2nd Anniversary.



ノーティ・ハート・クラッシュ

文献なんて図書館で探した方が早いし、ネットなら手間もさほどかからない。けれど、私はわざわざ講義棟から15分かけて歩いて先生のところへ向かう。
的確な意見をくれるのはいつだって先生だし、色々やらないといけないことも溜まってる。助手の私は頼まれていた諸々を鞄に詰めて、頼まれもしないのだろうけど、ほんのちょっとの期待を心に滑り込ませて階段を登った。
先生の研究室は二階だからいつも階段を使う。五限終了後の構内は静かで、自分のヒールの音だけが響いている。
ああ、そういえば研究室の消臭剤が切れてたなあ。
もしかしたら、先生はこの音を聴いているかな。だとしたら、少し恥ずかしい気がする。
まさか会いたい一心で急いで来てるなんてことがばれないように、上手く出来ているかわからないけど落ち着いた足取りのフリをした。

「失礼します」

丸いドアノブを回すと、甘いナッツのようなキャメルの匂いが鼻を掠める。ちょっとだけ顔をしかめて見せるけど、嫌いじゃない。
だから消臭剤もいらないのだけど、一度置きだした以上は何度か交換しに来なければならない。
でもそれも、今更面倒がることではない。口実が一つ増えるだけなのだから。

「頼まれてたやつ、持ってきましたよ」
「悪いな」
「悪いと思ってるならコーヒーぐらい淹れてくれてもいいんじゃないですか?」
「残念だがここはセルフサービスだ」

山盛りの灰皿に煙草を押し付けながら、先生は悪びれもせずにしれっと言った。
テーブルの上にコピー用紙を乗せて、私はポットの横に置かれた茶色のマグカップをひっくり返した。内側の、カップの上から一センチぐらいのところにピンクのボーダーが入っている。ちょっと前に気に入って買ったもの。残念ながら持ち手が少しだけ欠けている。
でもこの、私専用のマグカップが研究室においてあるのはとても嬉しいこと。
それを先生が見咎めないのも、嬉しいこと。

インスタントコーヒーの粉末をビンから直接カップに入れて、お湯を適当に注いだ。テーブルの方へ戻ろうとしたときに先生が、「ああ、淹れるんなら俺にも」なんてタイミングを完全に逸したことを言うから、私は負けじと「セルフサービスなんでしょう?」って言ってやった。
でも結局淹れてしまうんだけどね。惚れたなんとか、ってヤツか。

「ああ、ありがとう。それで、何か用でもあるのか?」
「ありますよ」

なかったら来ちゃいけないのか、なんて減らず口を叩きながら、私は先生に『フロムの自由からの逃走を掘り下げられる本はないか』聞いた。先生は咥え煙草のまま立ち上がって本棚を漁る。
私はサブゼミとして他に一つのゼミに参加しているけど、そこの教授の本棚はもはや本棚と呼べないくらいに散らかっている。それと比べれば、いや比べなくても、火村先生の研究室の本棚はかなり整頓されていて、まるで図書館のそれみたいだ。
大きな手は的確に三冊の本を取り出した。先生はそれを黙って私に差し出す。私が両手でそれらを受けとると先生は煙を大きく吐いた。ああ、やっぱり煙いや。


それからゼミのことやら雑談やらをしていると、外はすっかり暗くなってしまった。
学生係の前の掲示板に張り出されていた紙によると、なにやら最近構内に不審者が出没するらしい。露出狂とかではなく、殴られて大怪我を負った男子学生も一人じゃすまないと、午前中の抗議で教授が言っていた。

「だから!先生、送ってくださいよ〜」
「そこに傘があるぞ」
「それで対抗しろってんですか?」
「大丈夫だ。山田ならやれる」

なんとも酷いことを言う人だと思う。でもま、多分これが私じゃない学生なら暗くなる前に返すだろう。
私を追い返さなかった先生は、85パーセントくらいの確率できっと私を駅まで送ってくれる。というか送ってくれないと本当に困るからむやみやたらに「ベンツ」コールをしたり、か弱い女なのだとアピールして見せた。
大体、なんで私がこんなに苦労して送ってもらおうとしているのか。先生、気づいてください。私が先生に送る口実をあげてるんですよ。毎週来てるのも、会いに来なかったら次の週にちょこっとだけ不機嫌だから、口実作って会いに来てるんですよ。『自由からの逃走』ぐらい、私だって理解できましたよ。本当はウィトゲンシュタインの本を借りようとしたけど、それは来週にとっときます。

「あーわかったわかった。山田に枕元にたたれたら俺も寝覚めが悪い」
「ちょ、何で私は死ぬことになってんですか」
「別に生霊としてでも出てくるだろ」
「殺しても死なないとでも言いたいんですか」

いつもどおりに減らず口をたたきあいながら、先生と私は駐車場のベンツに向かった。初秋の風は冷たい。先生は上着を着ていないけれど、寒くないんだろうか。着てないのならまだしも、持ってすらいない。重いんだか軽いんだか良くわからない鞄だけ。

「冷えますね」
「そうか?」
「脂肪が少ないので」
「そうか」

馬鹿にされたような言い方に、私は先生の肩を軽く叩いた。どうでもいいけど、先生って背筋がいいから本当の背の高さより高く見える。一体、この人に欠点はあるのだろうか、なんて考えるのも惚れた弱みってやつか?
先生はなんともアナログチックにキーを差し込んで開錠し、運転席に乗り込んでから助手席の鍵を開けた。やや重たいドアを開け、クラシカルなシートに腰を下ろす。乗せてもらうのは初めてではない。

「最初に乗せてもらったのって、いつでしたっけ?」

私の左側でエンジンをかける先生に尋ねた。一瞬だけ手を止め、先生は考えるような顔をして見せた。

「風邪をひいたときじゃなかったか?」

重い音をあげてエンジンが始動した後、先生はギアをローに入れながら言った。
ああ、そうだった。私が風邪気味だったときに先生が送るって言ってくれたのを固辞してた記憶がある。あれは、いつのことだったかな。
ベンツは決して静かにとは言えないけれど、スムーズに動き出した。大学の灯りは微かで、先生の顔はよく見えない。

「そんなこともありましたね」
「あのとき、山田は二年だったか。ゼミの見学に来てたんだよな?」
「え?ああ、まあ・・・」

口ごもったのは、私が何度もゼミ見学に来ていたから。他の学生は見学期間にたくさんのゼミを見て回るのだろうけど、私は期間中ずっと火村先生のゼミに入り浸っていた。だけでなく、ゼミがない時間帯もなんやかやと口実に頭を悩ませながら研究室を訪れた。
考えてみれば、あのころからやってることは変わってないんだな、と思うと情けないやら恥ずかしいやら。

「で、結局卒論はどうするんだ?」

あのころから研究テーマは二転三転して、定まらないまま私は先生の助手をやっている。助手と言うよりも、面倒を見てもらうお礼にいろいろお手伝いさせてもらっているというべきか。

「まだ決めてないんですよねー・・・何がいいと思います?」
「人に聞くんじゃない」
「・・・ですよねー」

やはり甘えた考えだったか。シートにより深く身体を沈ませながら私は眉をしかめてため息を吐いた。
研究室に入り浸るより、その辺しっかり考えないと本気でまずいかもしれない。それすら口実になるかもしれないなんて考える私はほんとう、どうしようもないのかもしれない。

「ああ、話は変わるが」

先生は信号停止した時に、後部座席から何かを取り出した。
どうやら私にくれるらしい。10センチほどの立方体のような箱は、意外に重い。

「カップが欠けてただろう」

箱を開けてびっくりしている私に、先生はなんでもないように言った。
箱の中身は真っ白のマグカップだった。街灯に照らされていて、本当に真っ白かどうかはわからないけど、白地に、一列だけピンクの小さなハートが並んでいる。

「かわいい・・・くれるんですか?」
「俺が使ってもしょうがないだろう」
「そうですねー」

でも、これを先生が買うところは想像できない、なんて、口元まで出かかった言葉を呑み込んで、私はしばらくニヤニヤしていた。
ラッピングしてないのも許す!狭い車内で煙草吸ってるのも許す!先生から何かを貰うなんて初めてだし、こんなこと想像もしたこと無かった。

そうだったらいいけどまさかそんなことはない、って思って否定し続けてた可能性、実は先生も口実を考えてるのかもしれないなんて今確信するように思った。

「先生」
「なんだ?」
「今から先生んちに、ウィトゲンシュタイン借りに行きたいんですけど」
「却下」
「けちー」
「また来週来い」

そう、また来週。

- end -

20080803