僕は君に恋をする




10月。後期の授業が始まって、僕は毎朝眠い目をこすりながら通学している。いつもギリギリまで寝ているから、予鈴が鳴る校門付近は同じように目が開いていないような生徒ばかりで。今日は1限から『刑法総論』で、くぐもった声で聞き取りにくい講義をする教授を思い出してげんなりする。大きなあくびをすると、ちょっと冷たい朝の空気が肺の奥まで届く。

受講者が少ない1限が終わると、僕は図書館へ向かう。教養科目で必要な本を探して、それからEMCの会報に必要な資料を集めよう。頭の中で、予定と呼べない予定を組み立てながら、図書館の入館認証機(?と呼んでいいのだろうか)の順番を待つ。前に並んでいる女の子は、認証キーになっている学生証を探している。文学部なのだろうか、大きなカバンの中から『太宰治全集』が数冊覗いて―あっ、と思ったときにはすでに遅く、床にぶちまけられたそれら全集はさほど混んでいない図書館の視線を集めてしまう。

「あっ……すみません」

女の子は良く見ると、『女の子』というより『女性』であって(まぁ、大学生になれば誰だって垢抜けるものだろうけど)、僕はその彼女が落とした全集を拾う。もちろん彼女も。かがんだ姿勢のまま、本の埃を軽くはたいて彼女に手渡すと、少し赤らんだ顔がちょっと、ほんのちょっと可愛らしくて。

「いえ、傷がつかなくてよかったですね」
「うん、それに図書館のだし」

舌を覗かせながら、カウンターをちらりと見る彼女は、見た目と裏腹にフランクらしい。僕もつられて苦笑してしまうけれど、そのとき僕のカバンの中から『悪の華』が滑り落ちた。あ、と手を伸ばす前に、白い彼女の手がそれを掴み、

「ボードレールね、好きなの?」
「え?ええ。授業でいるんで……」
「ひょっとして、文学の授業?」

「後ろ、つかえてんけど」

話し込みそうになった僕たちにかけられた声がしたほうを振り向くと、数人の人が列を作っている。あ、と二人で目を見合わせて、図書館の外に脱出。その時初めて気がついたのだけど、カウンターの中の司書も僕たちを少し睨んでいた・・・気がする。


「ま、いっか。図書館なんていつでもこれるし」

自販機でコーヒーを飲みながら、彼女は僕が考えていたのと同じことを口にする。

「あ、でも君はそうとも限らないよね。ごめんね」
「や、いいんです。僕も特に急ぎの用事じゃなかったんで」

嘘付け。僕は何故か口からでまかせを言ってしまう。

「そう?そういってもらえると助かるんだけど……ところで何回生?私、先輩にタメ口きいてないよね?」
「あ、1回生です。有栖川っていいます」
「ふーん。変わった名前。当分忘れられなさそう。私も1回生、山田花子」
「なんや、同い年なら敬語使わんでもよかった」
「え?大人っぽく見えたってこと?」

誰もそんなこと言ってないのに、花子は勝手に解釈してニコニコ笑っている。こういう顔はすごく子どもっぽいな。口元に薄い笑みをたたえて花子のほうを見ていると彼女は、そういえば、とこちらに向き直って、

「文学の授業、受けるの?」
「今日の4限?」
「そうそう、受けるんやったら先週のレジュメ見せてほしいんよ」
「ええよ」

僕は両手を合わせる花子に、カバンの中からA4の紙を2枚取り出して渡し、助かるー先週サボっちゃって、と言う花子は、僕と交換するようにチョコレートの包みを差し出てくる。

「お礼」

赤い包みに描かれたKitKatの文字に気を取られていると、彼女は立ち上がって、

「4限に返すから!」

大きく手を振りながら、コピーを取りに行くのだろう、売店のほうへと歩いている。そう言われると僕は追いかけるわけにもいかず、手を振り返す。かすかに揺れる、ダークブラウンの髪が、綺麗だ。チョコレートのロゴの上部が、ハート型に見えるのは、気のせいだろうか。


4限、僕はさほど大きくない講義室に入り、花子の姿を探す。右側の列の、ちょうど真ん中あたりに、今朝見かけた『太宰治全集』を積んでいる彼女の姿が見える。左手の甲に小さな顎を乗せて、右手でパラパラと何かの本のページをめくっている。伏目がちな長い睫だとか、薄めの唇とか、今朝見たばかりの花子のパーツが頭にフラッシュバックして、最後に無邪気な笑顔が現れる。

予鈴が鳴り響く。僕の心臓は大きな音に驚いて、鼓動を速める。立ち止まっていた僕は、彼女のほうへ歩き出した。

あぁ、僕は花子のことが好きなんだ。


君が僕に気づくまで、あと5秒――

20061014