ブラウケンバッハのあまいカーテン



「こんばんは」


ここはマンションの14階の、それもベランダ側の部屋だから、わたしはとうとう頭の中の妖精さんが話しかけてきたのかと、そのときは本当に思った。けれど、今思っても到底、そんなことが事実起こったとは思えないからそれはやっぱり頭の中の妖精さんだったのかもしれない。
でもやっぱり、彼が話しかけてくる前にわたしと目があったのも事実。

「………あなただあれ?」

ぽかんと口を開けたままだったわたしがかろうじて口に出せたのはそれだけだった。

「僕の名前は花京院典明」
「わたし、花子っていうの」
花子ちゃん。
その彼は少し悲しそうな顔をしていた。
「ねえ、どうしてあなたははんぶん、とうめいなの?」
びっくりすることに、彼はそのとき半分、本当に透明だった。どうしてわたしが迷い無くそれを尋ねられたのかといえば、きっとまだ5歳だったからだとしかいえない。
「僕はね、死んでしまったんだよ」
かきょういん のりあき、は、とても綺麗な顔で笑った。でもとっても悲しそうだった。
「…うそぉ」
やっぱり子供だったから、わたしは本心からの一言しか出せなかった。しかしながら今思えば、5歳でも人の死が痛ましいことだというのを理解していたのは、ちょっと自分に感心してしまう。
彼の後ろでひらひら揺れているうす緑のレースのカーテンが、丁度そのとき読んでいた御伽噺のお城に見えた。そのさらに後ろは、星空だった。
かきょういんは一度だけ瞬きをした。
「どうして、かきょういんはここにきたの?」
うん。と言って、彼は窓枠を乗り越えてきた。なんだかとてもだるそうで、きっと不要だったことだろうけどわたしは手助けしようとして、ベッドを抜け出した。
「僕の大切な人に、最後に会っておきたかったんだ」
「えーっ?たいせつな、ひとなの?」
わたしは小さな指先で自分を指差しながら言った。
「ううん。ごめんね。でも僕の大切な人の名前も、花子なんだ」
「そうなの?なーんだ。花子じゃない花子にあいたかったの?」
「そう。最後に花子に会いたいと思ったら、花子ちゃんのところにきちゃったみたいだ」
神様はズルイね。かきょういんは空を見上げた。
「だめだよ、ひとのわるぐちいったら、かみさまにおこられちゃうよ」
「そうだね」
ごめん、と、わたしに謝るのだ。なんでわたしなのか、わからないけど。
わたしはかきょういんに触ろうとした。すると、ふしぎなことにそこにはふかふかした何かがきちんと存在していて、彼自身そのことに驚いているみたいだった。
「花子があわせてあげるよ」
「え?」
「花子が、かきょういんのあいたい花子にあわせてあげるの。
でももうねむらないといけないから、あしたね。
だいじょうぶよ、ママはいっつも、“たうんぺーじ”があればわかるっていってるもの。
だからね、かきょういんもおうちにかえって、あしたわたしがようちえんからかえってきたら、花子をさがそうね」

約束。

指きりをした。かきょういんは、泣きそうだった。


どうやって眠ったのか、かきょういんがどうやって姿を消したのかまったく覚えていないけど、翌朝目が覚めたら枕元にさくらんぼみたいなイヤリングが落ちていた。
かきょういんのかな。きっとこれを花子に渡して欲しいんだな。
それをお気に入りのハンカチで包んでオルゴールの宝石箱にしまいながら、ほとんど直感で、そう思った。






「とまぁ、こういう経験がある以外は、わたしってばとってもフツーの女の子なわけですよ」

花子は、幼少期に不思議な体験をしたほうの花子は僕、岸辺露伴の前で皮肉交じりにあくびをした。
僕らがカフェ・ドゥ・マゴで向かい合ってテーブルを囲んでいる理由は面倒だからはぶくとして、この奇妙な経験を聞くことになった経緯は僕の挑発だった。
『君みたいな子は、どうせ世の中にごまんといるような人生しか歩んでないだろう?』
ああ、たしか康一くんの話から、ここまで飛び火したような気がする。

「でも、こんなの信じないでしょう?」
目の前の花子は半分自嘲気味に言った。明らかに自分で切って失敗したんであろう前髪の下で細い眉が下がる。
別に信じないとは言わない。杉本鈴美の例もあるわけだし。
「“花子”をさがそうと思ってもたった15歳じゃできることなんて限られてるし、それに苗字もわからない。おまけに“かきょういん のりあき”なんて、5歳の私じゃ漢字だって知る由も無かったし」
花子は鞄のポーチから、古びたハンカチを取り出した。その中に包まれているのは話に出てきたイヤリングなのだろう。
「“花子”、待ってるのかな」
やれやれ。僕は持ち歩いているスケッチブックを抱えて立ち上がった。
「つまらない話だったな。お前ここ、払っておけよ」
「えーっ何それひっどい!康一先輩にいいつけてやる!」

何とでも言うがいいさ。お前はそうしないうちに、僕に感謝することになるんだから。
僕は振り返らずに手のひらをひらひら振って、腕時計の文字盤を見た。

さて、向かう先は杜王グランドホテル―

20100623