特定物ドグマ



「あのさぁ、こういうこと聞くのもアレなんだけどね、花京院くんってさ、もしかしなくても昔は名のある貴族様だったとか?」

それは美術の時間の後だった。昼休みと言ったほうが適切かもしれない。
僕はいわゆる、筆がのっていたというやつのせいもあって、昼ごはんを食べるのも惜しんでキャンバスに向かっていた。
だからおずおずと、それでいてどこか遠慮のない問いかけが顔の横から降ってきたとき、それを理解するのにたっぷり10秒は費やしたんじゃないかと思う。
と同時にその10秒は、質問してきた山田花子にとってはあまりよろしくない10秒だったらしく、彼女は僕の顔を眺めながら段々、夕立の前の空のように気落ちしていった。
「……ごめん」
気の強い子だった気がする。だから、ああだこうだと言い訳がましく述べ立てることもなく、一言謝っただけだったんだろう。
「ううん。別に怒ってるわけでもないけど、どうしてそういうことを聞くの?」
なるべく優しく言ってみたら、彼女は美術室の古びた椅子をガタンと鳴らしながら僕の隣に座り(余談だけど、僕はこのとき窓際の席だった)、
「だって、苗字が変わってるもの」
「そうかな」
「少なくとも私よりは変わってるわ」
まあ確かに、漢字で三文字の苗字はあまりないかもしれない。僕はそういうことを調べたことはないから、正面きって断言できないけど。
「期待させていたようで申し訳ないけど、僕の家は本当にごく普通の、一般家庭ってやつだよ」
「えーそうなの?」
ところで僕は、そんなとりとめの無い話をしながらも結構真面目に筆、もとい色鉛筆を動かしていたので、あまり会話の中身は覚えていないし、そもそもこれといった内容は無かった気がする。
ただ一つだけ、彼女がその流れで「中産階級」なんて言ったときには、まるで社会学だか人文学だかの講義のように思えて噴出しそうになったことは、確かだ。

「お昼ご飯はたべないの?」
「山田さんは?」
「ダイエットちゅー」
こういうとき、僕はなんと返したらいいのかわからない。気まずいなぁ、どうしようかなぁと辟易しながらついと顔を上げると、どうやら随分前からそうしていたみたいだけど、山田さんは僕の手元を覗き込んでいた。
そうしていると、今度は視線がぶつかる。彼女はふっと笑うと、また視線を落とした。
何か言うのかと思っていると、特に何を言うわけでもない。
そもそもなんで僕に声をかけたんだろう。山田さんは確かに、僕と同じクラスの女子だけど話をしたことはそんなに、ない。そのごく僅かな内容だって、課題のプリントを集めるときだった気がする。それだけか。自分で考えておいて、ちょっと落胆した。

「空を飛ぶ魚がいたらいいねぇ」
本当に唐突に、それも突拍子もないことを頬杖をつきながら山田さんは言った。少し目蓋を伏せているように見えるのは、僕の視線のほうが上にあるからにすぎない。
「描いてみる?」
僕も唐突に、突拍子も無いことが口からこぼれ出たのが不思議だった。
「えっ?」
彼女もびっくりして、頬杖をはずして目を見開く。
「花京院くんの、この、絵に?」
「そうだよ」
僕は段々ひっこみがつかなくなったのを無理に、色鉛筆の箱を押し出しながら言った。
「もったいないよ」
「なんで」
「わたし、絵なんて描けないし」
さっきまで美術の授業だったのになと、僕は苦笑した。
描けない描けないといいながら山田さんは何故か白い色鉛筆を手にとって、ついでに僕のほうに体を寄せた。
そりゃあ、僕も健全な男子高校生ですから、彼女から淡い香水のようなシャンプーのような香りがしたときは不覚にも(というと失礼かもしれないけど)どきりとしてしまった。
「あ、これ、水彩色鉛筆だ」
もったいない、と言っていたからかわからないが、山田さんは薬指の先で恐る恐る、僕がすでに色を塗ったところを撫でた。
「後で筆つかうの?」
「ううん。このままにしておくつもり」
「そっかぁ」
山田さんは笑った。はらりと落ちてきた髪を耳にかけて、僕と反対側の髪はそのまま、そちら側に少し首を傾ける。
別に、やましいこと抜きに、顎のかたちが素敵だなと感じた。
「本当に描いてもいいの?」
「山田さんが描きたいならいいよ」
「どうしようかな…」
本当はきっと、描いて欲しいといって欲しいのかもしれない。けど、それはあくまでも僕の勝手な推測と思い込みだから、僕は口には出さない。
さっきとは逆に僕が頬杖をつきながら、ちょっと独特な鉛筆の握り方の左手を見つめていた。
「主体性のない二人だね、私たち」
また、山田さんらしからぬ発言が出てきた。僕は、きっと彼女が描く空飛ぶ魚は、透き通っているんだろうなと思っていた。

20100621