無垢の終わり



ブラウケンバッハのあまいカーテン の続きです)

最初こそ、彼女は、山田花子は新幹線の中では借りてきた猫のように縮こまっていた。
としても、俺は彼女に話しかけるでもなかった。彼女がそれを望んでいるように思えなかった上に、望んでいたとしてもそういう気にはなれなかったからだ。
思い出すたびになんともいえない感情があふれ出すような、けれど決して嫌なわけではない思い出を反芻しながら、しばらく窓の外を眺めていた。
トンネルに突入するたび、彼女は「うぇ、」とうめき声のような悲鳴をあげ、耳を塞いだ。苦手なのだろう。
それでも俺たちの間に会話がなされることはなく、目的地に着くまでの数時間の間、俺は本を読み、彼女はいつのまにかイヤホンをつないだ携帯ゲーム機の画面に夢中になっていた。
彼女の足元に置かれた黄緑色のショルダーバッグは大きさの割りに膨らんでいない。奇妙にひしゃげたそれのファスナーに、ぬいぐるみのキーホルダーがぶら下がっている。
15歳で、仗助や康一君の後輩で、露伴の茶飲み友達らしい。美術部に所属しているが、その手は絵筆を握ることは少なく、それよりも彫刻刀や土の塊をいじっていることが多いらしい。立体作品を作るのが得意らしいと、仗助が言っていた。

俺が彼女に引き合わされた根本的なきっかけは、露伴と彼女のくだらない諍いだった。
どういったものなのか知ったことではないが、喧嘩っ早い(広瀬康一談)花子と、傍若無人な露伴のことだ。知ったところでどうしようもないようなくだらないことなのだろう。
その露伴がわざわざ俺のところまで尋ねてきたのは先週のことだ。
幼少期に奇妙な経験をした少女がいて、自分は彼女が語った人物の名に覚えがある。露伴は些か迷いながら、杜王グランドホテルのロビーで俺に伝えた。
「あいつは遺品を持っています。そして多分、それをあるべき場所に収めたいと思っている」
あるべき場所というのがどこなのかの見当ぐらいたやすくつく。
「花京院が言っていた“花子”に渡したいと?」
「ええ」
露伴は回転ドアにちらりと視線を移した。誰かが入ってくるわけでもない。
「直接渡したいんだと思いますよ、僕は。そう聞いたわけじゃないし“読んだ”わけでもないが」
「…………」
彼がどう思っていようが、花子が何を望んでいようが、金輪際到達することもできない。
花子と花京院の面識(と、言っていいのだろうか)はともかく、花子は“花子”と会ったこともない。
見ず知らずの相手にそこまでしてやろうという思いは尊いだろうが、俺にはそれが、幼さゆえの肩肘張った使命感でしかないと、そういうふうにしか思えなかった。
花京院、花子。
俺はもうそういう年になってしまって、きっとこちらの花子ももうすぐ、お前たちを追い越してしまう。


「“花子”さん、って、どんな人なんですか?」
新幹線を降りた俺たちは、タクシーを拾い、目的地へと向かう。
その車内で、花子がおずおずと尋ねた。
どういう人間だったのだろうか。
「さあな。会ったことも、話したこともない」
「……そうなんですか?」
「ああ。花京院が転校する前の学校の、生徒だったらしい」
「そうなんですか……」
タクシーがカーブを荒っぽく曲がると、花子の体が傾いだ。
「あの、花京院、さんの、その……」
「葬儀でも会っていないし、連絡すらとったことがない」
「…………そうです、か」

世界が理不尽で満ちているのではなく、理不尽さそのものが世界であるのだと、彼女に教えるにはまだ早いような気がした。
人が生きる限り悲しみは尽きぬということは、おそらく誰でも無意識に知っていることだろう。
大人になるということが、それらの不条理とうまく折り合いをつけていくことなのかもしれない。
俺がそう教えられたのは、多分あの旅の最中だった気がする。

木蓮の花が咲いている坂の入り口で、タクシーを降りた。
湿った風が雨雲をつれてきそうで、いや、それだけではない不安感があった。
「“花子”さんは、こんなところにいるんですか?」
俺の後ろを遅れて歩く花子が、きっと何某かの焦燥感を覚えながら、だろう、上ずったような声で問う。
緩やかな上り坂の両側にも、その先にも、民家らしきものはない。
振り返れば宅地がまばらに広がっているのだろうが、俺はそうしなかった。
振り返ったときにきっと視界に入る、花子の顔を見たくなかったのかもしれない。
帽子のつばを軽く引き下げながら、俺は一体誰に懺悔すればいいのかわからなかった。
わからないまま、足を引きずるようにして目的地の霊園を目指した。


クリスチャンだったのか。
白い墓石の前には、しおれかけた花束が供えられていた。
「そんな…………」
“花子”の墓の前で茫然と立ち尽くす花子の髪を、風がさらっていった。
「交通事故だ。花京院が死ぬ、一週間前だったらしい」
花子は、何も言えないようだった。
それもそうだろう。俺だって思い出すたびに嫌なものがこみ上げてくるような、そんな思い出をいくつも持っている。
そういうものを花子は、今抱えることになったのだ。この先しばらく、心を苛む小さな罠を。
「花京院がお前のところに来てしまったのも、もうその時に“花子”がいなかったからだろうな」
真実なんてものがあるかどうかもわからなければ、仮にあったとしてもそれが実際どういう意味をもっていたのかということすら、もう誰にもわかりはしない。
「だってこんなの、うそぉ……」
震えるのは声だけで、体全体には力すら篭っていないようだ。
膝から崩れ落ちるでもなく、わっと泣き出すでもない。生来気が強いせいなのか、それとも別の何かが彼女にそうさせているのか。
「わたし……」
段々と花子の顔が俯いていく。後ろに立っている俺には、表情も何もわからない。
「わたし……考えてた。花京院、さんが、最後に会いたがってたのも、教えてあげなくちゃいけなくて、それって、知ってるのはわたしだけだから、わたしじゃなくちゃいけないから…………」
「………………」
「きっと“花子”さんはもう結婚とかしてて、かっこいい旦那さんと、かわいい子供がいて、でもわたし、だって……だって……」
ぐっと握り締めた拳が震え始めていた。
「新しい幸せを感じるのは悪いことじゃないのに、けど、でも…………ちょっとだけ、花京院のこと、思い出して泣いて欲しかった!」
彼女が墓前に膝をついたとき、「ああ、やっとか」と、そう思っていた。
「なのにこんなの、嫌だ!なんで死んじゃったの!嘘だよ、酷いよ……」
泣いているのかどうかもわからない背中にかける言葉などなかった。
花子もそんなことは望んでいないのだろう。
そのときの俺はおそらくただの路傍の石のように、そ知らぬフリをして彼女の叫びを受け止める装置でしかなかった。
「……どうしたら、いいの?」
花京院の遺志は、花子の中できっと行き場のない感情に変わってしまったのだろう。
誰が悪いわけでもない。理不尽さというのは、そういうことなのだ。

雨が降り出しそうな顔をしている割に、いつまでたっても曇天のままの空を見上げた。
振り出してしまえば雨宿りと称してここから離れられるはずなのに、おかげでタイミングがつかめない。
きっと俺は恨めしそうな顔をしているだろう。
誰を責める気にもなれないままに。

20110515

title from love is a moment