輝き



アリスの様子がおかしい。たくさんのショッピングバッグをかかえた帰りのバスの中で私は違和感を感じていた。
それはショッピングバッグを家の床に置いた今も続いているのだけれど。

けれどそれが何故なのか私は聞かなかった、というより聞けなかった。控えめな唇から何が零れ落ちてくるのか、本人以外誰も知りえない。ベッドサイドに腰を下ろしてぼんやりとしているアリスが嫌で、というよりはそんなアリスがいるこの部屋の雰囲気が嫌でしょうがなくて、私は無駄に明るい音楽をかけたり、コーヒーを淹れたりした。

どんな曲も今の雰囲気を打ち消してくれそうにない。
得体の知れない闇が部屋に、私の心に姿をみせ始める。それはアリスの心から現れてくるのかもしれない。

どんな言葉をかけてもアリスの表情は晴れない。
たまに薄く微笑むけれど、それはあくまで相槌に終始しているような儀礼的なものに過ぎなかった。

口付けようとすると、両手を掴まれた。「待って」

「話があるんや」



壁にもたれる形でベッドに腰をおろし、私はアリスの隣で彼の言葉を待った。
長い沈黙。
私の脳裏を、色々なことが駆け巡る。
ゼミで知り合ったこと、付き合っていた彼女と別れて私と付き合いだしたこと、好きだといってくれたこと。

姿を見せた闇は私に『嫌な予感』を植え付けていく。
冷静さを失わないように時々深呼吸しながら私はバラードが流れていくのを耳だけで追っていた。何も脳には入らない。

「俺……」
「うん」
「……まだ……好きなんやと思う」
「うん」

誰のことをなどと問う必要などなかった。理解はできても受け入れるということはまた違うことで。私は自分がひどく落ち着いていることに驚いていた。
首を少し回せば互いの表情が見えるのに、二人ともそうしなかった。二人とも臆病なのだ。

「恋愛感情じゃなくて罪悪感なのかもしれんけど……あの子への」

アリスはフォローなのかなんなのか良くわからない一言を付け加えた。

「罪悪感抱いてるんなら、まだ好きなんでしょう。彼女のこと」

何十秒か後に私はようやく言葉を発した。
正直困惑している。頭の中なんだか、腹の中なんだか知らないけど、悲しみと怒りが混ざって、そのどちらにも感情をゆだねることができなくて。
いっそどちらかに支配されてしまえればどんなに楽だろうか。

「別れて欲しい」
「いいよ」

私はできもしないのに、『理解のある女』のフリをしようとしていた。

再び長い沈黙。
何も考えられなかった。

「帰ったら?」

私からの提案。アリスは私に対して全く気持ちがないわけではないだろうけど、もうここにいるべき人ではなかったから。

「そうする」

私の部屋においている数少ない物の、それら一つ一つを、アリスは自分のカバンに詰めていった。見たくなくて、私は彼に背を向けて煙草を吸った。バラードはまだ流れ続ける。何かをあさる音、歩き回る重い足音、小さなため息。
上着を羽織る衣擦れの音。

「じゃあ、帰るから」

私は相変わらず無表情のまま、無表情しかできずに、煙草を揉み消した。立ち上がって玄関まであとを追う。

履きにくそうな茶色のブーツに足を突っ込んだだけで、アリスはこちらに向き直った。私は自分がどんな表情をしているかわからないけど、きっと無感動な視線をアリスに注いでいるだろう。刺すように。
闇は姿を『最後』に変えて私を侵食し続ける。最後。言葉が重みを伴って喉のおくにせりあがってくる感触。

「目、つぶって」

「花子……ええよ、わかった」

アリスは少し困った表情をして、数秒後にゆっくり瞼を落とした。

さようなら、すきだったひと。















軽い痛みが利き掌に走る。

アリスは驚いたように目を剥いた。

ぶたれたことにか、私が泣いていることにか。

「ありがとう」
「聞きたくない!早く出てって!」

眉根を困ったように寄せながら微笑んだアリスは言われたとおりにエレベーターのほうに歩いていった。

聞こえるか聞こえないかのように私はその背中に、サヨナラと告げた。


エレベーターが無機質な機械音を立て始めるのを聞きながら、私は、橙色の光の中に泣き崩れていった。

20061210