミスタに殺されるのならそれでもいいや。そう思えた。
ミスタの手によって、私が私とミスタと、それからみんなの愛したあの人たちの下へ飛びたてるのならそれは至福かもしれない。
ただ、私が手放してしまった後の悲しみがどこへ行ってしまうのかだけが気がかりだったけど。
そして私の生み出す悲しみは一体誰の心に落ち着くのだろうかと、一瞬だけ考えて、

私は瞼を閉じた。













































泣いていないか心配でしょうがないなんて言ったら、怒るかな、アイツ。














































トリッシュを見送った僕は、気になることがあったためにジェーンの家へ向かっていた。
ぼろアパートの階段を登っていると、ジェーンの部屋から、銃声が聞こえた。
ミスタがキレて、ぶっ放したのかな。妙に冷静な自分がいた。変だとも思わなかった。麻痺しているのかとか、そういう考えもなかった。

ただ、明け方のビジョンが瞼の裏でゆらゆら揺れていた。

「夢を、見たんです」
「あ?」

ジェーンの家から出てきたミスタに、僕は声をかけた。ガチャリと後ろ手でドアを閉めながら、ミスタは聞き返した。「夢?」
そう、夢。甘美で、救いのない夢。

「死んでるんです」

口の端が上がっている僕が不気味なのだろうか。ミスタは眉を寄せて腕を組んだ。
一応、話は聞いてもらえるらしい。

「真っ白で。むやみやたらに広いカーテンでも巻きつけてるかのように、真っ白なんです。真っ白い、その空間の中で、ジェーンが眠っているんです」

「眠っている。それは、僕の良心が産んだまやかしです。本当は死んでいる。ジェーンは僕の夢の中で死んでいました」

「綺麗でした。ぞっとするくらい綺麗とか言うけど、ただもう、綺麗だとしかいえないくらい、綺麗でした」

左手の親指の付け根をさすりながら、何度か目を閉じてイメージを想起しながら、僕は自分に何度も言い聞かせるように、ミスタに話した。ミスタに話しているフリをして何度も情景を反芻した。
あぁ、と乾いた溜め息を吐くと、ミスタは僕に背を向けた。階段を降りるのだろう。

「なぁジョルノ、夢ってのは他人に話すと正夢にならないらしいぜ」

ミスタは振り向いた。バカみたいな笑みを浮かべていた。

「残念だったな」

ミスタが階段を降りる靴音を聞きながら、僕は、この小汚いドアの向こう側が真っ白い世界であることを夢想していた。
真っ白い部屋の中で、子供のように眠りこけている。そんな姿で、もう冷たくなってしまった、手の届かないところに逝ってしまった、ジェーンの姿を脳裏に描いた。
それもまた、凄惨で美しい光景だと思う。
僕の救いなのかもしれないし、ジェーンにとっても救いなのかもしれない。
救われたいと願っているのかと思うと、馬鹿馬鹿しくなった。
誰も救わないし、救えない。誰も救われない。希望だとか、そういうものに縋る人間ではなかったはずだ。
誰が?僕が、だろうか。ジェーンが、だろうか。
ミスタの姿は消えていた。

ドアを開ける気にもならなくて、立ち尽くしていた。
待っている間に、向こう側が真っ白い世界になることを祈っていた。

歌う暇があるんだったら、

溜め息と一緒に呟いて、僕は耳を塞ぎたかった。
その歌は、真っ白い亡骸によく似合いそうだと思う。
けれど、そのイメージはきっと永遠に、僕の瞼の裏から出てくることは無いのだろうと思うと、ミスタの言ったとおり、非常に残念だった。













































無自覚のままに時を過ごすことが罪だとは思いたくないけれど、それでも俺は無自覚なフリをして、もう少しこのままゆらゆら揺れていたい。
あぁ、誰かが悲しみの祈りを呟いている。聞こえる。きっとこの先も聞こえ続ける。それにも気づかないフリをして、俺はずっと見守っていたい。