エレベーターというのは、とても便利な機械ではあるのだが、それゆえ頼り慣れてしまったときにはその弊害も大きい。
「点検って…うそ…」
例えば夏の暑い日に一人暮らしをするマンションに帰り着いたとき、上の階であればあるほど階段を登るのがたまらなくしんどくなる。今、私はマンションにいるわけではないけれど、肩にかかったトートバッグの中には重たい雑誌が何冊も入っている。
まだまだ若いのだから、研究室のある4階まで階段を使うのは構わない。ただしそれは、自分が軽装の時に限る。
「若いくせにそのくらいでへばるなよ」
研究室のドアを開けた途端に鼻先についたのは煙草の煙だった。息を切らしているものだから、いつもよりも余計に不快になってしまった。ソファーにトートバッグと、私物の入ったショルダーバッグを放り投げて、私は先生の背後にある窓を全開にした。
「ろ、論文資料を、山ほど、抱えてきたんですから」
「資料?」
先生はせまっくるしくなった椅子の周りを、私を圧迫するようにして移動する。ぜぇぜぇと息を吐き出す私は大きな椅子に押しつぶされそうになった。
「なんだこりゃ。山田、お前のテーマはなんだったか?」
「可愛い生徒の選択テーマくらい覚えといて欲しいものですが」
「可愛いのは出来の悪い奴だけだ。優秀な学生は特に口出ししなくても仕上げて来るんだよ。お前みたいにな」
「屁理屈」
ようやく落ち着いてきた呼吸を確認して、私は先生のほうを振り向いた。
「テーマは、“現代社会の結婚システムと家族法制度”ですよ」
「ああ、そうだったな。だからこんなもんを買い込んできたわけか」
「ええ、恥ずかしいの何のって」
私が買い込んできたのは、いわゆる結婚情報誌だ。メ●ンとか、ゼク●ィとか、そういうものをバックナンバー含めて10冊ほど。
「俺はいつも思うんだがな、」
「はい?」
「こういう雑誌はかなりの頻度で出てるが、内容に差異があるんだろうか」
「あるんじゃないですかー」
「どんな風に?具体的に言ってみろ」
先生は煙草で私を指しながら敢然と言い放った。ちょっとくらい休ませてくれたっていいのに。
「知りませんよ、買ったばかりで読んでもいないんだから」
「あ?じゃお前は何しに来たんだ?」
「言うに事欠いて何しに来たんだはないでしょう…」
もっと反論してしまおうと思ったけど、やめた。火村英生に口で勝てるわけがない。
「来週の中間諮問に間に合うのか?山田」
「人間、死ぬ気になればなんだって出来るんですよ」
「まあな。だが足掻いてもどうにもならんこともある」
一々腹立つなあこの人。
とは口に出さず、私は全開にしていた窓を閉めた。溢れかえった本棚に隣接したテーブルの上のコーヒーメーカーが目に入る。
これは先生の誕生日に私達ゼミ生がプレゼントしたものだ。せっかく保温機能がついていると言うのに、猫舌の先生には無用の長物らしい。
カリカリと微かな音がするほうを見ると、先生が灰皿に煙草を押し付けていた。片手ではゼク●ィのページをパラパラと捲っている。
「ま、いいんじゃないか。こういうのは世間一般の花嫁予備軍の思考がモロに出てそうだしな。ほかに調査方法は?」
視線を上げながら本を閉じた先生は、なんだかんだで私の訪問の理由に気づいているらしい。
「親戚がホテルに勤務してるので取材と、家族法に関してはサークルの友達が法学部なので色々聞こうと思ってます。あ、もちろん自分でも勉強したいので、それと一緒にポケット六法も買ってきました」
「行動が遅いような気もするがな。実際に結婚しそうな知り合いとかいないのか?」
「いませんね。先生の周りにもいないんですか?」
肩を竦めた先生の様子から察するに、良い取材対象はいないんだろう。大体、先生くらいの歳だともうすでに結婚してしまってる人のほうが多いに違いない。たぶん。結婚情報誌をトートバッグにしまいなおしながら、私はふと思ったことを口にしてみる。
「この際私が結婚しちゃうとか」
「相手もいないのにか?」
フンと鼻を鳴らすような顔をして、先生はやれやれと溜め息をついた。
「私が本気になれば言い寄る男は津波のよーに」
「死ぬ気で頑張るってやつか。せいぜい頑張ってくれ」
そーですね。私もやれやれと溜め息をつきながら荷物を抱え、ドアの方へ歩いていった。
「山田」
ノブに手をかけたところで先生に呼び止められる。何も考えずに振り向くと、
「3年経って相手がいなかったら俺のところに来てもいいぞ」
先生は煙草に火をつけながら何気ない風に言った。なんというか、3年っていうのが私の今の年齢からしたら妙にリアルで、
「なんじゃそら」
かっこ悪い捨てゼリフしか出来なかったのである。
- end -
20090805
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