「昼飯、食いに行かないのか?」
正午を15分ほど回ったころ、ケリィは怪訝そうにガトーに言葉をかけた。いつもなら馴染みの店にランチメニューを食べに行っているはずのガトーはまだ机の前に腰掛けている。ケリィは宅配ピザでも取ろうと思っていたので、もし外出しないのならガトーの分も取ろうと思い、その旨たずねてみたが彼はどこか上の空で辞退するだけだった。
釈然としないまま、ケリィが電話をかけているとガトーは上着も持たずに出て行った。その背中にかけようとした言葉は、つながってしまった電話の所為で諦めざるを得なかった。
ガトーはネクタイを緩めながら、屋上への非常階段を登っている。
踊り場で息をついて、携帯電話のアドレス帳を呼び出した。
かかるか、かからないか。
目的の番号へかけてみる。
4回ほど呼び出し音が鳴った後で、女性の声が鼓膜を震わせた。賭けは成った。
『もしもし?』
相手は誰がかけてきているのかわからないような声色だった。仕方のないことかもしれない。苦笑もせずに、ガトーは口を開いた。
「私だ。ガトーだ」
一瞬、相手が息を呑んだのが伝わりそうだった。
『……久しぶりね』
「ああ。モーラから聞いた。こっちに来てるそうだな」
『モーラから?……ええ。こっちで仕事をしてるのよ。インテリア関係の』
「そうか」
『何故、かけてきたの?』
明確な目的は、ないわけではない。ただ、言葉にするというのは非常に難しいことだった。黒い鳥が視界を横切って飛んでいく。
「色々言いたい事もあるし、自立したんだな、そう思って」
『そりゃあ……私だってあの頃とは違うわ』
昔だったら、ニナは今の言葉で機嫌を損ねていただろうな、と今度こそ苦笑してしまう。時間と言うのは、残酷なのだろうか。それとも、救いなのだろうか。
「謝らなければいけないと思ってた」
『え?』
「過去を穿り返すようで悪いけれど、あの時言いすぎたと」
『ああ、もういいのよ。謝らないといけないのは私のほうだし、むしろ感謝してる』
踊り場で立ち止まっていたガトーは、一段ずつ階段を登り始めた。
『あのくらい言われなきゃ、私、ダメなままだった。あの後留学もしたわ。いろんなものを見て回ったの。建物も、家具も、職人の方ともいろんなお話をしたわ』
相槌を打たないまま、屋上は近づいていた。
『そりゃあ、正直に言えばあなたの言葉に対する反発がきっかけだった。でもね、』
階段の手すりにとまっていた鳩が、大きく羽根を羽ばたかせて飛んでいった。それを、立ち止まって無言で見送っていた。
『それでよかったと思ってるの、今は』
電話の向こうで、満足そうに息をはくような音が聞こえた。再び、ガトーは屋上への階段を踏み込む。
「それなら、俺も少しは救われた気分になる」
『気に病んでたの?……そうね、そんな性格だものね』
「からかってるのか?」
ふふ、と軽やかな笑い声が聞こえた。
『そうじゃないわ。でも、もっと力を抜いてみてもいいんじゃない?』
新しい恋人ぐらいいるんでしょう?、ニナは茶化すようにたずねてきた。
「残念ながらそんな存在は……」
『あら、そうなの。じゃあやっぱり色々考えすぎなのよ』
「耳が痛いな」
『恋はしてるみたいね』
「……何故?」
『女のカンよ』
ため息をついて答えをごまかすと、しばらく無言でいたニナがしんみりと話し出した。
『……ありがとう』
屋上まで、あと5段。
『こうして、電話をしてくれて……私もすっきりしたわ。思えば心のどこかで釈然としないまま月日だけが流れていたのね』
まったく同じことを思っていた。
「そうだな」
『馬鹿ね、私達』
「でも、学習した」
『大人になれたかしら?』
それは、誰にもわからない。
『モーラのお店で会うかもしれないわね、そのときは、よろしくね』
「ああ」
『それじゃ』
階段を登りきるのと同時に、通話は終わった。
携帯電話をシャツの胸ポケットに突っ込む。肌を掠める風がどこかさわやかで心地よかった。
遠くで白く尾を引く飛行機の音が、まるで聞こえてくるようだった。
20080417