Crepuscule



番外編1:NOT FOUND

「眠った……かな?」

ジェーンは俺の手を握ったまま眠ってしまったようだった。薬を飲ませることが出来なかったけれど、起こすのはしのびない。じんわりと汗が滲むくらい熱い小さな手をそっと離し、台所へ向かった。氷嚢を作ってやりたいが、どうしようもない。病院で見かける大きなそれが一般家庭にあるはずがなかった。仕方が無いので、適当なタオルで代用することにしよう。

シンクにボウルを出して水道水を注ぎ、氷を足す。タオルと自分の手を浸すと、外の気温よりも冷たい。さっきまでジェーンに握られて熱を帯びていた手には心地よかった。流れる水を止めて、タオルをゆるく絞る。小さな額に収まるように畳みながら寝室へ向かった。ジェーンの寝顔は決して穏やかとは言えなかったけれど、落ち着いていた。汗ばんだ額にタオルを乗せると少し心地よくなったように見える。

そこまでやって、自分の髪を乾かしていないことに気づいた。俺の首にはタオルがかかったままで、半乾きの髪が急に気になってくる。ドライヤーの音が眠るジェーンの邪魔にならない様に寝室のドアを閉めて、リビングで髪を乾かした。
あいつは、きっと髪を乾かさずに寝てしまって風邪をひいたのだろう。もちろん、疲れも溜まっているだろうし、昨日の昼間に言ったように環境の変化で心身共に影響を受けているのかもしれない。熱風で水滴を飛ばしながら何か釈然としない、というより落ち着かない感じがしていた。それがなんなのか、気づくことも出来ぬまま。

自分の朝食を作ろうとして、冷蔵庫にオレンジがあることに気がついた。いつもなら外で食べるし、ジェーンが来てから食事自体作ることがなかったので久しぶりに冷蔵庫の中をじっくり見たけれど、オレンジなんて買っていただろうか。惹かれるようにその鮮やかな球体に手を伸ばした。鼻腔をかすかに掠める香り、自分では食べる気にはなれないけれど、寝込んでいるジェーンに剥いてやろうと思った。

「とりあえず、自分の朝食を……」

ここ数日に比べるとずいぶん質素かつ簡素な朝食を終えて寝室へ入ると、苦しくて寝返りをうったのだろうか、ジェーンの額に乗せていたはずのタオルが落ちていた。それに手を伸ばしてみれば、まだ冷たいままで。そんなに具合が悪いのかと思い、額に軽く触れてみるとやはり熱かった。汗で額に張り付いた髪を除けて、汗を拭ってやる。ジェーンの吐き出す息が手にかかって、それすらも熱くて。
一度目を覚ましたら、解熱剤を飲ませた方がいいのかもしれない。ダイニングに引き返して引き出しの中を探してみたけれど、胃薬と簡単な救急道具しかなかった。元々、頭痛などに見舞われることもそうないので鎮痛剤の類はなかったから、仕方がないといえば仕方が無い。けれど、苦しんでいるジェーンに対してどうしようもないくらいの申し訳なさがあった。
解熱剤は諦めて、防音室の書架から適当な本を数冊、ダイニングから椅子。それらを抱えて寝室に入ると、ふと違和感を感じた。

何故、俺は寝室に椅子まで運び込んでいるのだろう。

いつもなら、防音室でピアノを弾いたり軽く仕事をしたり、本を読むのならソファーでレコードを聴きながらなのに。
ジェーンが風邪をひいていて、心配だからか?
それは、「傍にいて」なんて言われたからなのか?
それとも自分がそうしたいからか?
考えたところで答えは出ないし、運んできた椅子を抱えて引き返すのも億劫なのでそのままベッドサイドまで歩いた。それすらも無理矢理自分を納得させているような感じが否めないけれども。

椅子に座り、買ったままで少しも読んでいない本を読み進めること、どれぐらい経っただろうか。

「う…………ん……」

ジェーンの呻くような声に顔を上げると、熱の所為ではない苦しさが彼女を襲っているようだった。
栞も挟まずに本を閉じて、ジェーンの様子を見るためにベッドに片手をつく。どこか尋常ではない。苦痛か、それ以外の何かか、わからない。
ジェーンは身を捩って呻き続ける。いっそ起こしてしまう方がいいのだろうかと思ったそのとき、白い頬を涙が一筋落ちた。
無意識に、片手で頬に触れていた。

悲しいのか?

つらいのか?

「……す…………けて……」

苦しそうな表情をしたまま、ジェーンが呻いた。よく聞き取れず、口元に持っていった俺の耳に聞こえたのは

「        」

知らない、男の名前だった。

「助けて…………」

自分の髪が、一呼吸おいてジェーンの顔に滑り落ちた。彼女がくすぐったそうに顔を横に背けたのがかろうじて判ったぐらい、俺は動揺していた。ゆっくりと頭を上げて、涙の伝う頬を見つめた。
昔の恋人の名前だろうか。そいつに、今、お前は助けを求めているのか?
あれほど、あれほど言っていたのに。

『散々遊ばれて、貢がされて、挙句の果てにポイ、よ』

『吹っ切れてる』

ジェーンが、頬に添えられた俺の手首を軽く掴んだ。それを、俺は振り払い、逆に細い手首を掴んでベッドに縫付けた。壊さないように、そう思っているのに、どうしようもない感情でスプリングが悲鳴を上げた。
まだ目を覚まさない。うなされているのを見ていて良い気分がするわけがない。けれど、起こす気になれなくなったのは何故だろう。

「どうして俺に頼らない…………」

体重の半分ぐらいが、ジェーンの顔の両脇についた腕に掛かり、俺が少し動くだけでギシギシと不快な音が鳴る。
恋人でもなんでもない。成り行きの同居人。風邪をひいてしまった食事係。うなされるか弱い女。
どれも当てはまるし、どれも違う気がする。
ただ、ここにいない男の名を呼ばれて、酷くうろたえた。体の奥が締め付けられるような感覚が何なのか、どうだっていい。

俺は自分の額をジェーンのそれに当てた。

熱い。

汗ばんでいて、ジェーンの呼吸も熱くて、不思議に甘い香りがして。

歯止めが効かない唇が触れそうになった。

「…………ダメだ」

俺は自分を嘲笑して顔を上げ、両手も離した。髪をかきあげて呼吸を整える。馬鹿みたいに心臓の鼓動が速い。
あのまま、感情に任せていたら…………それこそ本当に歯止めが効かなくなってしまう。何かを拭うように、袖で顔をこすった。
確実に、自分の中で何かが変わっている。けれど今はそれを考えない方がいいことは簡単にわかる。知らない方がいいことだって、世の中には存在するのだ。気づかない方が、いい。

「ん……」

声に気づいて視線をジェーンに移すと、うっすらと目を開けている。目が覚めたのだろうか、しかし視線はうつろでどこを見つめているのか判らない。努めて平静を装って椅子に腰掛けて、ジェーンの手を握った。今度こそ、やさしく。

「大丈夫か?」

具合のことと、うなされていたことと、まとめて聞いているなんて思いもしないだろうな。

「のど……かわいた」
「わかった」

かなり汗をかいているようだからそれもしょうがない。サイドテーブルに置いていたスポーツドリンクはぬるくなっているのが、ペットボトル越しにでも分かった。ジェーンは軽く上半身を起こして、俺が蓋を開けたペットボトルを受け取った。三分の一ほどを飲み干すと、再び布団の中にもぐりこんだ。
俺の手を握りながら。

「手……握ってていい?」
「ああ」

安心したような顔。
それでいい。

支えになれるなら、例えそれがこの一瞬だけだとしても。

20080319



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